90.ジョウガ王国の神殿側の事情(85)
「まだどこか痛いか?」
お互いの疑問解消に、お茶休憩がてら話をしようと応接室に向かう途次みちすがら、俺はアスタロトの顔を覗き込む。昨日の地震の直後のような痛みは感じないのに、涙が止まらないらしい。涙を溢した後の彼の澄み切った満天の冬空のような黒い瞳が滲み出る涙で瞬く間に潤む。
「大丈夫、ただ涙が止まらないってだけだから」
俺に余計な心配を掛けたくないからかアスタロトはふわっと微笑む。だが、そうしている間にも目尻に涙が溜まっていき、泣き笑いのような状態になるのが何とも痛々しくて……涙を溢すのを俺が見たくなくて、他の者にも見せたくなくて、彼をぐんっと引き寄せて彼の目尻に溜まった涙をちゅっ、ちゅっと吸い取った。塩っぱくて、甘くて、悲しい味だ。やってしまってから直ぐにびっくりさせたかと心配になったが、彼は俺の後頭部に手を回して顔が離れていくのを止めて、ちゅっと軽く啄むように口づけた。仄かな暖かさが恥ずかしさよりも安堵をより強く感じて、何気に注目されたようだが頬が緩むのはしょうがないだろう?
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麒麟以外の聖獣達は神殿到着時点で隠密形態で周囲を探索させている。麒麟は元の小さな姿で俺やアスタロトの肩に乗ったり近くをふわふわと浮かんでいたりと、俺達の警護を行っている。のだと思うのだが隠密形態で姿が見え辛くなっているが、勘の良い人は何かがいる気配を感じるようだ。麒麟の陽気な気配は悪い感触では無さそうだが、あれで隠れられていると思っているのか?
応接室で聖騎士リコロと司祭アバルードと向かい合い、濃い琥珀色のお茶を飲みながら初めに俺達のこの世界に来てから今までの経緯を簡単に語る。ラクーシルとその配下に襲われた時の下りではなるべく客観的に話したつもりなのだが。
「教会の地下でラクーシルに斬りかかった時に、奴は近くにいた大聖女を盾にして逃れようとしたのだ。上手く切っ先を変えられたから良かったものの、本当に卑劣な行為だ。その前後の言動からも、あれは大聖女を道具としてしか見ていなかったのではないか?」
未だに怒りが収まらない。それまで眉間に皺寄せながら聞いていた聖騎士リコロと司祭アバルードは「ラクーシル様が?」と凄く驚いたようで目を丸くしていた。
大聖女のアーリエルさんのこと、『聖樹』崩壊の顛末、大神殿の様子、『聖都』での暴動未遂、等々。
「『聖樹』を崩壊させた大きい黒い球の瘴気がどの位の範囲まで影響があったのかはわからない。でも、ジョウガ王国の異変は瘴気とは直接的な関係は無さそう。精々、伝書鳩ポッポがやられてしまったくらい?」
とのアスタロトの推測に
「それで連絡が全くつかなかったのですね」
と司祭アバルードは頷く。
「大神殿と『聖都』の現状は聖騎士リコロは実際に見てきたからわかると思うが、修道士から上の者達、聖騎士は全員亡くなっており、大神殿どころかイルシャ教自体もこれからどう運営していけば良いのか、と考えることも侭ままならない程人手不足で忙殺されている。俺達も手伝いはするが、それも限りがある。部外者だからな」
との俺の発言にアスタロトが
「うん、行き掛かり上、手助けしたけどね。でも、ラクーシルが『イルシャ教の代表』として私とガンダロフを害したのは事実。私が貴方方に報復したとしても、貴方方が文句を言えるのは私でもガンダロフでもなく、ラクーシルであり、イルシャ教だ」
と続けると、リコロと司祭アバルードはサァーっと顔色を無くす。無闇に脅すなよ、それでなくとも冗談言わなさそうに見えているようだからな。
「まぁそんな面倒なこと、わざわざしないけど。ガンダロフが言ったとおり私達は部外者なんだから、いろんなことに巻き込むようなことしないでね。ちゃんと忠告したからね」
アスタロトは淡々とした口調で、だがしっかりとくぎを刺す。
「次はジョウガ王国の神殿側の事情を説明して欲しいのだが」
俺が促すと、司祭アバルードが説明を始めた。
異変が起きたのは4日前の朝。この神殿の最高責任者である司教様は干涸らびてカチカチに固まっており、傍仕えが触れるとボロボロと崩れて塵となって消えてしまった。そしてその補佐を務める司祭様は眠ったまま目覚めない。二人は祭事と大神殿との連絡・連携を担っており、実務は司祭アバルードが主に担当していて神殿の運営面ではまだそこまでの支障は生じてはいないという。だが、この異変には大神殿が関わっているのは想像に難くなく、司教様、司祭様のことが心配ながらも大神殿側の秘密を曝く良い機会だと、聖騎士達を派遣した。
「ルセーニョを大神殿に連れてきたのは、厄介払いと大神殿内偵の為の攪乱か陽動か。欲しかった情報は手に入れられたのか?」
俺が率直に尋ねると、リコロはグゥッて息を詰まらせて、アバルードは気まずそうにリコロを見た。
「んん゛、その、私は……実は大聖女アーリエル様のご様子をお伺いしたかったのです。ご高齢ですしもう何年も表舞台には姿を現してはいらっしゃいませんし……」
リコロは徐に口を開き説明をするが、段々と俯いて涙声になってきた。
「私が幼少の頃、一度だけお見掛けしたことがありまして…」
母親を亡くし寂しい思いをしている時に大神殿の儀式で見た淡い光を纏う大聖女様の姿に、それとはわからなくとも自分も母親に守られているのではないか、と何故か感じたのだという。だが、その大聖女はもう5年程表舞台には出て来ず、しかしお隠れになったとも聞かない。しかも随分昔から大聖女様のお力が衰えてその影響でこの大陸全体が暗く重い空気が覆われているのではないか?と噂されており、今回司教様が塵となって消えたり司祭様が眠ったまま意識が戻らないなど、もしかしたら心の拠り所としてお慕いしている彼の方に何か良くないことでも起こったのではないかと危惧して『聖都』に行った、と。ルセーニョを連れて行ったのは、彼が悪目立ちをすることで自分が注目されずに大神殿を探索できるから、との考えだったという。
「事情があったとはいえ、人手不足を理由にあんな厄介者を押し付けられるのは迷惑だな」
「はい、その点に関しましては誠に申し訳ございませんでした」
リコロとアバルードは揃って、本当に済まなそうに頭を下げた。




