第四十一話:暴力言語
「チィッ!」
忌々しく舌打ちしたトーゴが振り返って歩き去ろうとするも、トーマがその足首を掴み、引き止めた。
「何処に……行くつもりだ?」
「決まってんだろ、あのガキ捕まえてもう一度ここから落としてやんだよ」
トーゴが面倒くさそうに掴んでくる手を振り払おうとするが、トーマの握る力は益々強くなり振りほどけなかった。
しがみつくように、そして這い上がるようにトーゴを支えにしてトーマが立ち上がる。
「あの娘の所へは行かせない」
膝が笑いまともに立つ事もできない有様だというのに、トーマのその声には一本の確かな筋が入っていた。
そのせいか、トーゴがあからさまに不機嫌になる。
「……そーか、そーか。それで、どうするつもりだ? 力ずくで止めるつもりか? 暴力が嫌いなお前が?」
「その通りだ、私は暴力が嫌いだ。……けどそれはただの言い訳で、怖かっただけなんだ。一度でも殴ったら、もう後戻りできないんじゃないかと思っていたから―――」
暴力の味というものは、時に大きな影響を与える。
殴られた方も、殴った方にも。
その味を知り、元の自分に戻れない事が怖かった。
けれども違った。
人であろうとも、自分のような存在であろうとも。
日々変わる事が当たり前で、それが必ずしも悪い事ではないと。
あの日、彼女の歌がトーマを変えた、そしてそれを受け入れた。
左手でトーゴの胸倉をしっかりと掴み、右手を大きく後ろへ引き―――。
「だから、怖いのを我慢する事にした」
そしてそのままトーゴの顔を殴りぬいた。
腰も入っていないただ力任せなだけのパンチ。
だが種付けおじさんという、遺伝子の怪物によって放たれたパンチだ。
その一撃でトーゴは大きく後ろへ後ずさり、嬉しそうな笑い声をあげる。
「ヘッヘッ、やるじゃねぇか。でもその程度じゃ俺を倒そうなんさ百年早いんだよォ!」
トーゴが助走をつけてトーマの顔面に強烈な一撃を喰らわせる。
しかしトーマにとってはこの状況こそが望ましかった。
今一番マズイ状況なのが、トーゴがここから走って逃げてしまう事である。
まだ足がマトモに動かない状況である為、ここで彼に逃げられれば追う事ができず、星見とヨシトが襲われても助けに行く事が出来ない。
だから彼がわざわざこちらへ殴りに来てくれる状況はトーマも望む所であった。
トーゴの強烈な一撃をなんとか耐え、今度はお返しとばかりにトーマが大振りな一撃を放つ。
だがその拳はトーゴに当たることなく、虚しく空を切った。
「どうして馬鹿正直に殴りあうと思った? 俺とお前はそもそも対等じゃねぇんだぞ」
再びトーゴの拳がトーマの顔に突き刺さる。
そのタイミングに合わせてトーマも拳を振るうが、当たらない。
トーゴはスウェーで身体を引き、それを戻す反動に合わせて拳を叩き込む。
折角立ち上がったというのに、トーマの足はもうふらついていた。
もしも健常な状態であれば、トーマはダメージ覚悟で無理やり取っ組み合うという手もあった。
だが今のトーマは赤ん坊がハイハイするような速度でしか前に進めない。
「なんだ、こっちに来てぇのか? じゃあ俺から行ってやるよ!」
ダッキングによりトーゴが一気に懐に潜り込んだ。
余りの近さで殴る事もできないが、それなら却って好都合だとトーマが掴みかかる。
その動きを読んでいたかのように、トーゴは脇をしっかりと締めたコンパクトなアッパーをお見舞いする。
トーマの顔が跳ね上がり、その顎にフックが突き刺さった。
トーマはそのままバランスを崩し……なんとか踏ん張ったものの、足取りが千鳥足のようになってしまっている。
最早トーマだけでは勝機など一片も残っていない状況だった。
「そぉら、こいつでトドメだ!」
トーゴの渾身の一撃がトーマの脳天を襲った。
顔を隠していたトーマにその流線が見えるはずもなく―――代わりに、音色が聞こえた。
瞬間、体が勝手に動いた。
