覚悟
浴室は各部屋にも備わっていたが、折角なので足を伸ばして湯に浸かろうと思い、聖を連れて大浴場のある一階へと足を運ぶ。
考えることは皆同じだったようで、大浴場はサバンナの水場の如く混み合っていたが、幼稚園のプールほどもあろうかという巨大な浴槽のお陰で、当初の目的であった足を伸ばしての入浴にはまったく以て差し支えが出なかった。
頭の天辺から湯気を出しながら
部屋に戻ると、聖と競ってベッドの上へとダイブを決め込む。
そしてそのままルームメイトの二人も加え、修学旅行の夜の定番であろう四方山話に花を咲かせる。
その内容はといえば、実に修学旅行の夜らしく、実に他愛のないものだった。
たとえば『副担任の女性教諭、実は池田と付き合っているらしい』だとか、
『お好み焼きの善治の店主、実は元暴走族らしい』だとか、とにかく雑多で心の底からどうでもいいようなものばかりだったが、この手の話は下らなければ下らないだけ楽しいという通説は、今ここに見事証明された。
そんなこんなで気がつけば、消灯時間が間近に迫っていた。
初日の夜ということもあって、 今日はもう大人しく寝ることにしようと意見がまとまる。
ルームメイトたちがベッドに身体を横たえたのを確認すると、照明を落として自分も布団に足を入れた。
消灯後もしばらくは小声で話していたお隣さんからも、いつしか寝息が聞こえ始める。
俺もそろそろ寝るための努力を始めようか。
そう思った、その時だった。
サイレントモードにして枕元に置いてあったスマホの画面が点灯したことに気づき、そっと腕を伸ばすと布団の中に潜って画面を確認する。
そこにはたった一言だけ、『今夜十二時に部屋に来て』と、まるで恋愛映画の煽り文かミステリー小説の殺人予告のようなメッセージが表示されていた。
画面右上の時計を見ると、時刻はすでに十一時を少し回ったところだった。
暗闇と聖のイビキに支配された部屋の中、俺はひとり息を潜めてその時が来るのを待っていた。
時計は確認していないが、あれから三十分以上は経っているはずだ。
彼女の元へ行くのであれば、そろそろ動くべきだろう。
そっと布団から足を出し、スリッパは履かずにつま先立ちで部屋の出口へと向かう。
ドアの錠を静かに開けると、五センチほど開けたドアの隙間から廊下の様子を伺った。
薄暗い照明の灯るそこには人の気配はなかったが、教師たちの部屋がある西側のエレベーターは使えない。
ならば逆側のエレベーターで――いや。
こういったシーンではむしろ階段で行くのが正解だろう。
最小限の開度で開かれたドアの隙間に身体をねじ込む。
音を立てないようにドアをそっと閉めたあと、極力身体を小さく丸めて東側にある階段へと足早に駆け抜ける。
廊下に敷き詰められたカーペットのお陰で、足音はまったくといっていい程しなかったが、それ故に自身の心音が周囲に漏れ聞こえていないか心配になる。
その感覚はまるで気の小さな忍者か、もしく空き巣のそれだった。
廊下を走り抜けて階段の踊り場に到着すると、女子たちが寝泊まりしている三階へと階段を降りる。
もしここで教師に見つかれば停学くらいで済むだろうが、それが三階であれば最悪退学処分ということもあり得るかもしれない。
心臓が破裂しそうに痛くなるが、彼女からのメッセージを受け取った時から、たとえそうなってもいいので会いに行くと決めていた。
三階に到着するとすぐに腰を落として廊下の様子を伺う。
――誰もいないようだ。
あとは五階でしたのと同じように、ハイエナのように背を丸めて彼女の部屋『309号室』へ向かうだけだ。
(313、312、311、310……309)
音もなくドアノブに手を掛け、次の瞬間にはドアの隙間に身体を滑り込ませて素早く施錠をする。
「……ハァハァ」
この数分で寿命が一年くらい縮んだかもしれない。
部屋の明かりは点けられたままになっていた。
入り口から主室へと続く極短い廊下を抜けると、果たしてベッドの上で正座をした舞がそこにいた。
「本当にきてくれたんだ」
彼女はホッとしたような表情を見せ、すぐにベッドから飛び降りてこちらに走ってくると、そのままの勢いで俺の胸の顔を埋めた。
その髪からはシャンプーのいい匂いが立ち込めており、思わず腰が引けそうになってしまう。
「あれ? てゆか、舞ひとり?」
「うん。だって南海ちゃんたちは他のところに泊まりに行っちゃったから」
「それは知ってるっていうか、むしろ俺がそうさせたんだけど。舞はその……平気なの?」
「え? なにが?」
「いや、だってここ……」
「ああ。だってあれ、嘘だもん」
はい?
「サイトにあった地図のスクショを撮って、上から書き足しただけ」
「なんでそんなことを……」
「なんでって、イツキとこうしたかったからに決まってるでしょ?」
彼女はそう言うと、その軽量な体重からは想像もできないような力強さで俺のことをベッドの上に押し倒す。
そのまま上に乗ってきた彼女は腕を伸ばして照明のスイッチを操作し、部屋の明かりを落とした。
少し離れた場所の足元に灯る、非常灯の明かりに浮かび上がったシルエットから伸びた手が俺の首の後ろに回され、次の瞬間には柔らかなもので口を塞がれる。
俺もすぐに自分の腕を彼女の背中に回すと、一ミリの隙間も出来ない位に強く引き寄せ眼前の影を貪った。
そうやってしばらくの間、互いの存在を確かめあっていた。
すると不意に身体を起こした彼女が、ベッド脇のサイドテーブルに伸ばした手で何かを取り、小袋に入ったそれを俺の手の中に押し込んでくる。
「……それ、使ってね」
その言葉と手の中の感触から、見るまでもなくそれが何であるかを理解した俺は、彼女のものとは比べ物にならない位の小さな覚悟を決めた。




