好奇心は白薔薇を染める
好奇心は猫を殺すと言ったのは、一体誰だったか。仔細は思い出せないけど、まさしく今の私の状態なんだろうなぁ。
「夜伽とは一体何ですの?」
興味本位で尋ねただけだ。妃教育を施してくれる教師たちに質問するのと同じくらい気楽な気持ちで。
ところが、ヴィルヘルム様は顔を真っ赤にされてだんまりだ。深い青色の瞳がとても目立つわ。普段、冷静で穏やかで、ふんわりとした笑顔が標準の方だけに、これはこれで興味深くはある。でも、怒らせたかった訳ではないので正直戸惑いの方が大きい。
王太子殿下の婚約者ではあるけれど、我がパルムクランツ伯爵家は歴史が長いだけの弱小貴族だ。できるだけ穏便な沙汰をお願いしたい。
ちらりと周囲の護衛騎士や侍女たちに目をやるけど、みんな澄ました顔で、怒りは見受けられない。私が連れてきた侍女は少し顔が青い気がするけど、あくまで気がするだけよ。とりあえず、この場で首が飛んだり、無礼者呼ばわりされたりはしないようね。
「ヴィルヘルム様」
一先ず怒りを鎮めて頂こうと声をかける。しかし、夜伽の意味は分からないままなので、何がどうなって怒りに触れたのか分からず、言葉が止まる。
私をまっすぐに見つめるヴィルヘルム様の顔は赤いままだ。今年で十三歳になられるヴィルヘルム様は、子供と大人の狭間におられるようで、妙な色香があった。それを意識したら、ますます言葉に詰まる。
おかしいわ。今日は白薔薇が見頃だと案内された庭園の四阿でお茶会のはずなのに、周りは赤薔薇のように見えるわ?
「アリシア嬢、その話は僕たちにはまだ早い、と、思う」
怒りを抑え込むような絞り出す声。制御しきれていないとはいえ、常に理性的であろうとする姿に感心してしまう。しかし、それはそれとして、今一つピンとこないままだ。
「早いんですの?」
「うむ」
「ヴィルヘルム様は夜伽をご存知なのですよね?」
「……勿論だ」
「その上で早いとおっしゃるのですね……」
ますます分からない。同い年のヴィルヘルム様は既に習っている事柄なのに、私は知らないままで良いのかしら。
でも、そうね。ヴィルヘルム様は幼少のみぎりから王太子となるべく教育を受けてきたのでしょうし。対して私の妃教育は始まってまだ三ヶ月ほどだ。今年の五の月に幼年学校を卒業したのを機に、正式に婚約の儀を行ったから。だから、ヴィルヘルム様の判断の方が正しいのだろう、きっと。
「分かりましたわ。でも、時期が来たら必ず教えてくださいね」
「……う、うむ」
頷かれたのに、顔が赤いままだわ。むしろ、ますます赤くなっているような。白薔薇はもうこの庭園に存在しないみたい。怒っていらっしゃるというのとも違うのかもしれない。だとしたら照れていらっしゃる? 分からない、分からないわ。夜伽とは一体何をするものなの?
私の疑問は深まるばかりだった。
◇◆◇◆◇
お茶会を終えて、パルムクランツ伯爵家のタウンハウスに帰宅すると、青筋を立てたお母様が待っていた。
「アリシア、殿下に不躾な質問をしたそうね?」
どういう訳か、お母様はお茶会の内容を完璧に把握しているようだった。応接室で一息つく間もなく切り込まれた。湯気を立てているはずの紅茶が、一瞬で冷めた気がする。
「夜伽について尋ねたことでしょうか?」
お母様の瞳がかっと見開く。人間の眼球って、結構大きいのね。
「アリシア、明日から淑女としての在り方を一から勉強し直しましょうね」
「今は妃教育もあるのですが……」
「夏の間は二日に一度なのだから、問題ないでしょう?」
秋になれば、ヴィルヘルム様は男性貴族のみが通う寄宿学校に入学される。それまでは婚約者との交流を図るために、妃教育も二日に一度の頻度に抑えられているのよね。秋からは隙間なく妃教育が詰め込まれるはずだ。
「分かりました」
お母様の怒りを鎮めるためには、頷くより他なかった。まぁ、頷いてからもお母様の話は小一時間ほど続いたのだけども。
自室に入る頃には、肩が凝っていた。同じ姿勢で座り続けるのも楽じゃない。
気分転換にお菓子を所望! というのが以前の私だったけど、今は違う。私はにんまりとして本棚から一冊抜き取る。棚一面を埋めるのは歴史書や学術書……ではなく恋愛小説だ! 元々はメイドたちが話題にしているのを聞いて興味を持ったのが始まりだ。一冊借りて読んでみたら、転げ落ちるようにハマってしまった。
とはいえ、これでも貴族令嬢であるが故に、自ら書店に足を運んで思うままに購入することはまだできていないのよね。妃教育で毎日出かけることになれば、帰りに寄ってもらえる可能性もあるかな、と期待している。いや、護衛が許してくれないかな。
なので今はメイドや侍女たちが選んでくれたものを購入している感じなのよね。これはこれで感想を共有できるので楽しくはあるのだけど、いつか自分で選んでみたい野望は捨てられない。
それに、どうも全ての作品を共有できている訳ではないみたいなのよね。まだ早いです! と言われて読ませてもらえない小説があるのよ。小説に早いも遅いもあるのか、解せぬ。
「あら?」
ページをめくっていた私の手が止まる。
そうだったわ、この小説もそうだったのだわ。
そもそも私がヴィルヘルム様に夜伽について尋ねたのは、この手の小説が原因だった。小説の中で主人公たちが恋仲を深めていくと、夜伽という場面が出てくる小説が一定数ある。そして出てきた場合は、必ず場面が飛ぶ。
朝になってチュンチュン小鳥が囀っている。一行前は夜なのに。
一体全体、どういうことなのかしら? メイドたちに聞いても、まだ早いです! とまた言われるだけだろうなぁ。
だからこそ今日ヴィルヘルム様に尋ねたのだ。私だって考えたのだ。
恋愛小説を読むのははしたないと考える人が少なからずいることは、私も把握している。お母様は、野山を駆け回るよりはマシでしょう、と一応許してくれている。文字の勉強にもなるしね。今なら領地のお花畑でも優雅に恋愛小説を読んでみせるわ。
ともかく誰でも彼でも恋愛小説のことを尋ねる訳にはいかない。どこで足元を掬われるか分からないもの。そこでヴィルヘルム様だったのだ。公平な方だから、一方的に詰るようなことはなされないだろうし、何より恋愛(小説)に関することなのだ。未来の旦那様に聞けば分かると思ったのよ。
だのにヴィルヘルム様にも、まだ早い、と言われてしまったわ……。
恋愛小説を心から愛していると言っても過言ではないのに。本当の意味では楽しめていないモヤモヤが付きまとう切なさ。世の中は不条理だ。
◇◆◇◆◇
二日に一度の妃教育。その合間を縫うようにしてあるヴィルヘルム様とのお茶会。つまり、ほぼ毎日、王宮に顔を出すことになってしまっている。結果、ヴィルヘルム様とも一日に一度は会うことになっている。これってどうなのかしら。すでに毎日妃教育であると言っても過言ではないのでは? 淑女教育をやり直している時間なんてないのでは?
