序章
『赤いブレーキランプ』
登場人物設定
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下田家(加害者側)
下田 孝介
47歳。
大阪府堺市堺区在住。
泉大津市の臨海工業地帯にある大手化学メーカー「阪和ケミカル株式会社」泉大津営業所の販売部長。
外面はよく、仕事もできると見られているが、慢性的な苛立ちを抱えている。運転中に感情が荒くなりやすい。
下田恵子
45歳。
孝介の妻。
堺市内の調剤薬局でパート勤務。
家の空気を壊さないように、いつも言葉を選んでいる。夫の機嫌の波に気づいているが、真正面からは触れられずにいる。
下田 美月
小学6年生、12歳。
孝介と恵子の長女。
しっかり者で、空気を読むのが早い。父が疲れていると察すると、自然と弟に「今は静かにしとき」と言える子。
下田 翔太
小学4年生、10歳。
孝介と恵子の長男。
明るく無邪気で、野球が好き。父にキャッチボールをしてほしいと思っているが、最近はなかなか言い出せない。
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佐藤家(被害者側)
佐藤 祥子
41歳。
大阪府堺市西区在住。
家族を支える母。
派手さはないが、食卓の味も、朝の声かけも、子どもたちの持ち物も、家のぬくもりの大部分を担っている。
佐藤 幸弘
43歳。
祥子の夫。
堺市内の中堅物流会社勤務。
寡黙だが誠実で、家族思い。忙しくても、夜にはできるだけ子どもたちの話を聞くようにしている。
佐藤 恒一
中学1年生、13歳。
祥子と幸弘の長男。
サッカー部に入ったばかり。少し反抗期が始まり、母にぶっきらぼうな返事をしてしまうこともあるが、本当は家族思い。
佐藤 結菜
小学5年生、11歳。
祥子と幸弘の長女。
本を読むのが好きで、絵も得意。母の手伝いを自然にできる優しい子。下の妹の面倒もよく見る。
佐藤 陽菜
小学2年生、8歳。
祥子と幸弘の次女。
甘えん坊で、おしゃべり。ランドセルを背負ったまま、その日の出来事を一気に話し出すタイプ。母のことが大好き。
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『赤いブレーキランプ』
序章
まだ、誰も知らない朝
三月の終わりが近づいていた。
春が来ると言いながら、朝の空気にはまだ少しだけ冬が残っている。
大阪湾のほうから流れてくる風は乾いていて、堺の町を静かになでていった。
朝六時十二分。
堺市西区の住宅街にある佐藤家の台所では、最初の音がもう鳴っていた。
味噌汁のふたが、こと、と小さく揺れる。
玉子を割る音。
包丁がまな板を叩く、軽いリズム。
炊飯器の湯気がほそく上がり、換気扇の低い回転音がその上を流れていく。
佐藤祥子は、髪を後ろでひとつに束ねたまま、フライパンに箸を入れた。
少しだけ焦げ目のついたウインナーを返しながら、背中越しに時計を見る。
「……そろそろやな」
独り言のように言って、コンロの火を弱める。
次の瞬間、二階からどたどたと足音がした。
「お母さん! 陽菜がまだふとん出てへん!」
階段の途中から声を張ったのは、結菜だった。
「結菜、先に顔洗っといで。陽菜は起こすから」
「さっきも起こしたもん!」
「もう一回だけ頼む。お姉ちゃんやろ」
「そう言うて、結局いつも私やん」
ぶつぶつ言いながらも、結菜の足音はまた二階へ戻っていく。
祥子は思わず笑った。
この家の朝は、たいていこんなふうに始まる。
長男の恒一は、中学生になってから起きる時間だけは妙に正確になった。
目覚ましが鳴る少し前に起きて、黙って制服に着替える。
そのかわり、声は前より少なくなった。
小学生のころみたいに、「今日な、学校でな」と自分から話し出すことは減った。
