1話 佐藤健一
朝の東西線は、地獄の様相を呈していた。
佐藤健一(42歳)は、ドアに押し付けられ、文字通り「詰め込まれた荷物」の一部と化していた。右腕は自分の鞄に挟み、左腕は吊り革を掴むこともできず、隣に立つ女性の肩に近い場所で固定されている。
(……まずい。この体勢、誤解される)
嫌な汗が背中を伝う。電車が大きく揺れた。
佐藤の身体がわずかに傾き左手の甲に柔らかい感触が
その瞬間、隣の女性が鋭い声を上げた。
「……ちょっと! 何するんですか!」
車内の空気が一変した。周囲の乗客の視線が、一斉に冷たい刃となって佐藤に突き刺さる。
「いや、違います! 揺れただけで……!」
「触りましたよね? 今、確かに!」
佐藤の頭が真っ白になる。無実を証明する術はない。このまま駅に着けば、人生が終わる。以前ネット動画で見た可哀そうな彼に私がなるのか。日常が足元から崩れ去っていく音が聞こえた。
膝から崩れ落ちるとはこういうことか
人生の終わり
頭が真っ白ではあるはずなのだが、昔見たアニメの主人公が絶望した姿を思い出した。
こんなときにも冷静な自分もいるのだな
一瞬で様々な感情が走り去っていく中でふと視線の中に異物が混じった。
見慣れた世界が私を注視する中で人々の隙間を割り、「異物」が滑り込んできた。
上半身は小太りな裸。竹刀をベルトでまいている。下半身は古びた袴。クロックス。角刈り。
「!?」
この非現実な状況の中で、追い打ちをかけるような状況に佐藤の思考はストップした。
『破廉恥!』
そう叫ぶと異物は満員電車に関わらずモーセの如く人を割り私に近づいてきた。
私に向けられていた視線を全て奪われてしまった。
『破廉恥』
先ほどより小さい声だが何かを決意した力強い声
しゅるしゅる
ベルトから竹刀を抜き取る彼の顔から感情は読み取れない。
竹刀の切っ先が私を向いた。
「私はやってない!!」
無意識に叫んでいた。
剣道はすごい。早い。
言い終わる前に彼の竹刀は隣の彼女の脳天を叩きつけていた。
女性が沈黙し、周囲の乗客が恐怖で凍りつく中、無慈悲にも電車のドアが開く。
『プシュー』
あまりに日常的な退避音が、この狂気の幕引きを告げた。
彼はクロックスの音を響かせながらホームへと降り立つ。誰も彼を止めない。彼の歩く先には、自然と「道」ができる。
佐藤は、その異様な背中を追うように電車を降りた。
不思議と、怒りも恐怖もなかった。ただ、今まで自分が必死にしがみついていた「42年の常識」が、あの竹刀の一撃で粉々に砕け散ったことだけを理解した。
今日はこのまま家まで歩いて帰ろう。
「……明日、会社、辞めようかな」
佐藤は非日常を歩き出した。




