第八話:圧倒せしもの
昼下がりのビル街で、トーマは途方にくれていた。
本業の為に出掛けたトーゴとヨシトを手伝おうとしたが、人数が増えても邪魔なだけだと追い払われた。
ならばゴトーを手伝おうかとしても服飾の知識などあるはずもなく、とイクトを手伝おうにも仮想通貨の仕組みすら分からない。
おかげで種付けおじさんとして生まれ、そして育ったトーマは暇になったときの対処法を知らなかった。
仕方がないので昔に世話になった種付けおじさんのテリトリーに向かっている。
日が高く人通りも多いせいで暗い裏道ばかりを通るのだが、トーマにとってはこれが当たり前の日常である。
種付けおじさんは様々な暗がりを住居としている。
トーマ達が大公園に住んでいるように、このビル街ではとある路地の隙間が種付けおじさんの住処であった。
トーマが到着したその場所には、何も残っていなかった。
それもそのはず、ここにいた最後の種付けおじさんは二年も前に警察によって駆除されたのだから。
本来ならば花でも添えるところだが、種付けおじさんが花屋を利用できるはずもなく、かといって野草を置くのも何か違う。
なので、トーマは黙って両手を合わせて黙祷だけする。
後天的な種付けおじさんはともかく、生まれつき種付けおじさんは知能が低いのでこういった常識を知らないと思われているが、実際は違う。
むしろ、法に関しては一般人よりも詳しいかもしれない。
種付けおじさんは悪人を裁く。
それはつまり、悪とみなされる行為について熟知していなければならないのだ。
そういった理由もあり、種付けおじさんとして生まれたものは専用の施設で様々なことを学習する。
代わりに、文化的な事については無知である。
壁への落書きは悪いことであると分かるが、モナリザは知らない。
真夜中に騒音を撒き散らすことは駄目だと分かるが、流行の曲を聴いても音としか認識できない。
美術も、音楽も、料理や裁縫すら教わらず、ただ必要なことだけを身につけ矯正された生活に比べれば、施設を出た今の暮らしの方が自由がある分、いいものなのだろう。
親しいわけではなかったが、嫌いでもなかった同類への黙祷をしていると、何やら揉め事のような声が聞こえてきた。
普通の種付けおじさんであればさっさと立ち去るところだが、トーマは敢えてその声のする方向へ向かう。
種付けおじさんが悪を戒めるのは生きることを見逃される為だけに掲げている看板であるが、生来真面目なトーマはその役割を受け入れて種付けおじさんをこなしているからだ。
義務感でも使命感でもなく、ただ課せられたという事実だけを胸にトーマは影から声の主達を覗き見る。
女子学生が一人、その手を握っているガラの悪い男、その後ろに同じような男が四人。
それに地面に一人の社会人の男……足を抑えているところから、怪我をしている事が分かる。
「離……して……」
髪が短く、それでいて左右の均衡が整えられた顔とスタイルの女子学生が、握られた手を振り払おうとするも、男の力に勝てず動きそうにない。
「おいおい、ヒドイじゃないか。折角コンクリートブロックが落ちてきたから親切に手を引っ張って助けてあげたっていうのに。もしも助けなかったらそっちの奴と同じ目にあってたんだよ?」
ガラの悪い男の言葉に同意するかのように、後ろにいた男達が含み笑いをする。
「お……お願いだ、彼女はこれから大事な仕事が控えている……。お金がほしいのならボクの財布を持っていっていい。だから、彼女だけは見逃してくれ」
地面に倒れていた社会人の男はポケットから財布を取り出して差し出すが、男達は興味がないのか財布を持っていた手ごと蹴り飛ばす。
「ちょっとおっさん黙ってろよ。コンクリブロックが落ちてきたんだぞ? 先ずは大丈夫かどうか病院に連れて行くべきだろ。だから俺達が連れてってやろうってのによぉ」
もちろんこの男達にそんな気はない。
だが無理やり何かしようというつもりもないのだが、それが逆に性質が悪い。
脅し宥めすかし、そこから譲歩したかのように見せかけて連絡先や住所を手に入れて、そこから様々な要求をする為だ。
「普通、あんなところにコンクリートブロックは積まれていない。誰かがやったとしか……」
それを理解しているからこそ、彼女は頼りになる男性が倒れ、五人の違反者に囲まれていながらも平常心をなんとか保ち何とかしようとしているのだ。
警察を呼べれば簡単したことだろう。
だが男に手を掴まれている状態では連絡することができない。
もしも、小さい頃に教わった種付けおじさんがいれば―――。
「少し失礼。これは……折れていますね。すぐに救急車を呼んだ方がいい」
その場にいた全員が種付けおじさんであるトーマに注目した。
トーマは倒れた男性の足を触らぬように怪我を診る。
裂傷はほとんどないものの、種付けおじさんではない彼にとっては激痛であるはずだ。
「種付けおじさんッ!?……いや、そんなことはどうでもいい……どうか透を現場に連れて行ってくれ!」
しかし男は痛みを堪えながら、自分よりも女子生徒を優先させた。
