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溶けない氷

僕は病室にいて、ベッドの上に力なく横たわる祖父の干からびた枝のような手を何を考えるともなく見つめていた。窓の外では、塵のような小さな雪がひらひらと宙を舞っている。長い長い冬の影がこの街を飲み込み始めていた。ベッドの上で静かに息をする祖父の、干し柿のようにしわくちゃな顔からは、かつての生気は搾り取られ、やがて来る時を待つ諦念にも似た覚悟の色だけが微かにうかがえる。

さくらんぼのように瑞々しい赤さを帯びたふっくらとした顔で、あまり笑えない冗談を一人笑いながら言っていた祖父をもう一度見たいと思う。


「将来の夢は、あるのかね。具体的でなく、漠然としたイメージでいい。」

唐突に祖父は僕に尋ねた。

「まだ分からない。自分が何をしたいとか、そういうことが分からない。」

僕はうつむきながらそう言った。もう先が長くない祖父の前でそんなことを言って、祖父を不安にさせてしまう自分が嫌になる。

「そうかぁ。夢を持つっていうのはとても楽しいことなんだがな。僕は、昔は色んな夢を持ってた。」

彼は、窓の外の遥か遠くにある何かを見るような目でそう言った。

「おじいちゃんは趣味がたくさんあって、色んなことを楽しめていいよね。おじいちゃんは、どうやって将来の夢を決めていたの?」

「どうやって決めた、か。それは難しいなぁ。僕は頭の足りない単純な子供だったから、ワクワクすることならなんでも夢にしたがった。勉強もできないくせに、科学者になりたいだのと言ったものだ。」

「ワクワクすることはいいよね。僕もワクワクする何かを見つけたい。今はただ単調な毎日で…」

僕は言葉を詰まらせた。祖父は力なく笑った。

「ワクワクか…僕が人生で一番ワクワクしたのは、ドキドキしたのは、小学校2年生の冬のことだったかもしれない。僕はそのとき本気で、世紀の大発見をしたと思ったんだ。まあそれは、単純で馬鹿な子供の勘違いだったんだが。」

そう言って窓の外を見つめる祖父の顔に、かつての輝きが一瞬蘇った。

「一体何があったの?」

僕は単純な興味からそう尋ねた。

「小学校2年生の冬のことだ。僕の学校は冬休みが長くて、冬休みにいわゆる自由研究の宿題が出ていた。

頭が弱い上に、発想力もあまりなかった僕は、冬休みもあと2日で終わるというのに、自由研究のお題をずっと決めあぐねていたんだ。僕の周りには優秀な子が多かった。そして、その子たちは、いつもドジばっかする僕のことをよくからかったものだ。

そんな彼らを見返したくて、僕はとびきりの発見をしてやって、彼らをあっと言わせようと思っていた。そんな時に、僕はベランダに置いてある、小さな植物を育てるための小さなブリキの植木鉢で、雨の時に溜まった水が凍っているのを見た。以前は雪も降らないようなところに住んでいたから、外界の気温によって自然に氷ができるというのはとても新鮮なことで、僕はひどく興奮した。僕はその植木鉢をひっくり返し、底を叩いて氷を取り出した。そこから出てきたのは、カップに入ったプリンのような形をした氷で、僕はその形の整った氷に見とれていた。やがて見飽きると、氷をそのままにして、その日は眠りについた。翌朝、僕は前日に氷を置き去りにした場所をもう一度見てみた。するとそこには、あの氷が、前日と全く変わらぬ姿でそこにあった。それは僕を待っているように見えた。僕は興奮を抑えきれなかった。手を叩いて飛び跳ねた。氷は溶けて無くなるものだということは、馬鹿で無知な僕でも知っていた。けれども、その氷は、1日経ってもなおその形を一切失っていなかった。僕の胸は高鳴った。とんでもなくワクワクした。これは世紀の大発見だって、本気でそう思った。その時もちろん、僕の視界には降り積もる雪が入っていた。けれど僕は単純で、もう目の前で起こった奇跡に意識を完全に奪われていた。それは学校が始まる前日のことだった。僕はこれを自由研究のテーマとして学校に持っていこうと思った。

