哂える程度のお話
ただ歩いている。
泥酔し、錯乱し、発狂し、挙げ句、悲しくなって嗚咽する。
また、歩いて、そして、笑う。
ただ歩いている。
それもまた人生。
彼が家を出たのは、十七時過ぎのことである。久しぶりに仕事が終わって、長時間労働の体に鞭打って帰ってきたのだが、玄関を開けて、知らぬ男の靴が確認されたことによって、家を出なければならなかった。
いや、彼は知っていた。この履き潰された薄汚れた白のスニーカーは、近所の公園によくいる男のものである。いわば、ホームレスである。
なぜ、彼は覚えていたか。それは、初めてその男と会った時、その顔に見覚えがあって、いやに気に留まったからである。彼は、初めてその男と会った時、男にずっと見つめられていたのを覚えていた。いや、見ていたのは、その時から妻だったのか。
妻に異変があったのか?
脳裏にその考えがよぎって、彼は、自分の頭から血の気が波のようにさああと引いて行くのが分かった。心臓の鼓動が強く、速くなって、苦しくて仕方なくなったが、冷や汗をかきながらも、何とか気を保っていた。
強盗?
警察を呼ぶべきか?間に合うか?
悲鳴は聴こえない。口を塞がれている?
何か武器はあるか?
キッチンに包丁。しかし、遠い。
妻に何かあったら…
…いや、不倫?
そこまで頭が回った時、履き潰されたスニーカーが、綺麗に揃えて置かれているのに気付いた。
強盗の可能性は、限りなく低いが、しかし、万が一を想定して、土足のままで、傘を両手で持って足音を立てぬように中へ進んだ。彼は、土足のまま家に入るのは初めてのことであって、違和感を抱きつつも、一歩一歩踏みしめて歩いた。
彼は部屋を手前からトイレや、リビングなどを順々に虱潰しにしていって、最後、寝室の近くにやって来て、はっとした。中から、妻の、艶のある声が聞こえた。扉が開いていて、様子が見えた。人間の、雄と雌とが、ベッドで堕天の交尾をしていた。
これも人間の姿だ、と、どこかの小説の一節染みた言葉が不意に浮かんで、彼は、地獄を濃縮還元すると、まさしくこんな光景になるのではないかと思った。
彼は家を出た。
争いの形跡も、暴行の跡も、拘束もなかった。あれは、人間の数ある側面の中でも、最も人間らしい、人をも殺す、ないし、白髪を生やし始める原因になり得る側面である。彼は、考えるのをやめる為に、近所のドラッグストアに寄った。彼は嘘をついた。嘘は咎められたが、顔見知りと言う事で、二箱の睡眠導入剤を買うことができた。彼は、薬漬けの体である。これが無ければ、もう眠ることができないのである。彼は寝た。家の近所の公園のベンチで寝た。公園に、その男は来なかった。今頃、きっと自分の家で妻と一緒に寝ているのだと確信して、彼は吹き出した。皮肉には程がないのではないか、と本気で思案している内に、彼は日頃の疲れによって寝てしまった。ここ最近で初めて、薬に頼らずに心地良く眠った。
彼は目が覚めると、彼の寝ていたベンチの前に彼の妻が立っていて、しくしくと嗚咽して泣いているのを発見した。
彼は、良くも悪くも、女に甘い性格で、この時も顔をうずめて泣いている妻の背中をさすりながら、自分たちの家まで一緒に歩いた。視線をいくつも感じた。玄関先で、彼は、話を聞いた。玄関から、家の奥に続く足跡はそのまま残っていた。
妻は泣きながら話した。そのホームレスの男を、彼は、やはり知っていた。高校の時、同級であった男であった。
妻の、元交際相手である。
正確に言えば、彼が、男から、現在の自分の妻である女を奪った。
男は、優しい人間であった。しかし、愚かでもあった。青春の男女の淡い恋付き合い。男は、無知であった。女の方も、同様だった。その関係から、女を堕落させた蛇こそ、彼であった。男は、男の女に対する恋心は無垢であった。大学を浪人し、就活するも失敗、社会で不遇を受けてもなお、無垢であった。ある日、男は、ふと休憩の為に立ち寄った公園で、妻を発見した。妻もそれに気付いた。二人は、運命だと思ったそうだ。それから、二人は、人目を盗んで、度々会っていて、昨日も、彼が残業の為に家に帰らぬ日であるということで、妻の方から誘惑し行為に及んだという。
もうしない、と妻は頭を彼の太腿に擦り付け、泣きながら言った。彼は許した。
妻は、もう、堕落しているのだ。妻が話の最後に、でも、彼にはお金がないもの、私、あなたがいなきゃダメよ、とまた嗚咽して、過呼吸に陥ってしまった。
妻の過呼吸を落ち着かせる為に、背中をさすりながらいろいろと教えていた。皮肉には、程がない。彼は確信した。
数日経って、そのホームレスの男は死んだ。近隣で、その噂が春風の如くゆるゆると流れていった。妻は何食わぬ顔をしていた。彼は妻を抱擁した。キスをした。彼は、心の中で泣いていた。
彼は死ぬことを決意した。睡眠導入剤を二箱、一気に鯨飲した。彼は胃液混じりの酸っぱい粘着質の涎をだらだらと垂らしながら、死ぬも莫迦らしく思えて、陽気の内に、眩暈に見舞われながらベッドという的を外し、カーペットの上に倒れた。朝から大きな音がしたので、キッチンで朝食の支度をしていた彼の妻は、走ってきて、また泣いていた。彼は、意識朦朧の中、へらへら笑っていた。妻の手によって彼の両頬は固定された。安否確認であろう、彼の頭は揺さぶられ、彼の瞼に妻の涙がほろほろと滴り始めた。彼は、救急搬送された。死ぬ人間は、人間ではない、少なくとも、生物としての壁を越えられる存在である。彼はそう思案して、やはり皮肉だ、と心の中で笑っていた。酸素マスクの中で、笑みが溢れる。結局、死ななかった。彼は、彼自身について、よかった、人間だったと、そう思って、病院を退散していった。
彼は、何も手にしていなかった。妻だけ。無垢の男から奪った妻だけ、家で待っている。