私たちは満たされてはいけない
「黒伯爵の元へと嫁に行って欲しい」
そう父に言われた時、マリアの頭の中は真っ白になった。
「お父様、今なんとおっしゃったのですか」
「黒伯爵ヴィルヘルム伯爵の元へと嫁いで欲しいのだ」
「ああ……」
マリアは崩れ落ちる。
黒伯爵ヴィルヘルムと言えば呪いの丘に建つ屋敷に住むという伯爵である。
かつての悪魔との戦いの際、呪いがふりまかれ暗黒に染まった大地。そこに足を踏み入れた者は生気を奪われ病に侵されて死ぬという。
ヴィルヘルム伯爵は、その呪いの丘にあえて居を構え住んでいる変わり者として有名だった。
暗黒の大地に漆黒の屋敷を作り住まう伯爵。
その事から黒伯爵の通り名で呼ばれる。
その正体は悪魔の生き残りではないかと噂されていた。
他にも伯爵は奴隷商人のお得意様で、幼い子供の奴隷を買っては手足を切り刻んでいるという話もある。
「それは嫌です」
マリアが声を上げると、マリアの父が地面に頭をつけて土下座した。
「頼むマリアよ。ヴィルヘルム伯爵はお前が嫁に来てくれれば我が家の借金を代わりに返してくれると言ってくれているのだ。我が家を守る為に黒伯爵の元へと嫁に行ってくれ」
「ああ……」
マリアの家はいわゆる没落貴族というやつだった。
父の代になってから人に騙され続け多額の借金を抱えるようになっていた。
「なぜ、私なのですか」
「ヴィルヘルム伯爵は街でお前を見て気に入ったそうだ」
「顔を隠して街に行けばよかったですわ」
そうすれば黒伯爵に目を付けられる事もなかっただろう。
「頼むマリア、お前が嫁に行ってくれなければこの家はおしまいなんだ」
「ああ……」
家具を手放し、屋敷を手放し、食費を切り詰め、あらゆる贅沢を否定してまで父が最後まで手放さなかったものは貴族の地位だった。
その為に、ついにマリアが捨てられる番がやってきたのだ。
そう思った瞬間、マリアの中で何かが急速に冷めていくのがわかった。
まるで心が枯れ井戸になったようだった。
心の中に何もない。
この家にいても幸福はない。
それならばいっそ悪魔にでも嫁いだ方がマシだろう。
「わかりました。私、黒伯爵様の元へとお嫁に行きます」
それから、可及的速やかにマリアと黒伯爵の結婚式が執り行われた。
街で一番大きな教会で行われた結婚式は多くの野次馬達が集まったが、肝心の新郎の黒伯爵が姿を現す事はなかった。
マリアは一人で神父に永遠の愛を誓うと、ついに黒伯爵の屋敷で暮らす事となった。
◇◆◇
呪いの丘に建つ黒屋敷でマリアが過ごすようになって三日が経とうとしていた。
その間、マリアの元に黒伯爵が姿を現す事はなかった。
代わりに来たのは屋敷の管理をしているという長い前髪で顔を隠した家令の青年だった。
「伯爵はあなたにはお会いになられない。これは世間体を考えた偽装結婚ですから。どうぞマリア様も屋敷で自由にしてください」
家令の青年が初日に言ったのがそれだった。
初夜を覚悟して来ていたマリアは拍子抜けすると共に、ホッと胸を撫でおろす。
結婚式に出てこなかった時点で薄々感じてはいたが黒伯爵はマリアの事など気にしてはいなかったのだ。
「屋敷で何をしていても構いませんが一つだけ。屋敷の地下には絶対に行く事はないように」
そう言い残すと、家令の青年はマリアを部屋に残し出て行った。
それから三日。
「さすがに何もする事がないというのも暇ですわね」
暇を持て余したマリアは屋敷の雑用を手伝うようになっていた。
黒屋敷は不思議な所でいつの間にか部屋が綺麗になっていたり、衣服が洗濯されていたり、料理が準備されていたりする。
これだけの広さの屋敷を維持する為には、それなりの数の使用人が必要なはずなのだが一度としてその姿を見た事はない。
しかし、使用人がいる事は間違いないのでマリアはその手伝いをしていた。
そうしてマリアが屋敷の雑用を手伝うようになってしばらくして屋敷の地下へと続く通路を見つけた。
好奇心に駆られてマリアは地下室の扉のドアノブに手を掛けるが止まる。
家令の青年の言葉を思い出したからだ。
〈屋敷の地下には絶対に行く事はないように〉
手を離そうとするマリアの耳に子供たちの声が聞こえてくる。
それは、部屋の中から聞こえてきていた。
黒伯爵は幼い子供の奴隷を買っては手足を切り刻んでいる。
黒伯爵の黒い噂。
