76.食事の話(71)
俺はアスタロトを抱えて、現在の寝床にしている『大聖女』様の寝室へ向かう。アスタロトがわたわたと落ち着かない。扉の前まで来ると、何か伝えたいことがあるのか俺の方を見る。と、瞬きした拍子に綺麗な雫がほろりと零れ落ちる。……痛い。彼の受けた痛みがどれほどなのかは俺には永遠に理解できないかも知れない。だが、彼がその痛みで泣いているということは解る。そしてその姿を見るのは、とても辛い。とても…苦しい。少しでもその痛みを取り除きたい。そう思ったら。
アスタロトの目尻に溜まった涙をチュッ、チュッと吸い取っていた。
彼は驚きの表情のままで
「……しょっぱくない?」
と訊いてきた。え、気になるのはそこか?
「…少ししょっぱいような、甘いような...美味いとは思う、が……」
胸が、苦しい。
そんなやり取りをしていたら部屋の中にいた玄武が扉を開けた。アスタロトの昼寝の準備をしていたのだな。だがアスタロトは
「まだ涙が止まらない。このまま寝たら喉に回って咳き込むかも」
と、寝る気は無い!の雰囲気を纏わせているので、まずはソファでお茶を飲んで落ち着こう。
俺はアスタロトを膝の上に乗せてしっかり抱え込む。今は離したくない。彼は戸惑いを見せるが、降りる気は無いようでじっと大人しくしている。と見せかけて、ポンッと蒸しタオルを魔法で出して自分の顔を拭いた。べしょべしょで気持ち悪かったのだろう。そういえば、この世界に来た時も同じように顔を拭いていたな。さっぱりした面持ちで、それでも痛いのを思い出したように彼の瞳から涙が零れる。表情だけ見れば泣いているというよりはただ涙が止まらないだけのようだが…まだ、衝撃から立ち直れていないのだろうか。どれほどの痛い思いを受けたのだろうか。その痛みを取り除くのに、今の俺には何が出来る?
すると、アスタロトと目が合ったと同時に
「ガンダロフもさっぱりしようね」
と彼が使っていた蒸しタオルで俺の顔を丁寧に拭き始めた。避けられずに、うわっ、と声を漏らすが容赦ない。拭き終わると
「うん、男っぷりが上がった。良し」
と彼は満足して頷く。相変わらず涙目だが、爽やかな良い笑顔だ。俺もさっぱりして気持ち良い。しかし、
「もう、大丈夫なのか?」
やはり彼の涙が止まらないのが気掛かりだ。
「ぇっと、まだ痛いけど、大丈夫。突然だったからびっくりしたけど、苦しかったり辛かったりしたのは私じゃないし」
何故か涙は止まらないけどね。と何事も無いように淡々と説明する。いつも通りの彼の様子に安心はするが
「それでも、痛かったのだろう?」
と俺は彼の頭を撫でる。彼の受けた痛みが早く消えて無くなるようにと願いながら。俺の手の感触が気持ち良いのか彼は、ほぅ、と息を吐いた。
「うん、痛かった。今も痛い。でも時間が経てば忘れる。だって...例えるならば...歩いてたら突然、毬栗が落ちてきたようなもの、かな?」
「毬栗」
あの栗が詰まっているトゲトゲか。確かにそれはびっくりだ。
「そう、毬栗。しかも超特大のとげとげが頭にグサッ!と」
普通の大きさでも相当痛いが、それの超特大か!もの凄く痛いぞ!はっ!もしかして今、実際に頭が痛いのか?!そんなところを俺は撫で回していたというのか?!
