第十話:一人と一つの命
日が一番高くなった頃、大勢の警察官がビル街を包囲した。
そして日が沈み始めた頃には更にその手が広げられ、夕暮れになった頃にようやく狼達はその牙を収めた。
安鳥が気絶から回復しないので、警察が具体的な被害を確かめる為にアイドルの星見 透に事情聴取を行った所、種付けおじさんからの被害はなかったと判断したからだ。
普通の事件であれば何よりも優先して情報を集めたことだろう。
だが相手は種付けおじさんである。
駆除してから調べたところで何も問題はない。
むしろ対応が遅れた方が大衆に問題視される、だから警察は迅速に対応するのだ。
とはいえ、一個体の種付けおじさんを延々と追い回すほど暇でもない。
夕暮れには即座に撤収し、トーマは駆除されることなく命を失わずに済んだのだった。
ただし、何も失わなかったわけではない。
スーツの上着、そしてその中に入れていたスマホ。
スーツは元有名デザイナーであったゴトーが手がけた一品物。
スマホは種付けおじさんでも使えるようにしたイクトの改造品。
どちらも正直に失くしたと言えば二人とも溜息をつきながらも新しい物を用意するだろう。
だがそういった善意に甘えることが苦手なトーマは、追っ手がこないことを確認してから必死に安鳥を探していた。
そうして完全に日が暮れた頃、撮影現場に戻ってきた。
安鳥は骨折していたのだから、こんな所に残っているはずがない。
それでも、もしかしたら現場に残されているかもしれないという期待を抱いて探してみる。
「お探し物は、こちらですか?」
そこには綺麗に畳まれたトーマのスーツを持ったアイドルの星見 透がいた。
周囲には警察もいなければ大人も姿もなく、一人だけのようだった。
「あぁ、それだよ! キミが拾ってくれてたのか、本当にありがとう」
星見から受け渡されたスーツを羽織り、スマホも無事であることを確認した。
善意を返された事は嬉しいが、トーマは種付けおじさんである。
三十年以上、種付けおじさんとして生きてきたトーマにとって、一般人から親切を返されるなど未知の体験であり戸惑ってもいた。
「こちらこそ、本当に助かりました。それと、ごめんなさい……もっと早く警察に事情をお話してれば良かったのに……」
星見がとても申し訳なさそうな顔をしたので、トーマがそれをフォローしようとする。
「感謝も謝罪も必要ないよ、どちらも種付けおじさんにとっては過分なものだ。そもそも、キミだって私を庇う必要はなかっただろうに」
そう、種付けおじさんは悪を辱めるものだ。
感謝や報酬の為にやっているわけではない。
「なら、あなたはどうして危険をおかしてまで私とプロデューサーを助けてくれたんですか? 種付けおじさんは悪人をこらしめるだけ……人を助けるような存在では、ないはずです」
星見のまっすぐな顔がトーマの瞳に映し出される。
マスクをしているとはいえ、種付けおじさんの顔から背けないような一般人はほとんどいない。
そんな彼女の真摯な問いだからこそ、トーマは真剣に応える。
「我々種付けおじさんに人権はなく、人々から疎まれ蔑まされるだけの存在だ。―――ただ、そんな最低な種付けおじさんとして産まれたとしても、立派に生きることはできるはずだ。だから、私は困ってる人を見かけたら助けているだけだよ」
一般人ならば処世術としても誰かに優しくすることはあるし、人を助けることもある普通の行為だ。
だが種付けおじさんにはそんな必要はない。
真似をしたところで人権は与えられないし、一般人になることもできない。
そうだとしても、トーマはその普通の人が行う行為に憧れているのだ。
「私はアイドルだから色々な人に見られます。だからこそ、立派に見られるように振舞う為に、助けてくれた人にお礼を言いたいんです。本当に……ありがとうございました」
星見はトーマのことをほとんど知らないが、少し接しただけでトーマの中にある善性を感じ取った。