それがもし本当だとしたら。
「見過ごせませんわ」
マリアは地下室の扉を開ける。
それはとても広い子供部屋だった。
可愛らしく飾り付けられた部屋。
無造作に置かれた玩具。
何の変哲もない子供部屋だ。
ただ一つ、体を切り取られて玩具と共に転がされている子供たち以外は。
クマのぬいぐるみ、腕、指、足先、ボール、頭部、胴体、胸、膝、積み木、それらが玩具箱をひっくり返したように一緒くたにいる。
「これは……」
マリアが茫然と立ち尽くしていると子供の声が聞こえてくる。
「お姉さん、もしよかったらボク達を片づけてくれないかな。マルコのやつが散らかしてそのままなんだ」
声を発したのは転がっている子供の頭部だった。
「まったくあいつは玩具とボク達の区別がつかないんだから困ったもんだよ」
次に声を発したのは手首だった。
「いいえ、違うわ。きっと寂しいのよ。彼はもうここにはいられないから」
「せっかく治ったのに寂しいね」
「それが約束だからね」
「伯爵との約束」
子供部屋に転がる子供の体たちの会話をマリアは呆気に取られながら聞いている事しか出来なかった。
「だからさお姉さん。ボク達を片づけてよ」
「片づけるというのは?」
「玩具をそっちの箱にボク達をそっちの箱に入れてくれればいいから」
「わかりましたわ」
マリアが言われるがまま部屋を片付けようとした時だった。
「困りますね。地下には絶対に行かないようにと言っていたのに」
マリアの後ろに家令の青年が立っていた。
◇◆◇
家令の青年は子供部屋の奥の部屋へと行くと、一人の少年を連れてきた。
「さあ、マルコ。皆に謝って片づけをしなさい」
家令の青年が促すと少年が「ごめんなさい」と謝り片づけを始めた。
あの少年が先ほど子供たちの体が話していたマルコであるらしい。
「一体、これはどういう事ですの?」
マルコが体と玩具をそれぞれの箱に片づけていくのを眺めながら、マリアは家令の青年を問い詰めた。
「街では噂になっておりますわ。伯爵は奴隷の子を買っては手足を切り刻んでいると、まさか本当に?」
「落ち着いてくださいマリアさん」
「これが落ち着いていられますか」
「だから、地下には絶対に行く事はないようにと言ったのに」
やれやれとした口調で家令の青年が首を振る。
「説明してください。でなければ私はこの事を告発します」
「わかりました」
マリアが強い口調で言うと、家令の青年は深い吐息をついた。
「見られてしまったからには仕方ありません。これから先の話、否定する事なく聞いてくださいますか?」
「いいですわ」
「いいでしょう」
マリアが頷くと、家令の青年は静かに話し始めた。
「まず、伯爵が奴隷の子を買って体を切り刻んでいる。これは事実です」
「やはり告発します」
「待ってください。伯爵は奴隷の子達を救う為に子供の体を切るのです」
「子供を救う為?」
「そうです。伯爵が買うのはもう普通では生きられない子供たち。例えばピノを見てください」
「ピノ?」
「あの子供の手首です」
家令の青年が指さした先には、片づけをするマルコという少年が持つ手首から先の手があった。
マルコはその手首を箱の中にしまう。
「ピノは重い病に侵されていた奴隷でした。普通に暮らしていれば後一月と持たない体だったのです。なので、伯爵は外科的治療によって彼の病に侵された部位を切除する事にしました。病に侵された部位とはすなわち手首以外の全てです。だからピノは手首だけになった。あちらのカノコも同じです」
そう言うと、今度は積み木の隣に転がる足首を指さした。
「カノコもまた重い病に侵されていた奴隷でした。伯爵は外科的治療によって病に侵された部位を切除した。だからカノコは足首だけになった。他の子達も同じです」
「なんで、あの子達、あの状態で生きてますの」
「当たり前の疑問ですね。一言で言うならばこの呪いの地のおかげでしょう」
「呪いの地ですか」
「そうです」
家令の青年は頷くと続ける。
「マリアさんも聞いた事があるのではないですか。呪いの地に足を踏み入れればたちまち生命力を奪われて病に侵されて死ぬ」
「ええ、しかしそれは迷信でしょう。現に私は何ともありませんわ」
「それはマリアさんが、いえ、いいでしょう。とにかく、それは迷信ではなく本当にあるのです。しかし、それだけではありません」
更に続ける。