そんな事実に今になって気付くような私では、将来、王妃という重責を担うには色々と足りないのだと実感する。とりあえず睡眠時間は確保したい。
思わず溜め息がこぼれてしまう。が、ここは王宮。慌てて引き戻そうとしたけど、無論、そんなことはできない。
「まぁ、アリシア様、いかがされましたの?」
気遣わしげな鈴を転がしたような声。私は意識して笑顔をつくって振り向いた。
「エレオノーラ様、ご機嫌よう」
「ええ、ご機嫌よう」
互いにスカートをつまんで軽く会釈をする。エレオノーラ様は先代の王弟が興されたアベニウス公爵家の令嬢だ。本来、伯爵家の娘ごときが名前を呼ぶなんてできないし、話しかけるにしても軽い挨拶だなんて許されない。
王太子の婚約者という立場はそれだけ大きい。
「何やら溜め息が聞こえた気がしたのだけれど、大丈夫かしら?」
挨拶で流されてくれないエレオノーラ様は、勿論私の立場に納得なんてされていない。扇の内側は、果たして笑んでいるのだろうか。柔らかな弧を描く瞳を見やってから、薔薇が咲き誇る庭に視線を移す。
「ご心配痛み入りますわ。あまりに見事な庭園に、思わず吐息がこぼれてしまったのですわ」
「まぁ、そうでしたの。見慣れた伯爵家のお庭は、とても可愛らしいんでしょうね」
全く表情を変えることなく言葉を紡いでいくエレオノーラ様は、流れるように公爵家の庭について語り出す。アベニウス公爵家の庭が見事なのは充分すぎるほどに存じ上げているので、もう勘弁してほしい。見たことはないが。招待されたことはないので。
ほほほ、と慎ましやかな笑い声は、すごく疲れる。どこで話を切り上げよう? 思案した瞬間、白薔薇の香りがした。そして、聞こえた足音。私はさっと廊下の端に寄る。とても聞き慣れた足音だったから。
「王国の栄えある若木にご挨拶申し上げます」
私が深いカーテシーをした所でエレオノーラ様も気付いたようで、たおやかに挨拶をしている。瞬時に猫を被れるのは見習うべきところかもしれない。でも、挨拶の相手、ヴィルヘルム様の足は私の所で止まる。
「アリシア嬢、そんなに堅苦しい挨拶は僕には必要ないよ」
「ですが……」
思わず言い淀む私に、ヴィルヘルム様がにっこりと笑みを向ける。
「それより、もうすぐ先生もいらっしゃる時間じゃないかな?」
「あら、エレオノーラ様とすっかり話し込んでしまったようですわ」
「おや、楽しい時間を邪魔してしまったかな」
「いえ、大丈夫です。では、失礼しますわ、エレオノーラ様」
私が呼びかけたタイミングで未だ頭を下げたままのエレオノーラ様を、ヴィルヘルム様が見る。
「アベニウス公爵令嬢、お父上をお探しなら北の庭の四阿で待つと良い。陛下との話もじきに終えられるだろう」
まるで迷子のような扱いだ。公爵家の者として頻繁に王宮に出入りする彼女にとって、全く不要の気遣い。しかも北の庭って、ここと正反対の場所だわ。けれど、ヴィルヘルム様はそれ以上言葉をかけることなく私に左肘を差し出す。私は、そっと手を出した。
どこからどこまで話を聞かれていたのか……?