『ブリキの植木鉢に水を入れて外に出しておくと溶けない氷ができる』ということを、テーマについて簡単に説明する紙に書いた。学校で、僕の驚くべき発見を見て目を丸くする同級生たちの姿を思うと、僕はなかなか寝付けなかった。翌朝、僕はその氷を丁寧に何重にもタオルで包んで、カバンに入れて学校に向かった。急いでいるわけでもないのに駆け出しそうになるほど、ワクワクが止まらなかった。学校につき、朝礼で皆が席に座ると、担任の先生は、一人一人の自由研究の成果を順に見て回った。僕の番が近づいてくるにつれて、僕の足はとてももぞもぞとして、落ち着いていられなくなった。そして、ついに僕の番が回ってきた。『先生、すごい大発見をしました!』と僕は高らかに声を上げた。優秀なクラスメイトたちが、あのバカはまた何か言ってるぞ、というような視線を一斉に僕に向けた。『お見せしましょう!』そう言って僕は自信満々の表情を浮かべながら、カバンから丁寧に氷を包み込んだタオルを取り出した。そう、僕が取り出したのはタオルだけだった。

水分を吸い込んで、水がポタポタと滴り落ちるタオルだけだった。あれ?僕は思った。あれだけ丁寧にくるんでいたのに、なくなるはずがなかった。『先生、僕は溶けない氷を持ってきたんですが、無くしてしまいました』と僕は言った。クラスメイトたちの静かな嘲笑が聞こえた。『本当です!このタオルに包んでたんです!』僕は立ち上がって言った。先生は僕のびしゃびしゃになったタオルを取り上げると、『ふむ』と声を漏らした。そして、『水の入ったブリキの植木鉢を外に出しておくと溶けない氷が出来上がる』といったことが書かれた紙を、眉間にシワを寄せながら読んでいた。『氷は溶けるに決まってるだろ!馬鹿じゃねーの!』誰かがそんなことを言った。僕は、顔が真っ赤になるのを感じながらも『本当に溶けなかったんだ!』と反論した。そしたら、『溶けてるじゃないか!』とまたもクラスメイトが反撃してきた。『まあまあ。』と濃い口髭を生やした先生が仲裁に入ってこう言った『少し言うのはためらわれるが、君が持ってきたのはただの氷だ。現に、溶けているのだからね。溶けなかったというのは、外に置いていた時の話ではないかね?この時期の外は氷点下を下回っているからね。雪が積もるのと同じように、氷は簡単には溶けないんだ。』その時になって僕は初めて気づいた。あの氷が溶けなかったのは雪が溶けなかったのと同じで、寒い外にあったからなのだと。単純な僕の頭の中では、雪と氷は全く別の物だった。雪も氷の1種の形態だということに気づかなかった。こんな様に、僕の世紀の大発見はあっけなく散った。けれど、僕がその時に得たワクワク感とかそういうものは、その後の人生に多大な影響を与えた。その時はただ、間抜けな小学生の勘違いで終わったが、それが後々、僕の人生にとって良い刺激となったんだ…」

そこまで話し終えると、喉に何かが突っかかったのか、激しく祖父は咳き込んだ。

僕が祖父の背中をさすっていると、しばらくして「…長々と話して悪かった。だが、覚えておいてほしい。勘違いだっていい。ワクワクする気持ちを大切にしてくれ。」と言った。


祖父は落ち着きを取り戻してきたので、僕はありがとうと言って病室を出た。

病院から出たときには既に雪は止んでいたが、空には分厚い灰色の雲が敷き詰められている。しかし、その雲のわずかな裂け目から、ほんの少しではあるけれど、光の線が優しく漏れ出していた。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

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