「この地は満たされたものの生命力を奪うと同時に満たされないものに生命力を与える。つまり、五体が満たされない子供たちには命を繋ぐに十分な生命力が常に与えられ続けているから死なないのです。しかし、それではただのゾンビになるだけ。与えられる生命力を正しく制御し、奴隷の子が正しく人としていられるのは伯爵がいてこそ――」
そこまで言うと、家令の青年は薄く笑みを作る。
「伯爵はね、子供が好きなんですよ。だから治療してあげているだけです。今は手首だけの子も足首だけの子も頭だけの子もいずれは全ての体を取り戻す。あの子のように」
家令の青年はマルコを指さす。
「マルコも最初は親指だけの子でしたから、それが今では立派に五体を取り戻した。しかし、五体を取り戻したらこの館からは去るのが伯爵との約束です。満たされれば今度は逆にこの土地に生命力を奪われるわけですから」
気が付けばマルコの片付けも終わりそうになっていた。
「そういうわけですので、告発はしないでいただきたい」
「わかりましたわ」
何がわかったのか、それもよくわからなかったがとりあえず告発はしない。
「その代わり、私がこの子達の面倒をみますわ」
「それは邪魔なのでやめてください」
「いいえ、もう決めました」
それからマリアは屋敷の地下で奴隷の子達の面倒をみるようになった。
家令の青年の言うように、奴隷の子達は月日と共に体を取り戻していった。マリアが目を離すと手首だけだった少年に腕が生えていたり胴体が出来ていたりする。
はじめは気味が悪いと思っていたマリアも次第に子ども達に情が移っていた。
奴隷の子が体を取り戻して屋敷を後にする時などは、すっかりと情が移って思わず行かないでと毎回泣いてすがってしまう程だ。
その度に家令の青年に眉を顰められていた。
「そう言えば、あなたのお名前は何というの?」
いつものように子供たちの面倒を見ながら、マリアは家令の青年に名前を訊ねた。
黒伯爵の屋敷に来てしばらくして、マリアは彼の事が気になり始めていた。
屋敷の地下にやってくるマリアを「邪魔です」と迷惑そうにしながらも、なんだかんだで優しい所もある青年に惹かれていた。
それはマリアから名前を訊ねる程に。
「名前ですか、そうですね。マリアさんと一緒にいる時はマリオなんていかがでしょう」
「それは、明らかに偽名ですわ」
「そうですか?」
「そうですわ」
それからマリアは家令の青年の事をマリオを呼ぶ事にした。
そうして月日が流れ、マリアがマリオと共に足首の少女を屋敷から送り出した頃だった。
「伯爵がお呼びです」
マリオがマリアの部屋にやってきて言った。
◇◆◇
その日はちょうど太陽が月に隠れて暗黒に染まった日だった。
「嫌です」
「ですが、決まった事なので」
短くそう言うと、マリオはマリアの部屋を出て行った。
マリアは漆黒に染まった窓の外を見る。
少し前までならば、伯爵に抱かれる事も受け入れていた。
しかし、今のマリアの心の中にはマリオがいた。
伯爵を受け入れる事は出来ない。
マリアが唇を噛みながら、外を見ていると漆黒の空に割れ目が出来た。
そこから現れたのは頭に山羊のような角を生やした巨躯だった。
その巨躯の男は黒い羽根を生やした異形の生き物を無数に付き従えている。
悪魔だ。
マリアはすぐにその存在に思い至った。
かつて人という人を殺し、この世界を滅亡の寸前にまで追いやった存在。
おとぎ話の中の英雄によって封じられた人の天敵。
そして、あれが黒伯爵なのだとマリアは直感的に理解した。
「逃げなければ」
あんな恐ろしいものに抱かれるくらいなら屋敷から逃げよう。
マリアは部屋を飛び出ると、すぐに足を止める。
今まで目に見えなかったけれど、確かに存在していた使用人たち。
それが今この瞬間にははっきりと目に映る形で存在していた。
一つ目の細長い体の異形。
悪魔だった。
使用人は悪魔だったのだ。
主が悪魔だったのだから使用人が悪魔なのも当然の事だった。
廊下には出られない。
マリアは部屋に戻ると窓を開け放つ。
窓から地面までは二階分の高さがある。
マリアは少し躊躇すると飛び降りた。
「……っ」
しかし、そううまく行くはずもなかった。
マリアは飛び降りた拍子に足を挫いたのだ。
このまま、どうする事も出来ずに自分はあの黒伯爵に抱かれるのだ。
