闖入者
文化祭の翌日にあたる今日は午後からの登校だった。
なので午前中は思いつく限り怠惰に過ごそうと、昨日のうちにはもう決めていた。
朝食は買い置きのシリアルで済ませ、母が二年も前に買うだけ買って使っている姿など一度も見たことのない、空気の抜けかけたバランスボールに覆いかぶさりながらスマホのメッセージを確認していく。
いつになく膨大な書き込みで埋め尽くされたタイムラインは、クラス一丸となって挑んだ文化祭が誇らしい結果に終わったことを証明していた。
俺もその一番最後に、『みんなのおかげで大成功&大感謝』と書き込んでからスマホをベッドの上に放り投げ、バランスボールからズルズルと床に滑り落ちるとそのまま目を閉じた。
「……ん」
時計を見たわけではないので定かではなかったが、体感だと五分くらい落ちていた気がする。
スマホを確認すれば正確な時刻を知ることができたが、ベッドまで動くのも面倒だったし、母親に登校時間は伝えてあるので遅刻をするといった心配もないだろう。
トイレを済ませて三度寝をしようと、部屋から一歩踏み出る。
すると、階下から母のよそ行きの声が聞こえてきた。
「いつもうちの五月がご迷惑をお掛けしてごめんなさいね」
「迷惑だなんて、そんな。私の方こそいつも五月くんにお世話になりっぱなしで」
「……ん?」
一段飛ばしで階段を降り玄関へと向かう。
果たしてそこには制服を着た舞と母親がいた。
俺の姿を見つけた彼女は、「あ、五月くんおはよう」と、普段とはまったく違った口調で小さく手を振った。
「……おはよう、ま……岩水寺さん」
母親がいる手前、極力冷静を装いながら彼女に問い掛ける。
「えっと、今日はなに?」
「たまには一緒に登校しようって、昨日話したでしょ? だから迎えに来たの」
記憶を検索するまでもなく、そんことは絶対に言っていない。
ただ、彼女が有りもしない約束を口にしたことにより、即座に状況を把握することができた。
「じゃあ、着替えてくるから。ちょっと外で待ってて」
「五月ちょっとアンタ、外でだなんて。岩水寺さん、お茶入れますから。上がって待っててください」
母は俺を睨みつけると、シューズボックスの中からスリッパを出して彼女の目の前に置いた。
「すみません。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
斯くして彼女はリビングに通され、茶の準備をする母と楽しそうに会話を再開した。
俺は亜音速で部屋へと戻ると、ハンガーに掛けられていた制服を追い剥ぎの荒々しさで引っ剥がして腕と足を通し、二段飛ばしで階段を降りるとリビングに飛び込んだ。
「アンタもほら、お茶」
リビングテーブルの上には来客用の湯呑と、俺が小学生の頃から愛用している可愛らしいゾウさんのマグカップが並べ置かれていた。
ちなみにゾウさんのお鼻の部分が持ち手になっているという、とてもユニークな代物だ。
なんだかもう、急に何もかもがどうでもよくなってしまった。
ソファーに座る彼女の横に腰を下ろしお茶を啜っていると、いつにないく目をギラつかせた母による詰問が開始された。
「岩水寺さんは四月に転校してこられたのよね? どう? こっちの学校にはもう慣れた?」
それに対して舞は優等生の礼儀正しさを持ち出すと、全ての質問に満点の回答をする。
母の表情からは、この短時間にして舞に対する評価がカンストしたことを伺い知ることが出来た。
「最後にもういっこだけいい? 二人はその、お付き合い――」
「してないです」
俺は母が言い終わる前に毅然と言い放ち、舞の手を取ると腰を上げた。
「ごちそうさま! 行ってきます!」
後ろから母の「あらあら~、ふふっ」という声が聞こえた。
ここは黄泉平坂だと自分に言い聞かせ、決して振り返ることなく玄関から飛び出す。
もっともうちが黄泉の国であったのなら、先ほど飲んだお茶は黄泉戸喫ということになる。
もうすでに手遅れなのかもしれない。
「俺からも舞にいっこ質問」
「うん? なに?」
「どういうつもり?」
曲がり角を一つ曲がった先で振り返ると彼女を問い詰める。
「え、どういうって? だから、一緒に登校しようと思って」
さも『それが何か?』と言いたげな表情の彼女に、少しだけ補足して再度質問をした。
「なんで突然うちにきたんだ?」
「南海ちゃんにイツキのおうちの場所、教えてもらったの」
俺の質問の仕方が悪いのか、彼女の受け答えが政治家のそれ並に手慣れているためか。
おそらくはそのどちらもなのだろうが、かろうじて会話としては成立しているものの、知りたかった事は何一つ答えて貰えなかった。
「他に質問は?」
それどころかいつの間にか、その立場すら逆転していた。
「……以上です」
実際のところ俺はもう、どうでもよくなっていた。
きっと今日は帰宅後に、母親からあれやこれやと追及を受ける事になるかもしれないが、彼女を相手にするよりはまだマシだろう。
大通り――と言ってもど田舎なので車通りはほとんどないが――を渡ればすぐに駅なのだが、彼女はなぜかそちらへは向かわずに、線路沿いの細い道の方へと歩いて行こうとしていた。
「駅、そっちじゃなくてこっちだよ」
俺が呼び止めると彼女は足を止めて振り返る。
「ううん。こっちで正解だよ」
「え?」
「歩いてこうよ、学校。だからこんな早く来たんだもん」
「歩いてって……十キロはあるよ?」
「うん。だから、ほら」
そう言うと彼女は自分の足を指差す。
彼女は普段の革靴ではなく、青色のスニーカーを履いていた。
意味がわからずに困惑する俺に、彼女はさも当たり前といったふうに答えた。
「だって昨日は忙しくって、イツキとあんまりお話できなかったから」