疑問は口にすることなく歩き出す。うん、ヴィルヘルム様の柔らかな笑顔の真意は、私には全く分からない。淑女教育を完璧に終えたら分かるようになるかしら。
「アリシア嬢、不快な思いをさせてしまいすまない」
いつもの妃教育の部屋に入って開口一番。王太子殿下に謝罪される状況は何とも気まずい。室内とは言え、護衛や侍女の目だってあるのだ。
「ヴィルヘルム様が謝罪されるようなことは何もありませんわ」
エレオノーラ様の面倒臭さの原因がヴィルヘルム様への恋心であれ、王太子妃への執着であれ。そこにヴィルヘルム様の謝罪が介在する余地はないと思っている。
「しかし……」
「エレオノーラ様は具体的には何もおっしゃっていませんわ。にも関わらず全てを汲み取る必要はないと思いますの。だって疲れますでしょ?」
「アリシア嬢……疲れるはちょっとひどい」
うん、でも、ヴィルヘルム様の声も震えているから同罪ですわ。
その日の妃教育は王族としての心構えから始まった。王族たるもの臣下を思いやり、民を慈しみたれ。何とも難しいものだと嘆息した。
◇◆◇◆◇
ヴィルヘルム様とのお茶会も何度目だろう。
王族、王太子殿下と一対一でのお茶会。最初の頃はそれはもう緊張しまくったものだった。特に婚約の儀の後のお茶会は、今思い出しても赤面ものだ。うん、あの頃に比べれば慣れたものよね。
「アリシア嬢? 今日は暑かっただろうか?」
思い出したら、ちょっと釣られて赤くなっていたようだ。ヴィルヘルム様の青い瞳が、心配そうに揺れている。
「大丈夫ですわ」
「いや、もう夏だというのに四阿は配慮に欠けていたな……」
赤い顔で大丈夫と言っても説得力はないよね。
「本当に大丈夫ですの。ただ婚約の儀の頃のことを少し思い出していただけですわ」
「婚約の儀の頃、か」
神妙な顔でつぶやいたヴィルヘルム様だけど、すぐに表情が崩れる。
「まだ四ヶ月くらいしか経っていないのに、随分と前のことのようだ」
婚約の儀。
私がヴィルヘルム様の婚約者候補に挙がったのは、更に三年前のことだった。候補と言われながら、実質は確定事項だった。
私が花の精霊たちと触れ合ってしまったから。
ささやかで、大したことはない力。そんな私の認識とは裏腹に、瞬く間に王太子殿下、当時は第一王子殿下の筆頭婚約者候補に躍り出てしまった。候補というのも、婚約を結ぶのは幼年学校を卒業してからという慣例に従った結果に過ぎない。
そうは言ってもあくまでも婚約者候補なので、今のように頻繁に会うことも叶わなかった。一応、手紙のやり取りも許可されていたけど、ヴィルヘルム様は十歳にして既に忙しいようで、お互いのプライベートを知り得るような手段にはならなかった。そもそも同じ王都の幼年学校に通っているのだから会う機会はいくらでも作れたのでは? と私の両親なんかは思っていたようだけど、伯爵家という家格は王族に比べればとても低いものだと言わざるを得ない。ええ、エレオノーラ様を始めとした高位貴族のご令嬢方がそれとなく防波堤を形成されるので、ご尊顔を拝するのさえ難しかったのよ……。エレオノーラ様達も一応婚約者候補の位置づけでしたし。
だから、婚約の儀の段階になって初めて真正面からヴィルヘルム様を見た。王宮内にある聖堂で婚約の儀は恙なく終わり、そうして交流のためのお茶会が開かれた。そこでは聖堂の天井画も真っ青の天使が笑顔を披露したのよ。
あ、美少年がいるわ!
寸でのところで口からこぼれ落とさなかった自分を褒めたい。しかし、淑女教育を終えきれていなかった私の挙動は、大分あやしかったみたいだ。
――パルムクランツ伯爵令嬢? 僕の顔に何かついているだろうか?
光り輝く金髪と、どこまでも広がる澄んだ青空を想起させる瞳と、愛らしい高さの鼻梁と、柔らかな上弦の月のような唇がついていますわ。ほっぺは柔らかそうでつつきたくなりますわね。
なんてことは、勿論言えない。
――いいえ、何も汚れなどついていませんわ。
――そう? その手はハンカチを手に取ろうとしていたのでは?
おっと、ほっぺをつつきたい欲求を抑えきれていなかったみたいだ。
――違いますわ。
――そう?
――ええ。
頷いたものの適当な言い訳も思い浮かばない。嘘をつけない十三歳児だったのだ。決して頭が回らないわけじゃない。
ヴィルヘルム様は訝しみながらも、クッキーとともに飲み込んだようだ。うん……もぐもぐしているほっぺが、ますます愛らしいことになっているわ。視線を外せない。
――パルムクランツ伯爵令嬢? やはり何か?
――いいえ! 何もありませんわ!
――そうかい? てっきり毒か何かを警戒しているのかと。
とんでもない誤解をされているわ!
――違いますわ! 殿下のほっぺが柔らかそうで愛らしくて……つい、ええ、つい……。
言ってしまった。途中で気付いたけど、時すでに遅しだわ。侮蔑ではないけど、一介の令嬢が王太子殿下に向けて言って良い言葉じゃない。
不敬が過った。瞬間。ヴィルヘルム様が笑い声をこぼされた。あはは、と楽しげな声音は不敬を問うものには聞こえない。
――そんなこと言われたのは初めてだよ。
それはそうでしょうとも。王太子殿下に向けてほっぺだとか愛らしいだとか。羞恥で顔に熱が集まるのを感じた。私にとっては大失態の思い出だけど、ヴィルヘルム様にとっては、そうでもないらしい。
「今日のクッキーも美味しいだろう?」
笑みを浮かべて、本日のクッキーを薦めて下さる。嫌味な感じはない。もぐもぐされているほっぺが、今日も変わらず愛らしい。
「美味しいですわ」
王宮専属のパティシエの腕は確かだと思う。これから先もずっと食べられるのかしら。ヴィルヘルム様の隣を歩いて行く未来は確定しているのに、未だ確かな実感を伴わない。妃教育を始めてまだ四ヶ月ほど。ヴィルヘルム様との歩幅が揃っていないのは仕方のないことなのかもしれないけれど……。
「ところでヴィルヘルム様」
「何だろうか?」