悪魔たちは空から一直線にこの屋敷に向かってくる。
その時、ふっと体が軽くなった。
自分の体が持ち上げられたのだと気が付いたのは、その少し後だった。
「マリオ……」
「随分と無茶な事をしますね」
マリオがマリアの体を抱き上げていたのだ。
「あなたも悪魔なのね」
見上げると彼の顔がよく見える。
いつもは髪で隠れて見えなかった彼の目は黒い白目に金色だった。
マリオはマリアを地面に下ろすと、髪をかき上げて首肯した。
「そうです、今まで黙っていてすみませんでした」
「私は伯爵には抱かれたくありません」
「はい」
「伯爵の所に行くなんて嫌です」
「はい」
「私はあなたの事が好きです」
「はい?」
思わず勢いで告白してしまったマリアにマリオが首を傾げる。
「ですから、あのような恐ろしい存在に抱かれるなどまっぴらだと言っているのですわ」
マリアが空から降りてくる巨躯の悪魔を指さしながら言うと、マリオは小さく笑った。
「何かおかしい事が?」
「あれは僕の父です」
「父、御父上?」
マリアが困惑していると、マリオがもう片方の髪をかき上げて言った。
「そして母は人間でした。僕は悪魔と人間のハーフなんです」
もう片方の瞳はマリア達と同じ人間の目だった。
「母の名はウィズダム・ヴィルヘルム。マリオネット・ヴィルヘルム伯爵というのは僕の事です。隠していてすみませんでした」
「マリオネット、じゃあマリオというのは」
「あなたがもし、もう少し黒伯爵に興味があったら名乗った時に気づかれていたでしょうね」
マリオは薄い笑みを口元に作った。
「それは、すみませんわ」
「いいんです、だから僕はあなたを選んだのですから。何もかもどうでもよさそうな枯れ井戸のようなあなただったからよかった」
マリオはそう言うと月に隠れた太陽をみた。
「十七回目の日食までに嫁がいなかったら連れ帰ると父に言われていたから作った嫁でした。しかし、一緒に過ごす内に僕もあなたに惹かれてしまったようです」
「それは」
「僕もあなたの事が好きです」
マリオの告白にマリアは血が湧き立つのを感じた。
「もっと、早くに言って欲しかったですわ」
マリアが照れを隠すように言い募ると、マリオは目を伏した。
「怖かったのです。あなたと偽装ではなく真に夫婦となったなら、僕は満たされてしまうかも知れなかったから。父から出された人の世界で生きる条件はもう一つあったのです。それはこの土地で暮らす事でした。この呪われた地では満たされたものは生きてはいけない。満たされれば衰弱した所を僕は父に連れ帰られるでしょう。でも、僕はいいんです。それだけですから。しかし、あなたは違う」
そこまで言うと、マリオはマリアの目を見た。
「あなたは満たされれば死んでしまう。僕と結婚した事であなたが満たされればもう一緒にいられない」
この呪いの地は満たされないものに生命力を与え、満たされたものから生命力を奪う。
満たされたものはこの屋敷から去らなければいけない。
五体を取り戻し、満たされた奴隷の子たちを何人も見送った。
それが、この土地と屋敷の掟。
「あなたと一緒にいたいあまり僕は素性を偽り続けてしまった。今からでも遅くはない。病にかかれば取り返しのつかない事になります。その前にこの屋敷を出てください」
そう言うと、マリオはマリアを突き放した。
しかし、マリアはそれを突っぱねる。
「自惚れるのも大概にして欲しいですわ。あなたと結婚した程度で満たされる私ではありません。私は強欲なのです。もっともっと、幸せをくださらなければ満たされる事なんてあるものですか」
ずっと渇望の中で生きてきた。父が借金を作った時から、いやそのずっと前から、生まれた時からずっといくら注いでも満たされない井戸のようにマリアの心は乾いていた。
「僕の目に狂いはなかった」
毅然としたマリアに、マリオは口元を緩める。
「一生の渇望の中を僕と一緒に生きてくれますか」
「私を満たせるものなら、満たしてみなさい」
二人は愛を誓うと、唇を重ねる。
「それでは、行きましょう」
「はい」
巨躯の悪魔がおりてくる。
その日、マリアは改めて悪魔たちの前で結婚式を挙げた。
病める時も。
健やかなる時も。
私たちは満たされてはいけない。
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