結菜はしっかり者だが、時々、自分ばかり損をしていると思う年頃になってきた。
陽菜はまだ家の真ん中で太陽みたいに動く。
眠い、寒い、お腹すいた、見て見て、聞いて聞いて。
感情が全部、そのまま口から出てくる。
祥子は、そういう朝の流れを身体で覚えていた。
誰が何時に起きて、誰が何を忘れやすくて、誰が何を嫌がるか。
考えなくても手が動くくらいに。
「おはよう」
低い声がして、幸弘が台所に入ってきた。
まだ少し眠そうな顔のまま、ネクタイを片手に持っている。
「おはよう。コーヒー入れる?」
「頼む」
「今日は早いん?」
「ちょっと荷の動き多いらしい。朝イチで確認ある」
「そっか」
それだけの会話だった。
でも、その短さの中に、夫婦として積み重ねてきた時間があった。
言葉が少なくても、機嫌や疲れはわかる。
話さなくても、今日が忙しい日なのは顔を見れば伝わる。
祥子はマグカップにコーヒーを注ぎながら、ふと聞いた。
「今日、帰り遅い?」
「たぶん七時は回るかな」
「ほな先に食べとく?」
「みんな待たんでええよ。恒一も部活やろ」
「うん」
返事をしたとき、二階からまた声が落ちてきた。
「お母さーん! 陽菜が『あとさんぷん』って言うて起きへん!」
「その“あとさんぷん”が長いねんて!」
今度は祥子も少し声を張った。
すると、間を置かずに、くぐもった小さな声が二階から返ってくる。
「……さんぷん……」
幸弘が吹き出した。
祥子も、つられて笑った。
「毎朝よう飽きんな」
「ほんまに」
こういう、なんでもないやりとりが、家を家にしていた。
そのころ、堺区のマンションの一室では、別の朝が始まっていた。
下田家のリビングは、佐藤家よりずっと静かだった。
物が少なく、整っていて、テレビもまだついていない。
ダイニングテーブルの上には、昨夜のうちに並べられた学校の連絡帳と、きれいにたたまれた給食エプロンが置かれている。
下田恵子は、トースターの前で食パンが焼けるのを待ちながら、壁の時計を見た。
六時二十分。
そろそろ夫が起きてくる時間だった。
奥の寝室のドアが開き、下田孝介が出てくる。
ワイシャツ姿のまま、無言で洗面所へ向かう。
恵子は「おはよう」と言ったが、返ってきたのは短い「ああ」だけだった。
機嫌が悪い、というほどではない。
ただ、いつも余裕がない。
孝介は、もともとよくしゃべる人ではなかった。
結婚してすぐのころは、今よりもっと柔らかい声で話していた気もする。
仕事の話をしながら笑うこともあったし、子どもが小さいころは、休日に公園へ連れていくことも珍しくなかった。
それがいつからか、朝は特に、言葉が減った。
洗面台から戻ってきた孝介は、スマートフォンの画面を見ながら椅子に座った。
ニュースの見出しを追う指の動きが、やけに速い。
「今日、泉大津のほう混むって。工場の搬入口、朝から一部規制らしい」
恵子が控えめに言う。
「ああ」
「少し早めに出たほうがええかも」
「わかってる」
そこで会話は切れた。
美月が制服姿で部屋から出てきて、「おはよう」と言った。
孝介はスマホから目を上げて、「おう」とだけ返した。
翔太はまだ眠そうな顔で、片方の靴下だけ履いたままリビングに現れた。
「お父さん、今度の日曜さ、キャッチボール――」
「翔太、先にちゃんと着替えなさい」
恵子がやんわり遮るように言った。
翔太は口をつぐみ、「はーい」と言って引っ込んだ。
美月はそのやりとりを見ていたが、何も言わなかった。
孝介はトーストをかじりながら、スマホの画面を見続けていた。
その表情は険しいわけでもない。ただ、いつもどこかに急いでいる顔だった。
七時を過ぎるころ、佐藤家ではようやく全員が食卓についた。
「いただきます!」
陽菜が一番大きな声を出し、それに少し遅れて結菜と幸弘が続く。