クッキーを咀嚼し終えたヴィルヘルム様が、真面目な瞳を向ける。
「そろそろ夜伽について教えて下さる?」
「……まだ早い、と思う」
愛らしい頬は赤く染まり、庭園の白薔薇もまた染め上げる。まだ早いと言われなくなったら、私は隣にいることに自信を持てるのかしら。
◇◆◇◆◇
悶々としながらも、月日は変わらず過ぎ去っていく。ヴィルヘルム様が寄宿学校に入学される日になった。
「学生生活、楽しんでくださいね」
「アリシア嬢も、無理のない範囲で妃教育頑張ってね」
寄宿学校は、王都から離れる訳じゃないのだけど、長期休暇の時以外は外に出ることができない陸の孤島なのよね。恋愛小説なら、熱い抱擁の一つでもする場面だったろう。ヴィルヘルム様はじっと見つめられるだけで、手を差し出される素振りもなかったわ。
「手紙書くよ」
そっと囁くように言われた声は、柔らかかった。
手紙なら夜伽について教えてくださるかしら? と思いつつも私は頷くに留めた。お母様とお父様がいらっしゃる前で尋ねてはいけない、と直感が訴えたのだ。
ヴィルヘルム様からの手紙は、入学されて二日後に届いた。それから週に一回は手紙が届くようになった。正式な婚約者になってからの四ヶ月、特に筆まめな様子はなかったので、少し驚いた。まぁ、手紙の内容は学校での様子を淡々と綴られている日記のようなものだけれども。
私も同じ頻度で手紙を書くことになったけど、そこまで伝えたいことがある訳でもないので、少し困っている。
たとえば――妃教育だけでなく淑女教育も継続されて、最近は本を頭に三冊載せても歩けるようになったわ、でも本って重いし却って姿勢悪くならないのかしら、なんて半分愚痴のようなことまで書いちゃっている。婚約者に宛てる手紙ではないような気は若干している。
今日も今日とて手紙が届いて封を開けると、ふんわりと花の香りが漂った。
「これは金木犀の香り?」
もうすっかり秋ですものね。パルムクランツ伯爵家の領地でも咲き誇っていることだろう。道沿いに咲く可憐なオレンジの花は、見る者を癒してくれた。思い浮かべれば、身の内がふんわりと温かくなった。
庭園に行く旨を侍女に告げると、寄宿学校の様子が綴られたヴィルヘルム様の手紙を持ったまま、歩き出した。
伯爵家というだけあって、わが家のタウンハウスには、そこそこの大きさの庭園がある。エレオノーラ様が言うところの、こぢんまりとした可愛らしい庭園だ。それでも庭師たちが季節に合った花々の手入れを丁寧にしてくれていて、タウンハウスで最も華やかな場所になっている。
一歩、庭園に足を踏み入れば、手の中の手紙がより匂いたち、温かさが増した。一つ深呼吸をすると、手紙と花々が呼応するように仄かな灯りで明滅する。じんわりと広がる温もり。
「おいで」
語りかけるように呟けば、灯りが一つに集約して、やがて形作られていく。両手を差し出せば、オレンジの髪をした可愛らしい女の子が顕現した。赤子よりも小さい手のひらサイズ。けれど、幼児よりも明らかに成長している女の子。
「あなたは金木犀の精かしら?」
「そうよ! あなたは精霊使い?」
金木犀のイメージからすると、大分快活な雰囲気だ。
「ええ。私は精霊使いよ」
首肯したものの、別に使役する力がある訳じゃない。話しかければ応えてくれるというだけ。それも、どこでもどの精霊でもとはいかない。花々がある所で、花の精霊のみだ。そんなささやかな力でも、公爵令嬢や侯爵令嬢をおしのけて伯爵令嬢が王太子殿下の婚約者に収まるくらいには、希少なものだ。
精霊は世界を構築する根源が発露したもの。それらと交流できるだけで、未来の国母たる資格を得るのだそうだ。実際に触れ合う私からすると、そこまで大層なものとも思えないんだけどね。領地の花畑でころころと遊んでいたら、いつの間にか話せるようになっていたので、精霊使いなんて大仰に感じてしまうのよね。
「私に話したいことがあるみたいだったけど……会うのは初めてよね?」
「ええ! もちろん初めてよ! でも、どうしても伝えたかったの!」
花そのものではなく、手紙の残り香から顕現したのだ。余程急ぎの案件なのかもしれない。
「それは一体どんな話なの?」
「えっとね、ヴィルは照れ屋なだけなのよ!」
「ヴィル? ヴィルヘルム様のこと?」
「そうよ!」
精霊は力一杯頷いてくれるけど、何故にヴィルヘルム様の話? しかも照れ屋とは? 私は首を傾げてしまう。夜伽について尋ねた時も、やはり怒りではなく照れだったのかしら。周囲の白薔薇も染まるほどの照れ。
どうにもしっくりこなくて唸ってしまう。
「もう! 本当なのよ! アリーからの手紙をいっつも大切にしていて宝箱に入れているくらいなのよ!」
アリーって私のことかしら。ヴィルヘルム様から愛称で呼ばれたことなんてないのだけど……。困惑する私に金木犀の精はさらに言い募る。
「大体言葉にできないからって、私の残り香をつけるくらいなんだから、察してあげて!」
私の残り香? 金木犀の香りが手紙に付いていると何か意味があるというの……? 再び首を傾げる私に、金木犀の精は大きな溜め息をついた。
「アリーったら淑女教育は本当に順調なの? 花言葉なんて淑女の基本よ!」
人間が後付けて付けた花言葉を、精霊が何故把握しているんだろう。疑問が掠めたけど、口にすれば火に油をそそぎそうなので噤む。代わりに大きく頷いた。
「分かったわ。花言葉についてもきちんと勉強するわ」
「本当よ! 全く世話の焼ける二人なんだから!」
少し申し訳なく思いつつも、ぷんぷんしている金木犀の精は可愛らしい女の子の姿で、ちょっと和んだ。
「もう! これ以上居たたまれない気持ちにしないでよね!」
精霊は感受性豊かなのね。って、同じ手紙を見ているのに何も感じない私が鈍感みたいじゃないの。失礼しちゃうわ。
金木犀の花言葉は、初恋、真実の愛、だった。
すみません。私、とっても鈍感だったみたいです。金木犀の精に平身低頭した。
◇◆◇◆◇
