打ち上げ
教室に戻るとすぐにお化け屋敷の運営に精を出した。
俺に今回与えられた仕事は、青緑色のペイントを施した腕を段ボールの壁に穿たれた穴からタイミングよく突き出すという、たったそれだけの簡単なものだった。
無心で行えると思っていたそれは、低くない確率で手を握られたり引っ張られたりと、思いのほか心臓に悪いミッションだった。
一時間も作業に従事していると、ポケットのスマホから通知音が鳴る。
血色の悪い手でスマホを操作し画面を覗き込む。
それは営業時間の終了を知らせる南海からのメッセージだった。
明日は午後からの登校で、撤収作業の後には後夜祭が催されるそうだ。
それとは別に、この後は有志による学校非公認の打ち上げが計画されており、その会場は教員によるガサいれを避けるために、二つも離れた町のカラオケ店が押さえられている。
共に額に汗して事業を成し遂げた級友たちとハイタッチを交わし、帰り支度を済ませると学校をあとにした。
夕日に染まる通学路を舞と南海、それに聖の四人で、道いっぱいに広がって駅へと歩みを進める。
「南海から『五月を出し抜いてお化け屋敷にするよ』って言われた時は、正直面倒だなって思ってたんだけど、こっちが正解だったかも……いや、正解だったな」
聖の言葉に心の中で頷きながら、舞の言っていた『文化祭は今年と来年のあと二回しかないんだよ? だったらとことん楽しまなきゃ』という台詞を思い出す。
家から近くて学力的にも適当だったからという消極的な理由で入学し、運動部なら何でもいいやと選んだテニス部では大した成績も残していなかった俺の高校生活の中で、もしかしたら今日は一番の思い出になったかもしれない。
「聖くんの幽霊姿、すごく似合ってたよ」
「えっ! ほんとに? キマってた?」
「うんうん! カッコよかった!」
俺に言わせれば彼のどんぐりのような顔と髪型は、幽霊というよりは子供の頃に絵本で見た、北海道の伝承に登場するコロポックルのイメージに近かった。
だが、そのまま天に駆け出しそうな喜び様の彼に免じて言わないでおく。
「五月もなんかすごかったって聞いたよ? 特殊メイクしてたんだって?」
私も見たかったなーと、少し悔しそうにしている南海には申し訳ないが、あれは特殊メイクではなく、舞の手によってたったの三十秒で作り出されたただのフェイスペイントだった。
だが、説明でもして『見てみたいからもう一度やって?』などと言われたら藪蛇もいいところだ。
これも心の中に仕舞っておこう。
駅に到着したと同時にホームに滑り込んできた電車に揺られ、打ち上げ会場のカラオケ店を目指す。
普段降りる駅を乗り越し、終点の一つ手前の駅に降り立つ頃には、すっかりと夜の帳が下り切っていた。
俺たちと同じように学校から直接ここに来た五人のクラスメイトを引き連れ、計九人で駅の目と鼻の先にあるビル三階のカラオケボックスに向かう。
受付で予約の名前を告げると、店で一番広いパーティールームへと案内された。
そこには二十人は座れそうなソファーが壁に沿ってL字に据え付けられた、遊覧船のようなレイアウトだった。
今日はクラスの半数近い十七人の参加が予定されていたが、ここであれば座席の数は十分だろう。
「じゃあ、とりあえず最初に歌う人は挙手をして下さい」
部屋の端にあるステージ上では、なぜか学級会風の口調の舞が右手にマイクを握って一番乗りを募り、一瞬の間も置かずに空いている左手をすっと天に掲げて自ら名乗りを上げる。
彼女がうちの学校に転校してきてまだ一月余りだったが、見た目とは大分異なる性格は既にクラス中ではよく周知されていたので、その奇行に誰一人としてツッコミを入れることはしなかった。
彼女は一旦席に戻ってくると、リモコン端末を操作してから再びステージに戻っていく。
しばらくして流れてきたメロディーは最新のものではなく、どちらかと言えば俺たちの親世代のアーティストのそれだった。
あまり耳馴染みがないのにどこか懐かしいその曲を、彼女はとても上手に歌い上げた。
普段の声色とは異なり、まるで真鍮で出来た風鈴が夏の夕映えを背景に奏でる音色のように美しくも儚くて、ずっと聴いていたくなるような――とにかくそんな歌声だった。
曲が終わると一斉に拍手が沸き起こり、ほんの今まであれだけ堂々としていた彼女も少しだけ照れの表情をみせる。
交代で何曲か歌っているうちに後発組が続々とやってくると、最初はスカスカだった座席は、いつしか男女のひしめき合う合コンのような様相を呈していた。
どうやらうちのクラスの連中はカラオケ好きの集まりだったようだ。
あっという間に予約が上限にまで達してしまい、中には他の人の曲に乱入して無理やりデュエットする者まで現れ始める。
あちこちで歓声や笑いが起こり、てんやわんやの大騒ぎとはまさにこのことだろう。
もともと二十人を収容できる大部屋ではあったが、十七人の若人から発せられる熱量は相当なものだった。
俺は早々にソファーからは撤退すると、部屋の隅っこのカーペットの上に胡座を掻き、級友たちが熱唱する姿を眺めていた。
「イツキはもう歌わないの?」
先ほどまでステージ上で観衆の視線を集めていた舞が、いつの間にか体育座りで隣に座っていた。
「俺はみんなが歌ってるの聴いてるほうが楽しいから」
「そうなの?」
彼女はニヤケながらそう言うと、手に持っていたスマホの画面を見せてくる。
「随分と楽しそうだったけど」
それはさっきウケを狙いアニソンを歌った結果、大怪我をした時のものだった。
「消してくれ。いますぐに」
「はい、じゃあホーム画面にしま~す」
「お願い消してー!」
楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていった。
家が遠い者や門限が迫った者から一人、また一人と部屋を出て行き、ついには学校を出た時の四人だけになる。
「おでだぢもそろそろ帰りまずが」
ガラガラ声の聖の提案に従って精算を済ませると、星々が瞬く夜空の下を、すぐ目の前にある駅へ向かい歩き出す。
ほとんど貸し切りのような電車に揺られながら、非常に濃厚だった今日一日を振り返ると、たった数時間前の文化祭での出来事がもう、何日も前のことのようにすら思えてくる。
途中の駅で聖と南海が降りると、遂に車内は俺と舞の二人きりになった。
「文化祭もカラオケもすごく楽しかったね」
激動の一日の疲れを全く感じさせない爽やかな笑顔を湛えた舞は、俺の顔を覗き込むとそう言った。
「俺は半分くらい舞のおかげだと思ってるよ」
臆面もなくそんな言葉を口から出したのは、心からそう思っていたからに他ならない。
「イツキも私もがんばったもんね。じゃあ私たちふたりで半分、あとはみんなのおかげってことにしちゃおっか?」
彼女は口で手を抑えながら目を細めて見せた。
いつもとは逆に舞の家の最寄り駅へと電車が到着すると、彼女は「よいしょ」と言いながら座席から腰を上げた。
「それじゃまた明日、学校でね。おやすみなさい、イツキ」
「うん。また明日、舞」
電車がふたたび動き出すと、大きく手を振る彼女が次第に遠ざかっていき、やがてその姿は完全に見えなくなった。
こうして俺たちの文化祭は成功裏に幕を閉じた。
一方その頃、学校では――。
真っ暗な校舎の中を懐中電灯を片手に、戸締まり前の見回りをしていた小池教諭は、一階にある昇降口でひとり腰を抜かしていた。
「だ、誰だっ! 傘立ての上に生首を置いたのはっ!」