5.お膝抱っこ(4)
ポタポタと涙が彼の顔に滴る。不快に感じたのか、むぅっと顰めた顔が急に目を見開いて俺の名前を呼んだ。
「ガンダロフ」
あぁ、彼だ、俺のかわいい人。もう失いたくないという思いでアスタロトを剣と共に抱きしめた。頭を撫でると甘い香りが漂い、長い黒髪がサラリと流れる。手触りが気持ち良くて、優しくゆっくりと何度も何度も撫でる。はぁ~、幸せとはこのような時間のことを指すのだろうな。
ふわっ、と一瞬香りが強くなったかと思ったら彼の両手の平に大きめの手拭いが湯気を立てている。彼は俯いたまま、その内の1つを差し出した。
「顔拭いてさっぱりしましょ」
確かに俺の顔は汗やら涙やらでグチャグチャだし、それが彼にも降りかかってもしかして凄く不愉快な思いをさせていたのかもしれない。俺は受け取って礼を言う。
「あぁ、ありがとう」
はぁ。暖かくてほっとする。さっぱりして思考が冴えていくようだ。大体拭き終えたところで彼がもぞもぞと身動ぎをする。
「立ちたいから、腕を退かしてもらってもいい?」
顔は伏せたまま。だが髪の間から覗く耳や首筋が赤くなって何とも言えない色香を漂わせている。いやいや、そうではなくて。
「……大丈夫か?まだ動かずにいたほうが良くないか?」
「この状態では落ち着かないから自分の足で立ちたい」
「いやしかし」
「立 ち ま す」
アスタロトが顔を上げる。煌めく星を秘めた黒い瞳に俺が映る。そのまま吸い込まれてしまいたい気持ちに自制心が待ったを掛ける。
オレハイマナニヲシヨウトシタ?
羞恥で赤みが更に増していく顔を逸らした隙に、彼は剣を持ったまま立ち上がった。
俺も直ぐに立ち上がった。
「大丈夫か?ふらついたりはしないか?」
「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」
アスタロトはクルッと回って俺に向き合う。はあぁ~~、かわいい。
周囲はおそらく石造りの広間。壁には蝋燭とか松明ではない灯りが薄ぼんやりと点っている。足元には黒く炭化した何かで模様が描かれている。先程の呪いに関係ある何かだろう。その外側には、脱ぎ散らかした服のようなものが点々点々……。
「これが小学校とかだったら『躾がなってない!』って言うところだよね」
アスタロトがぼそっと呟く。
「?何の話だ?」
彼はふわっと微笑んで、剣を渡してきた。
「はい、これ。鞘、造ったんだね。質素だけど持って歩くのであれば丁度良いのかも」
え?あぁ、彼はアレとは違うのだな。
「覚えていないのか。まぁ、しょうがないのだろうな」
「何を?」
覚えていないのであれば、話したとしても意味が無いのでは無いか?だが、彼自身に関する重要事項だろう。もし逆の立場だとして、俺だったら話して欲しい。だが、それをきっかけとしてまたあの魔神になってしまったら……。いや、それでも話しておくべきだろうな。
「……魔神の話だ」
「マジン?」
キョトンとした表情が、彼が何も覚えていない、知らないということを物語っている。かわいい。
「剣を出したことは覚えているんだな」
「うん。凄いの出来たーって思ったのは覚えてる。で、気が付いたらベショベショだった」
「ベショベショ?」
「ガンダロフの……涙?」
「あぁ~~~。……済まない」
俺は鞘に収まった剣を剣帯に装着しながら謝罪した。思い返してみれば、確かに不可解で不愉快で気持ち悪かったかもしれない。
「いやこちらこそごめんなさい。あんなにボロボロ泣いてたのって、私よっぽど酷いことしたんだよね」
違う!君が悪いんじゃない!俺が何とかして君を目覚めさせたくてやった結果ではあるが、よくよく考えてたら、アスタロトは男だから同じく男の俺からあんな熱い口づけを何度も何度も繰り返されたら……。
「なんだか話聞くの怖いな……ガンダロフ?」
嫌われるのは確定じゃないか?!
俺は手で口元を覆い赤くなった顔を逸らした。
「あ、あぁ、話さないで済むのであれば、話さない方が良いのかもな……」
「……先ずは落ち着いて話ができる場所を探しましょうか」
「う、うん、そうだな」
周囲をぐるりと見渡す。衣服が点々と……まさに死屍累々たる光景だな。壁をぐるっと沿うように階段が設けてあって、上がった先に扉が見える。出入り口はあれしか無さそうだ。扉の向こう側はどうなってる?それに、この部屋に俺とアスタロト以外の生き物の気配は感じられないが、何かが潜んでいることもあり得る。
「あそこしか出るところは無さそうだな」
俺は階段上の扉を指差した後、視線を落として
「これを除けて行くのか。なかなかの難儀だな」
衣服の山々。躊躇するが踏んで行くしかないな。と思っていたら
「飛んでけばいいんじゃない?」
アスタロトが、なんてこと無いという感じで言う。
「は?飛ぶ?」
「うん。ピーターパンみたいに」
「待て待て待て待て早まるな!」
本当に待て!早速飛んで行きそうな彼の腕を掴む。『ぴーたーぱん』が何かはともかく。
「力を使い過ぎると意識を失ったり倒れたりするんじゃないのか?」
またアレが出てきたり、それよりも昏倒してしまったらと考えたら、もう不安で不安でたまらない。
「え?そうなの?」
そうなのかどうかはまだわからないが。
「じゃあ私がガンダロフにお膝抱っこされてたのって、力の使い過ぎ?」
「っ!お膝抱っこ!」
なんだその的を射たしかしやたら恥ずかしい響きの言葉は!
「……あぁ、いや…しかし……お膝抱っこ……」
俺は羞恥のあまり顔を背けて、手で覆った。
気を失ったアスタロトを膝の上に抱きかかえた。ただ、それだけのことを端的に表現しただけのことだろうに、何かやましいことをしてしまうような、いや、気持ちとしてはやましいどころかもう昂ぶりすぎてふとした拍子に箍が外れる危うさを感じるのだが。実際、先程は手拭いを渡されるまで、至福の状態を堪能出来たのはあの『お膝抱っこ』の効果もあるのではないか。あぁ凄いぞ『お膝抱っこ』!あの綺麗な瞳に俺の顔が映っているのがはっきり見えるほどにお互いが近くて、そのまま唇を重ねることも頑張れば不可能ではない!って何を頑張るというのだ、俺は。大体、こんなむさ苦しい男に迫られても迷惑だろうが!幾ら好きだといっても、いや、好きだからこそ嫌がることはやってはいかん!無理強いは絶対駄目だ。
ふぅ~っと息を吐いて心を落ち着かせる。静かだな。アスタロトは周囲の音を探るように目を閉じている。具合が悪い訳ではなさそうだが。
「ロト」
呼びかけると彼は静かに目を開き俺を見上げた。なになにどうしたの?と聞いているような表情。キラキラした黒い瞳に俺の顔が映るくらいの近い距離で自然と顔が赤らんでいく。出来ればもっと見つめていたいところだが、先ずはどこかゆっくりと落ち着ける場所を探そう。
「階段まで真っ直ぐ歩いて行こう。多少、服を踏んでしまうのは仕方がない。…抵抗感があるというのであれば、俺が、その、抱きかかえて行くというのも」
「ちょっと待ってガンダロフ」
「やはり駄目だよな」
アスタロトから速攻で待ったが掛かる。しかし次の言葉は意外なもので。
「背、伸びた?」
読了、ありがとうございます。
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