ヴィルヘルム様の気持ちを垣間見たものの、劇的な進展はなかった。少し冷静になってみると、深い意味もなく秋だから金木犀の香りをつけただけの可能性だってあるもの。何よりヴィルヘルム様の手紙は相変わらず日記だった。この手紙に情熱的な返信をするのは躊躇われた。
そもそも直接お会いしていた四ヶ月の間も、特段恋されている様子はなかったのだけど……。初恋ねぇ。以前にもお会いしたことがあったのかしら。
とりあえず鈍感は返上するべく、手紙の残り香には気を配るようになった。
カーネーション、無垢で深い愛。
ブーゲンビリア、あなたしか見えない。
パンジー、私を想って。
なんて続いた時には、手紙の内容とのギャップに文面を二度見してしまった。花の匂いを間違えているのかもしれない、と思ってみても、それぞれの花の精たちが自己主張してくれるので疑いようがなかった。
いや、まだ半信半疑だったのかもしれない。
冬が過ぎて春が来て再び初夏が巡ってくるまでは。
「アリシア嬢」
八ヶ月ぶりに会ったヴィルヘルム様は、ぐっと背が伸びていた。声も聞き慣れたものじゃない。低い男性の声だ。寄宿学校では鍛錬も厳しいのだろうか。身体つきが別人みたい。離れている間に青年への階段を上り始めたらしい。愛らしかったほっぺは、もう見る影もない。
美丈夫という言葉が過った。
「ご無沙汰しております、ヴィルヘルム様」
この方があの手紙を認めているのかと思うと、何だか緊張した。それでも日々の妃教育と淑女教育のお陰か、私の体幹はぶれることなく、最上級のカーテシーを披露できたはずだ。スカートをつまむ指先、折り曲げた膝から足先まで、全てに気を配ったのだから。
だのに、ヴィルヘルム様がにっこりと微笑んだ瞬間、バランスが崩れそうになった。少年らしさを残した笑みは、危うい。私、面食いだったのだろうか。
「大丈夫か?」
咄嗟に差し出された手を取ると、途端に顔を赤くされるのだから尚悪い。手紙に込められた花言葉を読み取る訓練の賜物かしら。この表情をお怒りだなんて、もう思えないわ。
「ありがとうございます。お茶を用意しておりますの。今、令嬢の間で話題のパティスリーのものですのよ。ヴィルヘルム様の口にも合えば良いのですけども」
早口に説明しながら後悔していた。八ヶ月もの間、手紙のやり取りをしていたのに、私はヴィルヘルム様の好みの味を把握できていなかったのだから。金木犀の精に見られたら、呆れられてしまうわね……。
だけど、ヴィルヘルム様の笑顔が崩れることはない。
「それは楽しみだな」
優しい方なんでしょうね。気の利いた手紙も返せないくせに、お姿を拝見した途端慌てるような軽い女ですのに。気分を害された様子は見せることがない。
とにかくあまり幻滅されないようにしよう。若干気落ちしつつ席に座れば、ヴィルヘルム様の顔が曇った。
「何か気に障るようなことをしただろうか?」
「いいえ! 違いますわ。ただ自分の調子の良さにちょっとがっかりしただけなのです」
「どういうことだろう?」
これ、素直に言っちゃって良いのかしら。とても落胆される気がする。だけど、真っすぐに見つめられて抗うこともできずに、言葉は転げ落ちた。
「私、今までヴィルヘルム様の好みも把握していなかったことに気付きましたの。その癖、美しく成長されたヴィルヘルム様に動揺してしまって、調子の良い女でしょう?」
「アリシア嬢は、僕の今の外見が好みなのか?」
ダイレクトに尋ねられて、私は頷くより他なかった。けれど、ヴィルヘルム様は何だか上機嫌そう?
「そうか。今まで意識したことはなかったが、見目も大事にすることにしよう」
「ええ、是非」
あれ? と思いつつお願いしていた。私の好みということは勿論あるけど、為政者が惹きつける外見をしていることは存外大事なのだと、歴史の勉強をする中で把握しているから。
「それと、僕の好みなどは意図的に隠されている所もあるから、あまり気に病むことはないよ」
「意図的にですか?」
「好みが分かればそこから命を狙われることもあるし、それでなくとも王家に忖度しようと食物の生産状況に影響を及ぼす可能性もあるから」
王家は絶大な権力を持つと共に、国を率いるが故の制限も存外あるのだと実感する。どんな立場になっても、ただ自由を謳歌するだけっていうことはできないものね。
「僕のつ、妻になるアリシア嬢に好みを把握してもらえたら、う、嬉しいけどね」
言葉に詰まりつつも、照れ顔で真っすぐに覗き込むように見られると、どうにも面映ゆい。ヴィルヘルム様と一緒になるのは楽なことばかりじゃないと思う。それでも、多分きっと幸せになれる予感がする。
その予感を確信に変えたくて、手紙に込められた花言葉の真意を問いたくなった。
「あの、ヴィルヘルム様」
「ん、何だい?」
その無垢なる顔は白薔薇を体現しているかのようで、私の問いは卑怯なように思えた。自分自身の気持ちは定まり切っていないのに、相手の言葉に委ねるのはいけないことだ。大切だと考えるなればこそ。
私は咄嗟に気になっていた別のことを口にしていた。
「夜伽のこと、他の者が答えないように根回しされました?」
途端に顔を真っ赤にされて咳き込まれた。答えは是らしい。妃、淑女として一人前になるための最後の関門はヴィルヘルム様なのかもしれない。
いつの間にか真っ赤になった白薔薇の精たちも顕現して、やいのやいのと囃し立てている。白く清純な見た目なのにお茶目な雰囲気だ。賑やかで明るく、こんな日々でも良いのかな、と思えた。
……もしかしなくても、白薔薇の精も夜伽について知っているのかしら。
◇◆◇◆◇
春から始まった社交シーズンも、夏が最盛期になる。寄宿学校が長期休暇の間は、夜会だけでなくお茶会も盛んに開かれるようになるからだ。
デビュタントは男性が寄宿学校を卒業した年に行うのが通例なので、現状夜会には参加できない。だから、ただの伯爵令嬢なら、さして忙しくないはずだった。去年までのようにね!
