贅沢な悩み
文化祭が終わり、すっかり通常運転へと戻った学生生活は、あれよあれよという間に時間が過ぎ去っていった。
勉強に部活、それに委員会活動と忙しない高校二年の日々を送る俺の横には、いつも彼女の姿があった。
彼女はよく喋りよく笑い、そして相変わらずよく俺の目を丸くさせた。
そんな彼女とクラス委員長の仕事を楽しくこなしているうちに、いつしか俺は教員たちから優等生のレッテルを貼られてしまっていた。
それは本来そんな玉ではない身空からしてみれば、若干の息苦しさを感じる事態であった。
事件が起ったのは、期末テストを翌週に控えた七月のことだった。
「おい、五月」
帰り支度をしている最中に名前を呼ばれ振り返る。
そこには珍しく神妙な面持ちをした聖がいた。
経験則からすぐに『これは面倒事だ』と気付いたが、かといって無視するわけにもいかない。
「どうした?」
「ちょっと部室まで来てくれるか?」
今はテスト週間ですべての部活動は一時休止中だ。
要は人気のない場所で話があるということだろう。
連れ立ってやってきた部活棟には思った通り俺たち以外に人影はなく、野球部が発する金属バットの音や吹奏楽部が奏でる楽器の音も当然聞こえず、まるで深夜の公園にでも来たかのように静かだった。
「で、どうしたって? 何かトラブったとか?」
「トラブルって言っていいのかわからんのだけど……これ」
彼はそう言うと通学カバンから一通の封筒を取り出し、俺の胸の前に押し付ける。
「悪い、聖。お前の気持ちは有り難いとも思わないし、完全に無理だから」
胸の前で左右に小さく手を振り、同じ振り幅で首も横に振って見せる。
「ちげーし! てかそういうのいいから、ほら」
改めて突き出された封筒を受け取り、まずはその表面を観察する。
それ自体は茶色の地味な封筒なのだが、四隅は星やハートのシールで丁寧にデコられていた。
そしてその中心には、黄緑色の蛍光ペンで『都筑センパイへ』と、角という角の一切が切り落とされたまん丸い字が踊っていた。
よくもまあ、都筑などという画数の多い名字をこれだけ柔らかに書けたものだと、妙な部分に感心してしまった。
「……で、これは誰から?」
「多分だけど、女バスの一年。さっき昇降口でお前に渡してくれって頼まれた。あとクソかわいかった」
ということは、彼は昇降口からわざわざ教室に戻り、さらに部室まで俺を連れて来たわけだ。
「お前って馬鹿だけどお人好しだな」
「そんなんどうでもいいけど、五月それどうすんの?」
確かに聖の言う通りだった。
先ほどから冷静な振りをして彼と自分自身を欺こうと努力していたのだが、これは大問題が発生しているのであろう。
封筒の様子からして中身の確認などせずとも、その内容の予想は概ねついていた。
これは本当に困ったことになってしまった。
昇降口まで戻ってきたところで、突然「あっ!」と大きな声を出して立ち止まった聖の背中に思いっきり突っ込んでしまう。
「あぶねーな。急に止まるなよ」
「五月――あの子だ」
彼が指差した方向に目をやる。
そこは体育館前の渡り廊下で、数人からの一年女子生徒の集団が何やら楽しげに喋っているのが見えた。
その中の一人がこちらに気づき、輪の中心にいた女子生徒の制服の襟を引っ張りながら目配せをする。
襟を引っ張られた女生徒がこちらを向く。
その視線は真っ直ぐに俺の方に向けられていた。
バスケ部らしからぬ小振りな体格の一年の女子は、わかりやすく慌てふためいた様子を見せながら素早くこちらに一礼をすると、すぐさま廊下の奥に走って行ってしまた。
他の子たちも慌ててその後ろ姿を追い掛け、そして消えていった。
「……聖。どうすればいいと思う?」
彼からの返事は「知るか! 勝手にしやがれ! チキショーめ! 贅沢な悩みしやがって!」だった。
自宅に帰るとそのまま部屋に戻り、勉強机の椅子に深く腰掛け溜め息をつく。
この問題を保留したまま、テスト勉強に身を入れることなど出来るはずもない。
通学カバンから取り出した封筒に貼られたラメ入りのシールをゆっくり剥がすと、中に入っていた手紙に目を通す。
その内容は思っていた通りのもので、律儀にというか身勝手にというか、返事の日時まで指定されていた。
それはテスト明けの土曜日の放課後で、学校のすぐ裏にある公園でとのことだった。
手紙の差出人は聖が言っていた通り、女子バスケ部の豊島という一年生だった。
体育館の渡り廊下に居たツインテールのあの子が豊島さんだとすれば、いかにもグループの中心にいそうなタイプの女の子に見えた。
少なくとも俺の記憶の中には、図書館で彼女が背伸びをして取ろうとしていた本を取ってあげたようなエピソードは見当たらない。
というか、そもそも喋ったことすらない後輩の女子だ。
そんな相手から交際を求められて、「はいお付き合いしましょう」と言えるほど、俺はシンプルな恋愛観を保有していなかった。
これは俺一人で何とか出来る範疇を越えているかもしれない。
制服のポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリのアイコンをタップする。
舞に相談するのは些か博打要素が強い気がした。
彼女は頼れる時はとことん頼れるのだが、優等生の仮面の下に隠された享楽的な一面をよく知っていた俺は、ほとんど迷わず南海にメッセージを送った。
程なくして、文字による返信ではなく音声通話が掛かってくる。
『どしたの?』
「えっと、実はさ――」
テスト期間中に申し訳ないという旨を伝えたあとに、今日の放課後にあった出来事のすべてを話す。
電話口の南海からほとんどノータイムで返ってきた答えはといえば、俺が想像していた通りのものだったかもしれない。
『だったら私よりも舞ちゃんに相談してみなさいよ』
「いや、南海に相談する前に一瞬そう思ったんだけど、舞に言ったら余計にややこしいことになる気がして……」
『大丈夫だって』
またしても即答だった。
『あの子がそういうことをする時って、五月が本当には困っていない時だけだから』
目から鱗が落ちた気がした。
確かに彼女が小悪魔の顔を覗かせるのは、俺が一人であたふたとしている時だけであり、部活動やクラス委員の仕事などで本当に困った時にそういったことをされた記憶はなかった。
『それに……』
電話口の南海が何かを言い掛けてから言葉を飲んだのがわかった。
「それに、なに?」
『――ううん。とにかく舞ちゃんのほうが適任だから。でもテストが終わったあとにしなよ。舞ちゃんはうちらと違ってテスト勉強してると思うから』
「うん……そうする。ありがとう、南海」
『善治一回でいいよ。じゃあまた明日ね』
南海に相談して正解だった。
彼女のお蔭で舞の本質的な部分に気づくことができたし、テスト勉強の邪魔をしてしまう可能性も事前に排除出来た。
善治一回は少し痛い出費だが、そのくらいの価値のある神回答だったと納得した俺は、制服の上着をハンガーに掛けると、満を持してベッドの海に頭からダイブしたのだった。