第一章「辰巳紫央の正常なる日常」 1
壊れかけの目覚まし時計が急かすようにジリジリと鳴っていても特別慌てることはない。いつも通りせんべい布団から芋虫さながら這い出し、冷え切った洗面所で見慣れた顔を大雑把に洗う。そして流れるように歯を磨くと、中途半端に伸びきった髪をプラスチックの櫛で撫で付ける。やはりいつも通り言うことを聞かず四方八方に跳ねまくるが、それを強引に押さえつけ、どうにか体裁を繕ったといえるほどに整えたら、狭い台所へと三歩で直行する。
ぐるぐると鳴り続ける腹の為に食パン一枚を棚から取り出すと、皿にも乗せずにそのまま齧り付く。ジャムを塗りたかったがとうに切らしているし、買う金はもちろんない。糖分を摂取する余裕があるのなら、その分はたんぱく質を補いたい。つまり贅沢は敵、ひたすら我慢。
味気ない朝食後はどうにも不似合いな制服に手っ取り早く着替えを済ませ、防音はおろか防犯にすら役立っているとは思えない薄すぎる玄関扉を開ける。ギィーッと何度油を差しても嫌な音を立てる扉を御機嫌を伺うように丁寧に閉めると、現代ではほとんど見かけなくなった簡素な作りの鍵を掛ける。そして晴れ渡る空を何の感慨もなしに確認すると、家賃二万五千円の格安アパートの二階からぐだぐだと学び舎へ駆け出していった。
辰巳紫央の日常が、今日も滞りなく始まろうとしていた。
同じ制服を着た生徒がちらほら見え始めると、辰巳はようやく駆けるのを止めた。既に校舎は目前だったが、最後まで走りきるという殊勝な心掛けは持ち合わせていない。何の特徴もない生徒の群れに、辰巳は喜んで混じっていく。
校門の前までのんびり歩いていると、唐突に若さ弾ける嬌声が耳に届いた。洸天楼至学館と慇懃に彫られた門扉の近くで、浮かれたようにやかましく喋る女子生徒が多数たむろしている。
今日は高等部の入学式も終わったばかりの始業日だ。おそらく新入生なのだろう。笑顔一杯で友達と喋る彼女達はかしましく、楽しそうに見えるが、狭いコミュニティ内に置ける自分自身のポジションを、早々に確立させんと必死になっているようにも見えた。
その集団を意識しながらも、あえて見ないように横を通り過ぎようとすると、突然甲高い声で呼び止められた。はっとして振り向くと、そこには知り合いではあるが、その端正な顔立ちから何度見ても馴染めない人物がニコニコ顔で立っていた。
「辰巳先輩っ! 今日から同じ校舎ですね!」
「あ、ああ……そうだな、琴波ちゃん」
この自らの性格を現すかのような真っ直ぐで背中まで伸びる藍髪。それを艶やかに揺らして自分に微笑む彼女に、辰巳は少したじろいだ。年下の女の子に気後れするのは男としてみっともないと自分でも思うが、それにはそれなりの理由がある。
それはまず、彼女が辰巳の巫術指導先である碓氷神社の身内だからである。
指南番である彼女の母親は、辰巳にとって鬼よりもケガレよりも恐ろしい数少ない存在だ。従ってその恐怖の体現者の御息女とあれば、必要以上に気を使うのは当然であった。
そして何より、碓氷琴波という少女は、世の誰が見ても眉目秀麗で可憐な美少女だったからだ。
その魔性ともいうべき美しさは彼女の行動範囲に留まらず、近隣の学校、果ては見知らぬ町の住人からもファンが出てくる始末で、辰巳はその美貌に感心するというよりも畏敬の念というべき怖れを感じてさえいた。
そんな彼女、碓氷琴波にあまり深く関わるのは得策ではないと考えたのは、小心者の辰巳にとってトラブルを回避する自然な事だったし、まして祓魔師として将来性のない自分に、天から二物以上授かった彼女が、恋心はおろか興味を持つとは到底思えなかった。
しかし、そんなネガティブな思い込みに反して碓氷琴波は辰巳に好意的だった。
