どこかで見た、この風景
「スタンウォール公爵令嬢レオフィルド・アシュワース、貴女との婚約を破棄する!」
その言葉が耳に入った瞬間、レオフィルド・アシュワースは、目を細めながら、思った。
(またか……)
美しく着飾った人々が笑いさざめき、金細工や宝玉がきらめきを放つ、光溢れる華やかなボールルーム。鳴り響く華麗な舞曲。その中でも間違いようのない音量で告げられた、誤解のしようもない婚約破棄宣言。
レオフィルドは、彼女を詰る宰相公爵ウィタンリク家令息と、申し訳なさそうに彼に寄り添う、実に楚々としたウィローデン伯爵令嬢を、感情の読めない目で見据えていた。
舞踏会に婚約者が帯同してくれなかった時点で、彼女の覚悟はできていたのかもしれない。
確かに一度目はショックだった。二度目も混乱した。だが、三度目ともなると、最早、「またか」としか処理できなくなっている。
(流石に多いな。父上に何と申し開きをしたものか。原因の精査は必要だが……それにしても、レジナルド様もこのような衆人環視の場で、何と無礼な。いや、女だから、このような場だから、何もできぬと踏んでか? 帯剣さえしていれば、三歩で間合いだと言うのに。舐められたものだ。あちらは、ウィローデン伯爵家の……アデル嬢だったか。ずいぶんと家格が釣り合わん相手だな。淑女の鑑とのお噂だったが、このような無謀をする方なのか?)
「聞いているのか、レオフィルド!」
業を煮やしたレジナルドが怒鳴り、思考に没頭していたレオフィルドは我に返った。
聞こえていないわけでも、聞いていなかったわけでもなかった。ただ、彼の言い分そのものは、過去二度の婚約破棄の理由と大差なく、集中してまで耳を傾ける価値を見出せなかっただけだ。いかに、自分と家と爵位を傷つけることなくこの場を切り抜けるかが、現時点で彼女が自身に課した最大の使命だった。
冬空に似た青灰色の瞳を細めると、彼女は落ち着いた柔らかなアルトの声で答えた。
「聞いております。私との婚約を破棄すると。理由は、私が余りにも可愛げがなく、まるで氷のようであるという主旨でした」
「……っ、要約するな!」
「それでは、一言一句、復唱をお望みでしたかしら?」
「違う!」
レジナルドの顔は、怒りのあまりか、赤くなっている。
「レジナルド様。仰っていた理由では、婚約を破棄するに値するとの判断は難しいと思われますわ。そして、正当な理由なき婚約破棄は、認められぬはず。また、我らの婚約は我らのみならず、両家の合意のもの。貴殿のお父上の宰相閣下、また、我が父にも諮った上でのお言葉なのですか? 仮にそうだとしても、このような衆目の場で、大声で宣言なさるとは、無作法にも――」
「そういうところだ! 理屈ばかりこねて、二言目には、この私に意見ばかりする!」
レジナルドは、レオフィルドの言葉を遮った。
「アシュワース家の令嬢が婚約を二度も破棄されているなど、おかしいと思ってはいたが……。貴女は女の皮を被っただけの『男』だ!」
「レジナルド様、そのような……」
アデルが、ますます顔色をなくして、小さな声を上げる。レオフィルドは、おや、と思った。
「案ずるな、アデル。貴女の花のような笑顔も、穏やかな言葉も、全てが私を癒してくれる。貴女は私の理想だ」
「いえ、あの、そうではなく……私は何も、レオフィルド様と……」
どうにも歯切れが悪く、狼狽えているアデルを前に、レオフィルドは再び考え始めた。
(まさか、アデル嬢にも無断で、レジナルド様はこのような暴挙に? あの宰相閣下のご子息、ご立派な兄上様の弟君のなさりようとは思えぬ短慮だ。だから、私を娶りスタンウォール公爵位を手に入れようと? 宰相閣下も、我が家を、私を何だと心得ていらっしゃるのか?)
