001 吾輩は
暖かな木漏れ日が草花を照らす緑豊かな森の中。
比較的背の高い草の隙間を、ガサガサとかき分けて黒いナニカが這い出てくる。
ソレは小動物よりは大きな体つきをしていた。全身が闇のように真っ黒な毛に覆われ、毛並みはお世辞にも良いとはいえない。二つある眼は怪しく輝いており、ゆらゆらと揺れる尻尾はまるで見るものを惑わせる蜃気楼のようだった。
二つで一対の耳は小さいながらに尖っていて、口もとからは鋭い牙と多量の涎が覗いていた。
そう、それは誰もが恐れる漆黒の捕食者────。
人を惑わせる魔性の見た目と獰猛かつ俊敏な動き、そして鋭い爪と牙で獲物に襲い掛かる────。
黒きハンター………もとい、黒猫。
とにかく腹を空かせた黒猫。
────ていうか、俺だ。
吾輩は猫である。名前はまだない。
まさか冗談ではなくガチでこの言葉を使う日がくるとは思わなかった。
そう。俺は目覚めたら猫になっていた。そして森の中にいた。
目覚める前の最後の記憶は、借金で首が回らなくなって、大雨の中夜逃げ同然に家を飛び出た真夜中のことだ。あのとき俺は確かに、信号を無視して道路に飛び出て、そして車に引かれた。
そのはずだ。生々しい痛みと衝撃の感触だって残ってる。
だが、俺はこうして猫になって目が覚めていたのだ。
目が覚めた直後の俺は困惑した。めちゃくちゃ混乱した。
そりゃそうだ。ラノベじゃないんだから、猫として生まれ変わるとかあり得ないだろう普通。
だがひとしきり混乱したあとは、逆に歓喜に舞い上がった。
なにせ転生である。ゲームや漫画で散々見てきたあの転生。
人じゃなく猫なのが残念だが、まぁそれでもただ死ぬよりはずっとマシだ。
借金も実質帳消しでハッピー&ラッキー。
ここからは今までの行動を悔い改めて、裕福な家に飼われてだらだらと人生改め猫生を謳歌しようと俺は決めた。
────で、それが数日前のこと。
それからの俺は、とりあえず人に出会うべく森を彷徨った。どっちに何があるとか何も分からんので、とにかく適当に、ただ真っすぐに。
だがそれが良くなかったのか、それともそもそもこの森が人なんていないめっちゃ広い場所なだけなのか、俺は迷った。
まぁ当然だ。自然にできた森とかまともに歩いたことないし。
知らない森の中を放浪して遭難しないわけがない。
その間、食べられそうなものも探した。
が、ない…!
せいぜいが木の実が多少といった程度で、到底腹を満たすのには足りない。
水もなく、近くに川がありそうな気配もない。
動物もいない。時折鳥の鳴き声は聞こえてくるが、それも遠いし、そもそも鳥がいたところで今の自分に捕獲できる気はしない。
仮に動物がいたとしても、捕獲して食べられたかは怪しいところだが。
そうして今に至る。
力なく地面に倒れ伏し、空腹を紛らわすために酷く不味い草をむしゃむしゃと食べる黒猫もとい俺。
もう目覚めてから何日目かは分からない。
疲れて数えていないが、多分三日目か四日目のはずだ。
俺は死ぬのだろうか。
このまま、猫とはいえ、せっかく拾った命なのに。
また死ぬのか。
くそ、何が拾った命だ。これじゃ転生してないのと同じじゃないか。
空腹で苦しんで死ぬ分ただ車にひかれて死ぬよりひどい。
神様か?それとも他の何かか、とにかく俺を転生させたやつは何か俺に恨みでもあったのだろうか。
ふざけんなよマジで……。
あー、くそ、腹減った。疲れた。喉乾いた。
トリプルパンチで動けねぇ。
何が獲物に襲い掛かる~、だ。
むしろ獲物から来てくれ。俺に食われに来てくれ。
このままじゃ俺が獲物だ。主にネズミとかハゲワシとか、そっち系の。
