及川 vs 杉本 リングへ
リングに上がれ?
プロレスを教えてやる?
冗談じゃない。
お前みたいなどこの誰ともわからない、頭のイカれた奴に指導を乞うほど落ちぶれちゃいない。
しかも余所者をリングに上げたなんて先輩達に知れたらそれこそ殺されちまう。
杉本は肝が据わっていた。
いや、据わっていると思っていた。
実際、それは間違いではなかった。
この道場に入るまでにもさんざん修羅場は潜ってきたし、ここに来てからだって何十人もの人間が逃げ出していく中、地獄の練習の日々を乗り越えてきた。
根性だけなら誰にも負けない、というのはあながち大袈裟ではない。
しかしいかんせん杉本は小柄だった。
喧嘩なら威勢やハッタリならいくらでも凌げたが体と体を直接ぶつけ合うプロレスでは、百五十cmに満たない体格の杉本が圧倒的に不利なのは隠しようがなかった。
実際ここへの入門に際しても体格で何度も門前払いにされた。
入門できなければ道場の前で餓死する、と七日間座り込み意識を失って倒れた後ようやく入門を許可された。
杉本はそれほどに強い決意を持ってここにいた。
体もここに来てから身体中の筋肉を鍛え上げ体重は十五kgも増え、二回りは大きくなった。
しかし、身長が伸びるわけではない。
こいつとまともにやったってプロレスでは勝てない。
どうすればいいか。
誰よりも考え続けてきた杉本には知恵があった。
難局を切り抜けるために瞬時に頭を回転させ様々な場面を想定し対応策を実行する。
考えることはガキの頃から今に至るまでずっと我を通すために、いや生きるために、最後に負けないために続けてきた杉本の最も大きな武器だった。
「あー負け負け。やってられるか」
杉本は大きな声で吐き捨てた。
本来ならもう少し、このでかい女の反感を買わないような言い方で負けを認め、なだめて落ち着かせ、リングに上がるなどという暴挙を防ぐのが良策だ。
しかし、練習生の目がある以上それはできない。
皆が見ている中、これ以上は戦わない、だからリングにも上がらないという完全白旗の対戦拒否を、及川と他の練習生が納得する精一杯の理由と格好をつけて言わなければならない。
でないと練習生に対する面目を失うだけでなく、こいつがリングに上がる事を止められなくなる可能性もある。
ここでとりうる最善は、引き分けだ。
もちろんやられているので、やり返さなければ負けは確定する。
しかしどのみちやっても勝てない。
リングに上がる暴挙を許し、こてんぱんに負け練習生からもなめられてしまうなんて最悪のシナリオだ。
ここで引き分けにするには、このイカれた女と対応な立場であるという事をアピールするしかない。
もちろんコイツが、自分の予想以上に狂っていたら生意気な口を聞いた私をさらに追い込んでくるだろう。
そうなったら仕方がない。
やるだけやってやられてやる。
戦ったけどやられたのなら、後で先輩たちに殺されはしない。
それにコイツの雰囲気から察するにコイツはそこまで好戦的じゃない。
いや、やる気まんまんなんだし、実際なんのためらいもなくチョーパンくれてきたわけだけど、すでに勝った相手をいたぶるようなそういう気質じゃない。
杉本は根拠なく確信した。
そう確信したから勝負に出た。
タメ口で、かつ、怒りながら、しかもその言葉の中の見えないニュアンスとして一回勝負したからもういまさら喧嘩したってしょうがないし、そもそも一線交えた仲だ、という空気を織り交ぜながら、杉本は鋭い目つきで及川を見ながら、低く強い声で言った。
「リングには上がんな。許可しねえ。死んでも無理」
及川に返事をさせる隙を与えないまますぐ、
「おい、ぼさっとすんな。タオル持ってこいや!」
と練習生に怒鳴った。
及川はさっきまでの殺気をなくし、練習生達がバタバタと走り回ってタオルやら救急箱やらを運ぶ姿にぼーっと目をやった。
“よし、あのイカれ女止まった!してやったりだ!”
先輩達が遠征から帰ってくるまでにはまだ一時間はある。
その間、こいつを返すわけには行かない。
ここに留めておいて、帰ってきたら全員でボコボコにしてやる。
可愛い顔してスタイルも良くて、肝も据わってておまけに強い。
一番許せないのはガタイだ。
そこらへんの男より全然でかい。
ぜってえ許せねえ。
こんなやつ、バレーかバスケやっとけばいい。
なんでプロレスに来るんだ。
ここにお前の居場所はねえ。
杉本はいらだちながら鼻の手当をした。
無言で道場内をうろうろする及川は杉本をチラリと見た。
こちらに背を向けて練習生とああだこうだ傷の手当をしている。
どうやらリングに上がって対戦するのは無理のようだ。
「つまんな」
頭をぽりぽり描きながらつぶやいて及川は不服そうな顔を浮かべた。
「まあいいや。お前は休んでろよ」
及川は遠くから杉本にそう言った。
「あ?」
杉本は振り返りざまに及川を見た。
及川は小走りでリングに駆け寄るとふわりのジャンプし、リングとロープの隙間からするりとリングに滑り込んだ。
その所作があまりに滑らかで美しかったので杉本も練習生達もみな一瞬見とれてしまった。
「あ、てめっ」
杉本が叫んだ。
その時はもう及川はリングの中を大きく弧を描くようにゆっくりと、さわやかな笑顔で歩いていた。