頭に突き刺さるはずだったその一撃は外れ、代わりにトーマの裏拳がトーゴの横腹に突き刺さっていた。
「なっ……!?」
完璧なタイミングによる、完全な一撃が回避された。
あまつさえ、それに合わせてカウンターを決められたせいでトーゴに大きな動揺が走った。
トーマが音色の聞こえた方向に視線を向ける。
屋上に来る為の扉からこちらへ近づいてくる人影が二つ……星見とヨシトだ。
星見の方は何十メートルもの落下による恐怖からか、ヨシトの肩に掴まって歩いている。
そしてヨシトはそんな星見を支えながら、トーマとトーゴを見ていた。
どちらかに手を出す事も、口を出す事もなく、ただその決着の行く末を見届けようとしていた。
トーゴが今度こそ意識を絶つように腰を入れた右ストレートを繰り出す。
だがまたしても音色が響き、それに合わせてトーマは体を揺らしてそれを避け、肩が思い切りトーゴの顎に当たった。
頭が揺れた事で一歩下がる、だがトーマが一歩詰める。
星見の喉から、屋上のビル風を通すかのように澄んだ音色が響き渡る。
それに合わせてトーマの足と体も揺れる。
ゆらゆらと倒れそうに動きながらも、その動作は狙いをしぼらせない、一種のフェイントのようにもなっていた。
そこでようやくトーゴは気付いた。
これはダンス、もしくは舞踊なのだと。
決められた音に対して、決められた動きをするだけの付け焼刃。
逆にいえば、音による組み合わせの数だけ動きがあるという事だ。
それに対してトーゴは我流ではあるものの、格闘技を練習してきた。
他の種付けおじさんが副業やダラダラと過ごしている間にも、一般人であるトーゴはひたすらに筋力をつけ、生き物を殴り殺す技術を修めてきた。
だからこそ許せなかった。
自身が積み重ねてきた何十年という月日が、たった数日程度のお遊びで翻弄される事が屈辱だった。
けれども、既に種は割れている。
音に合わせて動くのであれば、それを狂わせるタイミングで踏み込めばいい。
トーゴは意識を集中させ、音と音の合間を縫って最速のジャブを繰り出す。
入った―――そう思った瞬間、新たな音が差し込まれた。
まるで予知されていたかのような音に合わせて、トーマは動く。
トーゴの攻撃はまたも避けられ、小さくも確かな一撃が入った。
トーゴは困惑する。
普通はその場で相手の音に合わせて動けるはずがない。
いや、相手はこの日本において新たに信仰されるアイドルだ、それも奇跡的に可能だったとしよう。
しかし、自分の動きを予知するように音を変えることは不可能だ。
だからアレはマグレなのだと己に言い聞かせ、何度も諦めずにタイミングをずらすように動く。
だがその全てが楽譜の上の動きであった。
トーゴの攻撃は当たらない、トーマの攻撃だけが当たる。
殺意も敵意もないただの動きが、トーゴを追い詰めていく。
ここに到ってもトーゴは気付けなかった。
星見が音を合わせている相手はトーマだけではない。
意思を疎通しようとしない、トーゴも含めて音を合わせているのだと。
彼が必勝の機会だと思い込んで動く姿は、彼女によって作られた動きなのだ。
「ゲホッ! ゴホッ!」
しかし彼女にも限界が来た。
トーマとトーゴの動きを合わせるよう、繊細に音感を調整していた事で喉に大きな負荷が掛かっていたのだ。
トーゴはこれぞ千載一遇の機会として、呆けていたトーマの顔面目掛けて大振りの一撃を放つ。
対してトーマは星見の奏でる音楽によって軽いトランス状態に入っていたが、ここに来て急に正気に戻された。
目の前には必殺の一撃を放とうとするトーゴの姿が見え―――トーマはそれを、ありのまま模倣する。
肉と骨がぶつかりあう、鈍く重い音が二つ鳴った。
互いに互いの顔へ一撃を叩き込み、どちらも動かない。
「―――やるじゃねぇか、兄弟」
トーゴがニヤリと笑い、トーマが息を呑む。
そしてトーゴはそのまま後ろに倒れ、床に大の字となって倒れてしまった。




