【1】
興味を持って下さってありがとうございます。少しでも読んで下さった方の心に残れば嬉しいです。
この世では、その名を知らぬ者などいない。とまで言われている英雄、楊煕。
その一人娘である楊冥に心底惚れて。
愛しくて、
愛しくて、
大切すぎて、
半ば強引に奪い、連れて帰ったのに…。
一度触れたら壊してしまいそうで、
自分の女であっても、
触れる事すら出来なくて、
他の女で代わりがきくはずもないのに…。
深夜、楊冥が郭馥の部屋の前を通りかかったのは、本当に偶然だった。
たまたま寝付けなくて、庭にでも出て、風にあたろうと思っただけだった。
でも聞いた。
郭馥の部屋の中で、知らない女の人の声。
知らない女の人の名前を呼ぶ、最愛の人の声。
知らない女の人の喘ぐ声。
聞き慣れたはずの郭馥の、聞いた事の無い喘ぎ声。
ベッドの軋む音。
中で何をしているのかは、容易に想像がついた。
ショックで一瞬止まった私の思考を再び戻したのは…。
「冥様?」
見張りの為、屋敷を見て回っていた護衛兵の声だった。
私は急いで、黙れと言う意味を込めて、人差し指を口元に当て、護衛兵に手を上げる。
音を立てない様に部屋の前から離れると、自分に(落ち着け)と頭の中で命じる。
「冥様…?」
私の様子がおかしい事に気がついたのか、護衛兵が怪訝な視線を郭馥の部屋に向ける。
私は何でもないよ。と微笑むと、その護衛兵を連れ、郭馥の部屋の近くを離れた。
自室に戻ってからも、頭の中で何度も繰り返し響く、あの部屋の声。
涙と嗚咽が止まらなくて、吐き気もする。
あの人、郭馥が、私を自分の屋敷へ連れて来た後も、ずっと私に触れなかった理由がようやく分かった。
もうここへ居たくは無い…。
大好きだった人の顔も見たくない。
声も聞きたくない。
父の…楊煕の元へ、幼馴染である鄧選の元へ帰りたい気持ちが溢れて来る。
でも、私が帰れば、父は何があったのかを探る。
理由が分かれば戦になるだろう。
そんな事は出来ない。
戦になれば誰かが死ぬ。
私が郭馥に嫁いでくる事で、やっと平和になってのだ。
それに戦になれば、私は父の元で戦わねばならなくなる。
愛する郭馥と…。
例え郭馥から愛されていなかったのだとしても、
それだけは避けたい。
私はパシン、と自分の両頬を叩くと、心に誓う。
明日からは、何事も無かった様に…。
いつも通りに振る舞おうと…。
次の日…。
私は目を覚ますと、いつも通りいつも通り。と鏡を見ながら自分に言い聞かせ、食堂へ向かった。
だがいつもなら誰より早く起きて、朝食の支度をしに食堂へ行くのに寝坊した…。
料理は私の趣味であり、楽しみの一つだ。
それなのに、この時点でいつも通りじゃない…。
私は軽く溜め息を吐く。
食堂に行く途中、何気なしに窓の外を見ると、雨が降っている。
…余計に気が滅入ってしまいそうだ。
(…昨夜の女の人は…、誰なんだろう)
屋敷で働いている女達の誰かだろうか。
それとも、後腐れがないように、外で買ったのだろうか。
そんな事を考えていると目の前から郭馥が歩いて来る。
「…お?今起きたのかよ?随分と遅ぇじゃねぇか」
私の姿を認識すると、いつもと変わらぬ様子で話しかけて来る。
郭馥は今でこそ、戦で功績をあげ、こうして屋敷で暮らしているが、元はただの山賊で、態度も話し方も乱暴だ。
「…昨日は中々寝付けなくて…」
嘘じゃない。
「…体調でも崩したか?」
心配そうに、私の頬に触れる郭馥。
いつもと変わらない様子に、昨日の夜の事は、夢だった様な気がしてくる。
「体調は…悪い。理由は寝不足ッ!眠すぎる…」
私が誤魔化すために、あくびをして見せ、伸びをすると。
「ハハハッ!!なら、飯食おうぜ」
「う~ん…食事当番によって味付けが私好みじゃないんだよなぁ…。私が作りたかった…」
「寝坊したお前が悪ぃんだろうが。俺だって、お前の味付けが好きだってのによ。…つーか、ほんとに大丈夫なのか?大体、お前が寝坊なんて珍し…」
私は心配そうに顔を覗き込んでくる郭馥の言葉に、大丈夫だって!と笑い掛けると窓を振り返る。
「…?誰か来てるの?」
庭先に、大きな馬車がとまっている。
よく見ると、旅芸人の馬車のようだ。
「旅芸人の一座…?」
「ん…?あぁ、近くの街に来るって聞いたんでな、面白そうなんで来てもらったんだ。…しばらく、屋敷にいて貰おうと思ってる」
そう言った郭馥の声や表情で、昨夜の相手が旅芸人の中にいる事が分かる。
しかも、その旅一座をしばらく滞在させると言う事は、女との関係も、しばらく続けると言う事だ。
「ふーん…」
私が興味なさげに返事をしたのが気になったのか、郭馥は私の顔をマジマジと見つめる。
「いつもは喜ぶのに、珍しいな。どうした?」
「…ごめ…本当に気分悪いかも…」
私は急に気持ちが悪くなり、その場にうずくまる。
気持ち悪い。
胸が痛い。
他の女の人と会わないで欲しいのに、そう言えない。
「おい!大丈夫か!?」
郭馥の声が遠くに聞こえる。
彼が私を抱えてベッドに運ぶのを、私は他人事の様に感じていた…。