大人としてのプライドか、それとも男の意地か、例え地に伏せていても、その振る舞いは立派なものであった。
「ここにいた種付けおじさん共は死んだはず……失せろ! 警察を呼ばれてぇか!」
一度は気圧されたが、なんとか堪えたことで透と呼ばれた女子生徒の手を掴んでいた男は声を張り上げる。
確かに種付けおじさんにとって警察は天敵である。
だがトーマはそれに臆することなく、スーツの上着を脱いだ。
「そうか、警察は怖いな……。だから、到着するまでは君たちで楽しませてもらうとしよう」
その種付けおじさんの言葉を聞き、全員がざわつく。
「学校で習っただろう? 種付けおじさんはどんな奴だろうとも襲う。それは暴力を振るうことを生業にしている奴すらも押さえ込めるということだ」
種付けおじさんが一枚、一枚丁寧に服を脱ぐ。
あらわになった歪な筋肉質の体を見て男達が身構える。
「大丈夫、安心してほしい。こんなにも人がいるんだ、運がよければ一人か二人は逃げられるだろう。だが残った者達は……」
種付けおじさんが透の手を掴んでいた男の前に立つ。
そして男のベルトと上着を一瞬で剥ぎ取ってしまった。
「ひぃっ!?」
男が落ちたベルトを拾う。
その一瞬の隙にシャツまで脱がされた。
「最初は君だ。それじゃあ、おじさんを満足させてくれ」
そう言って、種付けおじさんのマスクが剥がされた。
今まで隠されていた、醜悪なる種付けおじさんの素顔が晒される。
「クソが、やってられるかよ!」
あまりにも生理的嫌悪感を催すその顔を見て、男達は捨て台詞を吐いて逃げて行った。
残されたのはか弱い女性と怪我人……どう見ても種付けおじさんに抵抗できるはずもない。
種付けおじさんの視線が二人に注がれる。
二人はヘビに睨まれたカエルのように、動けなくなってしまった。
「何とかなって良かった。大丈夫かい?」
「え……あ、はい。お、おかげさまで……」
トーマが上着とマスクを元に戻すと、先ほどまでの雰囲気とは打って変わって穏やかなものに戻っていた。
「とにかく彼を処置する為にも救急車を呼んだ方がいい。任せても大丈夫かな?」
悪人を退け、人も助けられた。
あとは一般人である二人に任せればそれで大丈夫だとトーマは考えていた。
「いや、ボクの足なんかどうでもいい! それよりも透を現場に送り届けないと!」
「そんな足じゃ無茶だよ、プロデューサー。それに今から走ったところで番組開始まであと十五分しか……」
落ち込む二人を見て、トーマは声をかける。
「ちなみに、その現場というのは何処でしょうか?」
「えっと……こ、ここです」
透が手持ちのスマホで地図を表示させてそれを見せる。
少しばかり手が震えていることに申し訳なく思いながら、トーマは地図にマークされた場所までの距離を計算する。
車でも十五分以上掛かるような場所だ。
今からタクシーを使ったところで間に合わないだろう。
普通の種付けおじさんならばここからさっさと立ち去るべきだ。
男達が警察に通報している可能性だって十分にある。
悪人はもうここにいない、種付けおじさんの役割は終わったのだ。
「私に任せてもらえれば十分で到着できます。どうしますか?」
―――だからこれは、トーマの役割なのだ。
種付けおじさんとして生まれ、種付けおじさんとして生きることが約束されていたとしても、トーマは困っている人には手を差し伸べたいのだ。
「十分って、どうやっても……」
「いや、それでも可能性があるのなら……。種付けおじさんに頼むのもどうかと思いますが、どうかこの子だけでもお願いします!」
透が戸惑っているが、プロデューサーと呼ばれた男は藁にも掴む思いでトーマに頭を下げる。
種付けおじさんに頭を下げて頼み事をするなど普通では考えられないような状況だが、それだけ状況が逼迫しているのだろうとトーマは予想した。
「分かりました。死力を尽くして必ずお二人をお届けしましょう」
そういってトーマが二人を肩に担ぐ。
プロデューサーと呼ばれた男は痛みにうめきながらも困惑していた。
「いや、あの、ボクは置いていっていいので……」
「種付けおじさんをそんなに信用してはいけませんよ。私が何かよからぬことをしようとしていたら、迷わず警察に通報してください」
そしてトーマは二人を担いだまま、ビルの出っ張りに片手の指を引っ掛ける。
指に力を込めて一気に身体を引き上げるように上に飛ぶ。
飛び上がる勢いで二人が落ちないように注意しながら、また片手で別の出っ張りに指を引っ掛ける。
これを何度か繰り返して屋上に辿り着く。
あまりの高さに肩に担いだ二人の震えが伝わってくるのだが、トーマはそれを時間通りに到着できるのか不安なのだと勘違いした。
「安心してください、ここからは一気にスピードを出します。途中でトラックの上を転がったりもしますが、安全なので大丈夫です」
「えっ……あの、トラックの上って……きゃぁっ!?」
透の返事も聞かず、トーマはビルの屋上から走って飛び降りた。
その日、二人の悲鳴と共に跳ぶ種付けおじさんの姿が目撃された。