あー、くそ、くそ、死にたくねぇ。嫌だ。死にたくねぇ…。
あぁ…腹減った……
そうして、その場に寝ころんだまま申し訳程度に不味い雑草を噛んでどれくらいの時間が経っただろう。
昇ったばかりだった日が直上に差し掛かろうかという頃だった。
────声が聞こえた。
人の声だ。
最初は気のせいかと思った。あまりの空腹に幻聴でも聞こえたのかと。
だが違った。それは気のせいなどではなかった。
俺は立ち上がった。自分でも驚くほど速く、跳ね上がるように四つの足で立ち上がった。
そして、声のする方へと全速力で走り出した。
空腹と疲労でおぼつかない足取りで、木の根や石ででこぼことした地面に足を取られながらも、文字通り必死に走った。
その間にも声はどんどん大きくなっていった。
そうして自分よりも幾分か背丈のある草をかき分けた先。
そこで、俺は何かとぶつかり、倒れ、そして抱え上げられた。
ぶつかった拍子に目を瞑ってしまった俺は、疲労もあって抱え上げられたあとも少しの間目を開けられずにいたが、耳に入ってくる声が、体に伝わる感触が、これは俺が望んでいたものだと訴えていた。
目を開けると、この訴えは願望ではなく現実だったのだと、すぐに理解した。
その子は、白磁のような銀髪を持っていた。
空の青よりもなお綺麗な青い瞳はこちらを真っすぐに見ていて、幼さの強く残る小さく可愛らしい顔は、今は心配そうに歪んでいる。
歳のころは10歳くらいだろうか。
その子は、まさに救いの天使だった。
見惚れるあまり呆然となる、とはまさにこのことだろう。
言葉通りだ。あまりの可愛らしさと安心感に空腹も疲労も忘れて茫然自失である。
このままずっと抱きかかえられてその顔を眺めていてもいいとさえ思ったが、現実はそうはいかなかった。
俺はすぐに現実に引き戻された。
別に、この少女が俺を地面に下ろしたりはしていない。
少女は変わらず俺を抱きかかえてくれていて、時折周りを見て声をかけているだけだ。
優しい。かわいい。
問題は声にあった。
より正確に言うなら、発している言葉だ。
少女は知らない言葉を喋っている。
聞いたこともない言葉を喋っている。
そのはずだ。実際発音に聞き覚えは全くない。
なのに、俺にはなぜかその内容を理解できた。
この不可解かつ不自然極まりない現象が、俺の意識を一瞬で現実に引き戻した。
何と言っているのか聞き取れないのに、なんて言っているのかは理解できる。
違和感が凄すぎて、もういっそ不快だ。自分でもよく分からないのに感覚で意味を理解できてる。それも恐らくとかじゃなく、ごく自然に、確信をもって。
まるで日本語を聞いてるみたいに。
どうやら少女は先生を呼んでいるようだった。
ボロボロの黒い猫が走ってきて倒れたので、診てほしい。と言ってくれている。
なんて優しい子なんだ……!!
というか、先生と言っている辺りで察しはついたが、よく見れば服装も学生服みたいだ。抱えられている関係で胸元より上しか見えないが、真っ白で綺麗な制服に見えた。左胸についている白い花のブローチが可愛らしい。
おそらく学生なんだろう。
小学生くらいの子がこんな森になぜ。遠足か?
まぁなんにせよ、この子がここにいてくれたおかげで命拾いしたのだ。
なぜここにいるのかなんて、些細な問題だろう。
今はとにかく、生き延びたことを喜ぼう。
そう思うと、安心したせいか俺の体から一気に力が抜けた。
そのまま意識まで飛びそうになったが、空腹の苦痛と気合で、気絶するのは何とか耐えた。
もうちょっと、この抱きかかえられる猫状態を満喫したかった。