申し訳ない気持ちでそっと手を下ろすと
「あ、いや実際に頭を怪我したわけじゃないんだけど」
「っ!あぁ、そ、そうだな」
アスタロトとしては気持ち良く撫でてもらっていたのが止められて不服だったのか、下ろした俺の手を取りやんわりと両手で包む。彼の少しひんやりした手が俺の熱でじわりじわりと温まっていくのが、何気に嬉しい。
彼の心そのものが傷付いた訳では無いらしいということに安堵した俺は、気になっていたことを尋ねる。
「では、あの地震は君と何かしら関係があるのか?」
アスタロトは小首を傾げて
「地震、は解らない。剣ちゃん、解る?」
とそのまま剣に訊く。
『うん。ますたーの動揺に大地が反応した結果だよ』
「動揺して地面が揺れるって」
揺らした本人も驚きの事実。
「そういえば、アスタロトが捕らわれた時も『大きな木が怒った』とグラナが怖がっていたが、アスタロトの存在そのものがこの世界に与える影響というのは想像を超えるものがあるのかもな」
『力の化身』。この世界の澱みに溜まった力に人格を与えたモノ、だったか。今まで魔法を使って疲れたというのはあまり聞いていないような。使用量が多くて疲れたというのは全く無さそうだし。過去の『力の化身』は地図に残るほどの大穴を開けているのだから、言葉通り世界を変える力だな。分身体が言った「ロトを疲れさせるな」というのは制御が効かなくなることを危惧したのか。
…何があっても、彼を失うことだけは嫌だ。たとえ世界が滅びるとしても。彼がいない世界など、あり得ない。俺は彼の存在を確かめるようにキュッと抱き締め直した。彼は、なぁに?と問うように俺を見つめる。冬の満天の星空のような澄んだ黒い瞳に俺が映る。彼の中に俺がいる。ふっ、と頬が緩んだ。
「お茶を飲もうか」
玄武が入れてくれたお茶は少し冷めてしまったか。アスタロトに熱いのを入れ直そうと言うと、猫舌だからそのままで、と今まで撫でていた俺の手を解放した。玄武はいつの間にか退室しており、部屋の中には俺とアスタロトと剣だけになっていた。
「まだ、痛むのか?」
思い出したようにホロリと零れるアスタロトの涙を指で掬う。
「んーー、だいぶん治まったのだけどね」
その俺の手を捕まえて涙が付いた指を彼はペロッと舐める。温かく湿った感触にゾクゾクッと快感が奔る。が、そんな俺の昂ぶりに気付かないのか、彼は淡々と話を進める。
「その、どこからどうお話ししたら良いのか、ちゃんと伝わるのか解らないのだけど」
手を放して、俺と目を合わせる。余程重要な事柄なのか、真面目な表情だ。何を伝えたいのだろうか。
「……ちゃんとご飯、食べてね」
確かに食べることは生きることに直結する重要な事柄だ。が、本当に言いたいことはそれだけじゃないだろう?さすがにこれだけで理解するのは困難なのだが。アスタロトもどう言葉を綴って行けば良いのか纏まらないらしく眉をしかめて口を開けたり閉めたり。
「あ、あのね、今更なんだけど、私、人間じゃないでしょ?『力の化身』ていう。んで、剣ちゃんや聖獣達とか所謂眷属は食事は要らないって。でも、ガンダロフは人間だから、ちゃんとご飯、食べて欲しいなって」
いや本当に今更だが?はっ!
「最近俺にロトの分を寄越すのは、そういう意図があってのことだったか」
そして俺がロトに寄越された分を食べるのに余計な気を回さないように、との彼なりの配慮か。相変わらず優しい。
「ガンダロフが元気でいてくれれば、私も元気になる。私とガンダロフが元気だったら剣ちゃん達も元気でいられる。だよね、剣ちゃん」
『うん、そうだよ!主とますたーが仲良くしてるだけで剣は元気になる!』
あぁ、俺が健やかであることが、彼等の幸せに繋がるというのか。アスタロトが「美味しいは正義!」と言っていたが、彼の食事を食べることで健やかに、幸せになる、と。奥が深いなぁ。
「それでね、それはルゥさんとアーリエルさんも同じなの。『力の化身』と『愛し子』だから。んで、ルゥさんの眷属も同じはず。なんだけどね」
「眷属。ラクーシルか」
「うん。『御使い』が宿ったとしても、その本質は変わらないと思う。つまり、その本体を維持するためにはルゥさんから元気というか活力をもらう必要があるのだけど」
アスタロトの真面目な話はまだ続くようだが、話している本人が一瞬ふっ、と集中が途切れたように見えたのは、やはり疲れているからだろうか。
読了、ありがとうございます。<(_ _)>
現在、投稿は不定期です。書けたら上げます。
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