恒一は「……いただきます」と小さく言った。
「今日な、図工で絵の続き描くねん」
結菜が味噌汁をすすりながら話し出す。
「へえ、何の絵?」
「校庭。桜まだ咲いてへんから、想像で描かなあかんねん」
「結菜、そういうの得意やもんな」
祥子がそう返すと、結菜は少し嬉しそうに「まあな」と肩をすくめた。
「陽菜は今日な、音読ある!」
「ちゃんと大きい声で読める?」
「よめる! でも“きゃべつ”って言いにくい」
「キャベツはキャベツやろ」
恒一が思わず口を挟む。
陽菜はむっとして、「言いにくいもん」とふくれる。
その顔があまりに真剣で、食卓に小さな笑いがこぼれた。
幸弘はトーストをかじりながら、その光景を静かに見ていた。
毎朝、同じようで少しずつ違う。
子どもたちの声の高さも、話す内容も、食べる速さも、去年とはもう違っている。
こんな時間が、ずっと続くわけではない。
そんなことは、誰だって頭ではわかっている。
それでも人は、続くものとして朝を迎える。
食べ終えたあと、祥子は玄関で陽菜のランドセルを整えた。
肩ベルトが片方ねじれているのを直し、ハンカチが入っているか確認する。
「はい、これ持った?」
「持ったー」
「連絡帳は?」
「……あ」
「ほらな」
結菜が呆れたように言う。
陽菜は舌を出して笑い、またぱたぱたと戻っていく。
恒一は先にスニーカーを履き、ドアの前で待っていた。
祥子がその背中に声をかける。
「部活のタオル、入れた?」
「入れたって」
「ほんまに?」
「ほんまやって」
「あとで“忘れた”言うても知らんで」
「言わん」
少しだけ不機嫌そうに返したあと、恒一は小さく付け足した。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
祥子は、その背中を見送った。
いつまでこうして送り出せるのだろう、と時々思う。
中学生になれば、親の手から少しずつ離れていく。
娘たちも、そのうち友だちとの時間を優先するようになる。
家の中の中心にいた母親は、気がつけば少し外側に立っているのかもしれない。
それでも今はまだ、朝になれば「おはよう」と言って、
玄関で靴をそろえ、「忘れ物ない?」と聞ける距離にいる。
祥子はそれで十分だった。
下田孝介は、七時二十八分に家を出た。
黒いセダンのドアを閉める音は乾いていて、マンションの駐車場に短く響いた。
車内に入ると、すぐにエンジンをかける。
カーナビが起動し、ニュースの音声が流れ始めるが、孝介はすぐにそれを切った。
無音の車内。
ハンドルに置いた両手。
バックミラー越しに見える、自分の少し疲れた顔。
「……また月末か」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
営業所では、今日も数字の話が待っている。
得意先の反応、在庫、価格、競合の動き、本社の圧力。
部長という肩書のわりに、思い通りになるものは少ない。
部下は言われたことしかしない。上は結果だけ見る。
家に帰れば、子どもは大きくなっていて、前みたいに無邪気にまとわりついてこない。
自分だけが、ずっと何かに追われている気がした。
車は堺の町を抜け、臨海方面へ向かって走り出す。
信号、合流、右折車線、トラック、配送車、通勤の軽自動車。
道路には、今日も無数の人間の事情が流れていた。
そのどれもが、まだ平凡だった。
まだ誰も知らない。
この道のどこかで、
何気ない怒りが、人の命を止めることになるなんて。
この朝、
佐藤祥子はいつものように家族を送り出し、
下田孝介はいつものように車に乗った。
それだけだった。
ただ、それだけのことが、
やがて取り返しのつかない一日へつながっていく。
赤いブレーキランプは、
まだどこにも灯っていなかった。