王太子の婚約者となってから初めて迎える社交シーズンは、とにかく慌ただしいものになってしまった。招待状の数が怖い。せめて淑女教育か妃教育のどちらかだけでも緩まってくれれば良かったのだけど……。お茶会も教育の一環ですって言われたら、頑張るしかないよね。
とりあえず、他国の恋愛小説を原書で読めるようになったことは嬉しい収穫だ。教育万歳。
「アリシア様、あまり顔色が良くないのでは?」
もうすぐ夏が終わる。もうすぐ社交シーズンが終わる。なんて思いながら、意地で参加したお茶会でぽつりと尋ねられた。
とても心配してくれている声音と言葉で。
扇で冷たい笑みを隠しながら。
エレオノーラ様、公爵令嬢という肩書きがあるのなら、もう少し表情を取り繕って欲しい。できれば私のダメージが少ない方向で。
「暑い日々が続いたせいかもしれませんね。お気遣いありがとうございます」
「あらあら、心配ですわ。王妃殿下はどんなにお忙しい中でも体調を崩されませんのに。アリシア様は大丈夫なのかしら」
パチンと閉じられた扇が合図になったように、取り巻きのお嬢様方も追随してくる。
「本当にねぇ」
「ええ、心配ですわぁ」
うっかり硬くなりそうな表情筋を気付かれないように整えて笑みを浮かべる。
「ご心配、痛み入りますわ」
「でも、本当に気をつけてね。まだまだ暑い日は続きますもの。未来の国母が倒れる訳にはまいりませんもの」
公爵令嬢として場を収めるつもりは皆無らしい。そうですか、あなたの主催のお茶会なんですけどね。トラブルの芽を摘むどころか、加速させてないかしら。婉曲に言葉を重ねているけど、言っている意味はただ一つ。
王太子妃に向いてないんじゃない? の一言に尽きる。
妃教育の賜物か、言葉が丸裸になって飛んでくるのでちょっと辛い。でも、表向きは王太子の婚約者を貶してはいない。国が定めた婚約に異を唱えているわけじゃない。その微妙なラインをついてくるから面倒だ。
私が伯爵令嬢という家の弱さも一因ではあるんだろう。いや、国全体から見たら高位の強い家だけどね。公爵家を敵に回して、将来安泰とはならない立場なのも事実なのよ。
我慢よ、我慢、笑顔、笑顔。
「まぁ、もし倒れるようなことになりましたら、わたくしがしっかり代わりを務めて差し上げますから、ご安心なさいな」
……何、言っているの?
「まぁ、さすがですわ、エレオノーラ様」
「お優しいですわ、エレオノーラ様」
この方々は何を言っているの……? ヴィルヘルム様の隣に誰が立つというの?
不意にふわりと香りが立ち込めた。花瓶に生けられた花が、庭園の花々が、淡い光で明滅している。エレオノーラ様が自慢する公爵家の庭園だけあって、その花の数は膨大で、さながら屋敷全体が発光しているかのようだった。
「な、なんですの?」
お嬢様方が怯えた声を漏らして、周囲を見回す。護衛の騎士たちも剣を抜いて警戒の体制をとる。だけど、誰が対応できただろう。
薔薇の塊が飛び込んでくるなんて予想できないもの! 薔薇の蔓が部屋全体を覆い、尚も花が明滅を繰り返す。
――おいで。
不意に聞こえたのは、私がいつも精霊に掛ける言葉。
気づいた時には、私は手を伸ばしていた。
瞬間、光が弾けた。
◇◆◇◆◇
そよぐ風に、香る花。
幼い頃の私は淑女とは程遠かった。緑豊かな領地の野山を駆け回り、木にも登るお転婆な子供だった。お母様は眉をひそめていたけど、お父様と年の離れたお兄様は、仕方のない子だと笑って咎めはしなかった。
だけど、領民の子供たちに交じって遊び回るような私は、やっぱりお嬢様とは呼べなかったのかもしれない。
その日も、いつもと変わらない柔らかな日差しが降り注ぐ午後だった。
隣の領地のご家族が交流にいらっしゃるとのことで、お父様もお母様も何だか忙しそうで。おじ様もおば様も、そんな畏まるような方じゃないのにね。何にせよ子供の私は退屈だった。
だから、ちょっとしたイタズラの気持ちで屋敷から抜け出した。
領地は十歳にして勝手知ったる庭だった。何より友達がいっぱいいるんだもの! 何も怖いことはないわ。
伯爵邸の庭園を通り抜け、裏門に辿り着く。門番の交代のタイミングだって、ばっちり把握しているわ。お外に出るなんて、とっても簡単なことなのよ!
……まぁ、実際の所、侍女はついて来ていたし、護衛の騎士だって見守っていた。本当に子供だったのよね。
私の足は、伯爵邸の廊下と変わらない足取りで野道を歩いていく。正門から出ていたなら領都に辿り着いていたけど、裏門から続く道は林を抜けた先に花畑がある。季節ごとに顔を変える花畑は、美しくも楽しい遊び場だった。
――おいで。
花に呼びかければ、ふんわりと光をまとう。
辺りを彩る花たちは、次々に精霊の姿に顕現していく。世界を生む厳かな雰囲気……は皆無だった。
――アリー、元気してた?
――アリー、また怒られてた?
――お腹空いたよー、アリー。
――アリー、あのねー。
私のことを愛称で親しげに呼ぶ精霊たち。手のひらサイズの子供たちは、とても可愛らしく、そして賑やかだ。うるさくはない。ただ心地いい。
そうして花畑で精霊たちと戯れていたら、不意に土を踏む音がした。
護衛の人たちが迎えに来たのかしら、と思ったら、男の子が立っていた。
――妖精?
頬を少し赤らめた男の子は、夢見るような声音でつぶやいた。その青い瞳を見間違えるはずがない。ヴィルヘルム様だわ。
そっか、夢を見ているのは私ね。領地でヴィルヘルム様に会ったことなんてないもの。
――違うわ、花の精霊よ。
精霊は精霊使いでなければ見ることはできない。そんなことも知らずに精霊と戯れていた幼い私は、精霊の一人を指して事も無げに言う。ヴィルヘルム様は虚をつかれたような顔をしたものの、すぐに笑顔を浮かべる。
それから私たちは他愛無い会話で距離をつめていく。
――あなた、名前は? 私はアリーよ。
――僕は……ヴィルだよ。
ヴィルね、と頷きながら、精霊たちの紹介も、と思ったけどヴィルは笑顔を私に向ける。
――ねぇ、花畑で何してるの?
――え? 精霊と遊んでいるのよ。
――精霊と? 妖精さんは精霊が見えるの?