だから丁寧にトーマが断らないように、否定しないような言葉を使って御礼を告げた。
「それは……どういたしまして、でいいのかな」
仲間内であれば何の躊躇も照れもなく言える言葉が、一般人である星見に対しては戸惑ってしまった。
「それで、何か御礼をしたいのですが」
「えっ!? も、もう十分じゃないかな……」
トーマとしては互いに御礼を言ったのであれば、ここでもうお互いの道も交わらず、そのまま別れて終わりだと思っていた。
だというのに、星見はあろうことか自ら積極的に種付けおじさんに関わろうとしてくる。
これはマズイと思いどうにか断ろうと思案するが、芸能界に足を踏み入れている彼女の方が一枚上手であった。
「あんなに……よくしてくれたのに……御礼もさせてくれない……なんて……」
そう言って涙ぐむ彼女を見て、再びトーマの顔に冷や汗が出る。
一般人を泣かせたとあれば再び警察が追ってくるかもしれない。
いや、彼女はもちろん事情を説明するだろうが、それはそれで彼女に迷惑が掛かる。
つまり、人権を持たない種付けおじさんであるというだけで、トーマの負けは決まっていたのだ。
「分かった、そちらの要求は全て飲もう! だからこちらの無条件降伏を受け入れてくれ!」
「ふふ……言質、とりましたよ?」
涙目だった顔から一転、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
彼女はアイドルだけあって、演技にも達者であるようだった。
「とはいっても、もう夜ですからお店もあんまり……。カフェで相談でもしますか」
「いやいや、私は種付けおじさんだからお店の中には―――」
そこまで言って、トーマは言葉を止めた。
適当に相槌を打ち、姿を眩まそうと思っていたが、一つの未練がその考えを打ち消してしまったのだ。
「御礼というのなら、一つだけ頼みたいことがあるのだが……」
「一つでいいんですか? 欲がないんですね」
そうしてトーマと星見はビル街にあるオープンカフェに来た。
秋も深まり風も冷たくなった夜に、わざわざ外の……しかも通り道からはあまり見えない席に座る物好きは他にいなかった。
「あの……本当にこんなので良かったんですか?」
星見が出来たての温かな軽食とコーヒーが載ったトレイをテーブルに置き、トーマの対面に座る。
それに対してトーマは星見を見ることなく、帰宅ラッシュの人々を眺めながらコーヒーを口に含んだ。
「これでいい、これがいいんだ」
ゆっくりと、香りと味を深く味わいながら流れ行く人の列を眺める。
何処にでもある、珍しくとも何ともないその風景を見ているトーマを、星見は不思議そうな顔をして見ていた。
「ゆったりと椅子に座り、道行く人と景色を眺めながら温かなコーヒーを飲む。種付けおじさんであれば叶うはずのない、生涯の夢だったんだ」
後天的な種付けおじさんであれば意味の分からない夢だろう。
ただ席に座り、景色を見ながらコーヒーを飲むなど学生ですら叶えられる夢どころか陳腐な日常の一欠片でしかない。
だが、産まれつきの種付けおじさんにとっては別である。
生涯で一度すら喫茶店を利用できるはずもなく、それどころか廃棄弁当や冷たい料理の味しか知らないのが当たり前だ。
だからトーマはまだ温かいコーヒーを、終わってほしくない夢のように味わう。
「たとえ明日にでも冷たい骸を晒すことになったとしても、私はこの味を忘れないだろう。―――本当に、ありがとう」
種付けおじさんには人権がない、明日死んでいても、誰かに殺されていても何も不思議ではない。
だからこそトーマは、この瞬間に叶えられるはずのない夢を叶えてくれた星見へ最大限の感謝を送ったのだ。
その大きな思いを受けた星見は、トーマを見ることしかできなかった。
あまりにも儚く、そして省みられない命を、その瞳に映すことしかできなかった。