碓氷神社での修練中も甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるし、指南番の彼女の母親が行き過ぎた愛の鞭を辰巳に容赦無く振るえば、その華奢な体を精一杯張って止めに入った。そして今朝の愛嬌たっぷりの挨拶である。これは少々勘違いしても良いのかもしれない。
「私、甲組の弐科に入ったんです! 本当は壱科狙いだったんですけど、仲の良い友達もいるし、担任の先生も良い人そうだったし、人間万時塞翁が馬ってやつですよね!」
「へぇ、そりゃあすごい。弐科なら将来式内社、いや官弊大社付きの専属祓魔師も狙えるんじゃないか?」
最難関の国家資格であり、神聖不可侵の職業として広く一般社会に認知されている《祓魔師》。
その祓魔師養成所の側面を持つ洸天楼至学館では、高等部からは本格的にその道を進むカリキュラムを組まれる。その為、入学生は能力の良し悪しによって甲乙丙に適正を下され、更に壱料から九料まで能力順に組み分けされていた。
甲組に認定されたということは祓魔師としての素養ありと、全国でも随一の権威と実績を誇る洸天楼至学館に認められたことであり、それは彼女が祓魔師としての道を約束されたのも同然ということを示している。
逆に甲組以外の乙丙の組に属する者は、祓魔師になれるかなれないかの瀬戸際をさまよう、いわば予備学科に近い存在だ。その予備学科に属している辰巳を知ってか知らずか、彼女は辰巳の気を使った煽てに見事に乗っている。
「さすがに無理ですよ~! 弐科に入ったっていったって、これからどうなるか分からないですし。それに所詮、パートナーも決まってない見習いですから。……あ、辰巳先輩は巫調のパートナー、できたんでしたっけ?」
彼女はようやく自分の浮かれ具合に気づいたのか、苦笑いを浮かべる辰巳を遠慮がちな眼差しで見上げた。
「……いや、それが今だにいないんだよなぁ。やっぱり巫調できないってのは、マズいよなぁ」
辰巳は努めて明るく言ったつもりだったが、琴波はいたたまれないようにモジついている。言ってはいけないことを言ってしまったように、辰巳から意図的に視線を逸している。
辰巳には彼女の気持ちが理解出来る。この学校の出来損ないの証であることを、相手に自ら言わせてしまったのだから、バツが悪く感じるのは仕方のないことだろう。
けれど辰巳は、琴波の発言を不快になど思っていない。むしろ、自分の不勉強さと不甲斐なさが元凶なのだから、こんな状況にしてしまったことに悪気さえ感じていた。
(……とはいえ出来ないもんは出来ないんだし、仕方ないよなぁ)
卒業認定科目の一つであるパートナーとの巫調は、辰巳の目下の悩みでもある。
万物を司り、意のままに動かすことが出来る超常の力の源泉《巫氣》。
この巫氣を効率よく扱うには、巫調を行うのが祓魔師の常識であり、巫調が出来るからこそ市井人から畏敬の念を込められて祓魔師と呼ばれる。いわば巫調とは、祓魔師の代名詞のようなものだった。
これを出来ないのは学年でも辰巳一人だけであり、そのせいで辰巳の学校生活を肩身の狭いものにしていた。
「だ、だったら私が立候補、しちゃおうかな……」
深い溜息をつく辰巳に、琴波がもじもじと何か言いたげにしている。うつむき加減でボソボソと何事か呟く彼女に、辰巳は純粋に不思議がる。
そして琴波が意を決したように息を吸い込むと、そのほんのりと赤らむ顔を勢い良く上げた。
その瞬間、始業の予鈴がタイミング悪く鳴り響く。琴波は何かを言いかけていたが、辰巳には聞き取れない。
そして琴波は、予鈴に慌てる友人たちに両腕をガッチリと押さえられると、飲み込まれるように校舎の中へ消えていった。
「辰巳先輩~~」
琴波が発する残響が、どこからか弱弱しく聞こえる。
一人取り残された辰巳は、微妙な笑顔で立ち尽くすだけだった。