戸惑いつつも首肯する。何だか話が噛み合っていない気がしたものの、ヴィルは嬉しそうな顔をしているから指摘しそびれてしまう。この笑顔が曇ってしまうのは、何だか淋しく思えてしまったの。
それに、ヴィルと過ごす時間は楽しかった。
四つ葉のクローバーを探したり、蝶々を追いかけたり、いつも精霊たちと一緒にしていることが、ヴィルのそばにいると何倍も楽しくなってしまう。
――ヴィルは花冠を作ったことある?
――ないよ。
――じゃあ、教えてあげるわ。
取り留めのない会話。きっと三年もすれば綺麗に忘れ去られてしまうような言葉を重ねながら、花を一輪ずつ織り込んでいく。ヴィルは手先が器用なのか、初めてとは思えないほど上手だ。その指先は迷いなく動いているから、気付くのが遅れてしまった。
――できたわ。ヴィル、せっかくだから花冠を交換しない?
そうしてヴィルの額に脂汗が滲んでいることを見止めた。
――ヴィル? どうしたの? 気分悪い?
肩に触れようとした手が空を切る。トサリ、と余りにも軽い音でヴィルが花畑に倒れ込んだ。
――ヴィル? ヴィル!
触れた手がとても冷たかった。こんなにも汗をかいているのに。ひやり、と私の心臓が跳ねた気がした。呼吸を遮るような鼓動の速さに、嫌な予感が増していく。
――ねぇ! みんな、助けて!
何て言えば良いかなんて分からない。考えるよりも先に言葉が飛び出していた。精霊たちが頷いてくれるのを見た瞬間。ぎゅっと光が集まる感覚がした。
助けたい、この男の子を。ヴィルを。
願いが花畑を駆け巡り、唱和するように花びらが揺れた。それは世界が共鳴する音だったのかもしれない。
護衛と侍女が駆け寄ろうとしていたのに気付いた後は、もう何も覚えていなかった。
ただ、とても温かい気持ちに包まれた気がする。
――おいで。
囁かれた言葉は、いつだって優しい。
◇◆◇◆◇
眠っていたのかしら。
気絶していたという方が正しいのかしら。
そんな状況にそぐわない呑気な気分で目を開くと、花畑だった。私のよく知る花畑だ。
「いつの間に領地に帰ってきたのかしら?」
花の香り。肌に触れる土の感触。目に映る彩り。夏でも暑さを感じさせない涼しい空気。全てが現実だと告げてくる。
体を起こして改めて周囲を見回す。誰もいないわね。さっきまでお茶会をしていたはずなのに。どういうことかしら。私の着ているドレスはお茶会の時と変わらないわ。
「みんなはいるの?」
声をかけると、ふわりと光が集まり出す。この花畑の精霊たちかな、と思ったけど、多種多様な花の香りじゃない。明確な二種類の香り。
白薔薇と金木犀。
そして、それは人の形を成していく。見間違えるはずのない人。
「ヴィルヘルム様?」
「アリー!」
姿を認識した途端、光の束にぎゅっと抱きしめられる。それは確かにヴィルヘルム様だった。光は金木犀と白薔薇の精に顕現する。
「良かった。本当に無事で良かった」
涙声になっている。心配させてしまったのだ。そう思ったら、申し訳ないのに、何だか嬉しくもあるようで、不思議な気分になる。
そんなヴィルヘルム様の周囲を光の束が囲んで明滅しだす。これは危険な兆候なのでは?
危惧する私の心に呼応するように、白薔薇と金木犀の精がヴィルヘルム様と光の束の間に割り込む。
「やめなさい! ヴィルに悪意はないわ! へたれだけど!」
「そうよ、彼は純情可憐な男の子よ」
……何故かしら。フォローしてくれているはずなのに、責められているような心持ちになるのは気のせいかな。明滅する周囲の光も急激に弱くなってしまった。
「もっと、しっかりとするよ……」
ヴィルヘルム様も凹んで……あれ、精霊の声が聞こえている?
「ヴィルヘルム様も精霊使いになられたのですか?」
私から離れたヴィルヘルム様は、静かに横に首を振られる。
「いや、違うと思う。ここに来るまでは声は聞こえなかったから。ただアリシア嬢と交流する中で気にかけてくれるようになったのかな、と」
あら、呼び方が元に戻りましたわね……。
私の小さな不満に気付くことなく答えたヴィルヘルム様を肯定するように、元気な声が割り込む。
「その通りよ! ほっといたらいつまで経ってもアリーが幸せそうになれないんだもの!」
「彼は奥手……紳士な男の子なのよ。私たちの声は普段は聞こえないはずよ」
とりあえずヴィルヘルム様については分かったものの、別の疑問が掠める。
「パルムグランツ伯爵領は精霊に縁深い土地なのかしら?」
「あら! 私たちはどこにでもいるのよ!」
どこにでもいる。花がある所ならどこでも、ということなのかしら。でも、それならみんな声が普段から聞こえるものではないかしら。ますます疑問が深まる私に対して、ヴィルヘルム様が言葉を足してくれる。
「ここはパルムグランツ伯爵領であって、そうではないんだ。君がお茶会の途中で消えたと聞いた僕は、白薔薇と金木犀の精の光に導かれて来られたんだけど、ここは所謂精霊界なんだと思う」
「精霊界?」
「精霊たちの住まう世界は、僕たちの住む世界と表裏一体と言われている。あちこちに入り口はあるみたいなんだけど、それは学者の間でも把握できていないんだ」
「じゃあ、ここはパルムグランツ伯爵領とは、似て非なる世界……」
「うん、本当によく似ているけどね。アリシア嬢の心象風景も影響しているのかな」
なるほど、と頷いてみたものの、すぐに別の疑問が出てきてしまった。
「あの、ヴィルヘルム様はパルムグランツ伯爵領に来たことがあるのですか?」
「あっ」
何だか気まずげな声が漏れた。ん? と首を傾げると、白薔薇と金木犀の精が何故かにんまりと笑みを浮かべた。
「本当にね! 何でだろうね!」
「気になるわねぇ。教えて欲しいわねぇ」
ちょっと気の毒なくらい顔が赤くなっているけど、気になるので私もじっとヴィルヘルム様の顔を見る。
「その、僕は昔、アリシア嬢に助けてもらったことがあるんだ」
「私がヴィルヘルム様を?」
とんと記憶にない。首を傾げる私に、ヴィルヘルム様は困ったような笑みをこぼす。
「僕は小さい頃は体が弱くてね。パルムグランツ伯爵領の隣の直轄領で療養していたことがあるんだよ。その頃に美しい花畑があると聞いて、この地を訪れたんだ。君は花畑で精霊たちと遊んでいたのかな。その時の姿が、その……おとぎ話に聞いた妖精みたいで、僕は、一目惚れ、してしまったんだ」
「そう、だったのですね。でも、助けるとは……?」
本当に記憶になくて返答に困る。
「隣の領とはいえ、長距離の移動はやはり体に負担だったんだろう。僕は体調を崩して倒れてしまった。そんな僕を精霊とともに君が救ってくれたんだ」
ヴィルヘルム様の視線が懐かしむように周囲を見回す。
「その時もここに連れてきてくれたのかな」
「え?」
夢の話じゃないの?