「レオフィルド、貴女との会話は、政敵との舌戦にしかならない。そのような女性との結婚など、願い下げだ!」
「政敵……?」
レオフィルドは、わずかに眉を吊り上げ、周囲の空気が凍りつくような視線を送った。
「我が家は王家に剣を持って仕え、王国の為に尽くして参りましたわ。方法こそ違えど、志はウィタンリク家と同じと。それを、斯様な仰いようとは。……レジナルド様のご意向、承りました。アシュワースを、ウィタンリク家の政敵と誤認させるほど、私との会話が不快でしたのですね。申し訳なく思います。ですが、誤解なきよう。アシュワースに、宰相閣下と敵対するつもりなど、毛頭ございません。父には、私からも申し上げておきますわ。レジナルド様におかれましては、適切な手続きの上で、婚約解消の手続きを進めて頂くよう、お願いいたします」
一息に言い切ると、レオフィルドは、完璧な所作で一礼した。
今年ようやく十五歳に手が届こうという若さにもかかわらず、彼女は、家全体にかけられた「政敵」の言葉のみを否定し、婚約破棄自体は受け入れたのだ。
「では、私はこれで失礼いたします。アデル様、どうぞレジナルド様を癒して差し上げてくださいませ。もしそれが本当に、貴女のご意志なのでしたら、ですが。別のお考えあってのことでしたら、私、聞く耳は持っておりますの。ウィローデンの名を汚すことのないよう、懸命なご判断を期待いたしますわ」
婚約破棄を宣言されたばかりとは思えないほど、真っ直ぐに顔を上げ、瞳には、涙の一つ、声にも表情にも、動揺の影すら浮かんでいない。
居合わせた人々はさざめいた。アシュワースの令嬢は、氷の薔薇姫の呼び名通りのお方なのだろうか。それでは、レジナルド殿が淑女の鑑に傾くのもやむを得ない。いや、さすがに、宰相閣下のご次男とはいえ、あまりにも無作法、アシュワースの令嬢は立派だ。様々な声が渦巻く。
最早何の興味も未練もないとでも言うように、レオフィルドは、人々の声を背に、優雅に立ち去った。そのまま従者に帰宅を命じ、公爵家の馬車に乗り込む。
馬車の中、衆人の視線から逃れると、レオフィルドは、一つ溜息を吐き、呟いた。
「氷の薔薇姫だの、女の皮を被っただけの男だの、好きなように言ってくれる……」
由緒ある公爵家の令嬢であっても、十五歳に満たない少女が、悪意をぶつけられ、侮辱され、好奇の視線に晒されては、傷つく。
花を模した繊細なジュエリーに飾られ、鮮やかなターコイズブルーのドレスに包まれた自分の身体を見下ろす。
未だ少女らしく、胸の膨らみも控えめ。それなのに、身長はすくすくと伸びている。
「女らしくは、ないのだろうな。反論はできん……」
繊細なレースの手袋を外すと、そこにあるのは、公爵令嬢らしからぬ、剣を握る者の手だった。
スタンウォール公爵は、長年王家に武勇で仕えた功績から賜った爵位であり、そんな家なものだから、アシュフォード家では、女子も剣技を嗜むことになっている。何事にも熱心なレオフィルドの剣の腕は、「嗜む」レベルを遥かに超えてしまった。
「ならばいっそ、本当に男であれば良かったものを。そうであれば、このような面倒もなかったのに、忌々しい」
当面の問題は、三度も婚約を破棄されてしまった不名誉な事実と、父であるスタンウォール公爵ハロルドの反応だった。
「可愛げか……。可愛げとは、何だ?」
馬車の窓に映る、淡い金髪を編み込み、美しい髪飾りを刺し、薄く化粧が施された少女の顔を、侍女たちはお美しいと黄色い声で褒め称える。主家の娘への世辞が入っているとしても、無理に言わされているふうにも思えない。美貌で知られた亡き母の面影があると、父も言っていた。よって、造形の問題ではない。
「やはり、性格の方、か」
レオフィルドは顔を覆った。
三度、同じことを言われている。言葉が多い、賢しげに振る舞うな、男の話に口を挟むな、なぜただにこやかに相槌を打つだけのことができないのだ……。
退屈極まりない自慢話も、着地点の見えない世間話も、見込みが甘すぎるとしか思えない将来の話も遮らず、無知な小娘のように扱われても異議を唱えず、絶えず微笑みを浮かべて、婚約者を慰労し盛り立てお膳立てしなければならないのだとしたら。今後の婿候補からも、それを求められるのだとしたら。
「無理だ……そんな私は、私なのか?」
言葉が漏れ出る。
それでは、アシュフォードの血を保証するだけの容れ物だ。そこに貼られたレオフィルドというラベルを、婚約者に気に入られるために、剥がして捨てよと言うのか?
「小娘と侮るくせに、子ばかりは期待されるとは。だが、猶予はあと数年もない……」
公爵令嬢に求められるものを、その地位以外持ち得ない彼女と、従順な淑女を期待する男性。この組み合わせが続く限り、婚約は破棄され続けるだろう。レオフィルドに婚約者が決まらず、結婚もできず、後継が産まれないとなれば、アシュフォード直系によるスタンウォール公爵位後継は暗礁に乗り上げる。一旦は引いた叔父達が口出しして来るのも、時間の問題だ。
「せめて、私自身で婿殿を探すことができないものか……」
ふと呟いて、レオフィルドはハッと顔を上げた。
「私自身で、探す……?」
その言葉が、天啓のように思えた。
自分自身の目で、思考様式や素行を吟味して、爵位と淑女だけが目当てではない、アシュワース家を、スタンウォール公爵位を共に背負い支えられるだけの人物を見つければ良いのではないか?
そんな男性は、どこになら、いそうか?
どうすれば、会えるのか?
スタンウォール公爵令嬢として、パーティに出ているだけでは、会える人間が極めて限られる。その上、また淑女を期待されては、氷のようだと勝手に幻滅されるだけだ。令嬢に向けられる虚飾など抜きに、初手から本性を探っていかなければ。お付き合いを深める中で徐々に分かり合い、その上で婚約破棄されては次を探すなど、悠長なことを言っていられる状況ではなくなってきている。
頭の中で、様々なピースが高速で組み上がり、一つの絵を描く。あとは、実現可能性の検証と、それを父に呑ませることのみ。
ジュエリーを全て外し、結い上げた髪を解く。父のように、後ろで一つに結べる程度の長さに切ったら、私は、どう見える?
そして、女性としては未成熟な細身の身体。例えば、この、まだ膨らみの小さな胸を、もっと締め付けて、平らに見えるようにしたら?
窓に映る姿を確かめ、想像する。
「女の皮を被った男だと言うのなら……利用させてもらおうじゃないか」
ボールルームでの惨めな気持ちが、少しずつ浮揚する。窓に映る思慮深げな顔も、婚約を破棄された哀れで儚げな少女というよりも、策略を巡らす凛々しい少年に見えてくる。
「だが、男装したところで、騎士団への潜入は……となると、潜入先として適切なのは……」
大それた計画を抱えた少女を乗せた馬車は、スタンウォール公爵邸の門を潜った。