「アリシア嬢は僕を救うために精霊に助力を乞うた。結果的に、精霊たちのお陰で僕の体質も改善したんだ」
「精霊たちのお陰?」
「精霊は世界を構築する根源でもあるからね」
ヴィルヘルム様は疑う余地なく話されているけど、私にはやっぱり記憶にない話だ。私、婚約が調うまではヴィルヘルム様とまともに話したこともなかったはずなんだけど……。
疑問が顔に出ていたからか、ヴィルヘルム様は気まずそうな顔をする。
「三年前、まだ十歳のアリシア嬢にとって精霊界へ繋がる道を作ることは、かなり力がいることだったんだ。精霊の力の行使は心にも負担がかかるのか、その前後のアリシア嬢の記憶は曖昧になるだろうと言われていたよ」
「そうだったのですね……」
「うん、精霊の言だから、確かだと思うよ。実際、その後、覚えている様子はなかったし」
何だかヴィルヘルム様の方が精霊に詳しいみたい。
私なんて、精霊とは対話できるだけだと思っていた。でも、過去に力を行使したことがあったなんて……。考えてみれば、お茶会での出来事も無意識に力を行使してしまった結果なのかもしれない。
もしかしなくても、夢だと思った花畑の出来事は実際にあったことなのだろう。ヴィルヘルム様の話の通りなら、私が忘れているだけで……。世界が光に包まれるあの感覚が、現実。
じくり、と胸の辺りが痛む。気持ちが重くなる。
私、元の世界に戻っていいのかしら。こんな異能を持った私が……。戸惑う心に反応したのか、周囲の光が再び強く明滅し出す。
「アリシア嬢、今更だけど、あの時はごめん。そして、ありがとう」
ごめんとありがとう。
否定でも肯定でもなく、ありのままの私を、一人の人間として受け止めてくれている言葉のように思えた。胸の奥に、ほっと灯りが差したような気がした。戸惑いは抜けきらないまま。
そんな私の右手を取って、ヴィルヘルム様が片膝をつかれる。花の香りが匂い立つ。
「ヴィルヘルム様?」
「アリシア嬢。僕は君を愛している。この想いは、一目惚れした時から日々深まるばかりなんだ。どうか僕の隣にこれからもずっといてくれないだろうか?」
そっと指先に触れるか触れないかの、甘やかな口づけ。
なのに、どうしてかしら、とても温かい。真っ赤なヴィルヘルム様の顔が愛おしくなる。幸せになれる予感は、二人で幸せになる確信に変わった。
「はい。私もヴィルヘルム様をお慕いしております」
瞬間、明滅した光が再び弾けて、世界が現実に反転していく。白薔薇と金木犀の精の笑顔が優しかった。
◇◆◇◆◇
精霊使いが精霊界に赴いた一時の間に、現実世界では一週間もの時間が流れていた。
その間に、大地はみるみる活力をなくした。このまま行けば死の大地となるだろう、と早くも諦観してしまうほどに恐ろしい変化だった。
かつてナテュルグラード王国と呼ばれ、風光明媚にして肥沃で広大な大地を誇った国だった頃も。
三百年前、当時の双子の王子が統治の考えを違えたことにより国が割れて、花と緑を誇るブロンミニア王国が建国してからも。
まるで想像しなかったことだろう。世界を構築する根源の発露たる精霊にそっぽを向かれるのが、一体どういうことなのか。人々は身をもって教えられたのだ。
そして、精霊使いであるアリシア様が王妃殿下となり、精霊に認められたヴィルヘルム王太子殿下が陛下となる治世は今までにない繁栄をもたらすだろう、と人々は期待した。
「――ですって。持ち上げられすぎているようで怖いわ」
私は市井で売られている新聞をヴィルヘルム様に突き付ける。ヴィルヘルム様は困った顔を浮かべられる。
「そうだね。そもそも父上が退位されるのはまだまだ先だと思うんだけどね」
「陛下、泣いてないかしら……」
「大丈夫だよ。今日泣いているなら、どちらかというと嬉し涙じゃないかな」
陛下も祝福して下さっているってことよね。
私たちはヴィルヘルム様が寄宿学校を卒業した翌年に結婚した。もっと婚約期間を設けても今更誰も反対する人はいないと言われたけど、少しでも早く一緒になりたいと思ったのだから仕方ない。
「ねぇ、ヴィルヘルム様」
呼びかけると、何故かムスッとした顔をされる。
「結婚したのだから呼び名は、その、ヴィルと呼んでくれないだろうか?」
「では、私もアリーと呼んでくださいませ」
既に顔が赤い。だけど、躊躇うことなく頷いてくれた。
「もちろんだ、アリー」
「では、ヴィル、夜伽について教えてくださいますか?」
「……もちろんだ!」
ヴィルの力強い腕に横抱きにされて、二人の部屋に導かれる。
あぁ、これは朝チュンと表現するより他ないわね。私が深く深く納得するのは、もう間もなくのことだった。