森と少女
自身がゼルという名前であること思い出した青年。そして、エネロと名乗った少年は、ゆっくりと森の中を歩いていた。ひとまず、助けた御礼も兼ねて、彼の家に行くことになったのだ。一応途中までならしっかり舗装された道はあるらしいのだが、まだ兵隊がいるかもしれないとエネロが言うので聞き入れてあえて、進みづらい森の道を通っている。
さきほど襲ってきた兵隊の処理はもう済ませてある。誰も死んではない。ただ半日は目を覚まさないだろう。そのままにしてもおけないので、エネロが斧で木を切って、さらに持っていたロープと組み合わせ、即興で作った簡素ないかだに兵隊全員を縛り付けて近くの川に流しておいた。これなら彼らは死ぬこともないし、しばらくは追手が来ることもないだろう。
「へー。にーちゃん。記憶がないんだ。何にも思い出せないのか?」
「ああ、さっぱりだ。何かをしなければならない、ということは思い出せたのだがな」
名前の他、思い出せたもののもう一つのことだった。役に立たないようにも思えたが、少なくとも、行動するきっかけとしては十分なものだ。もっともまずは色々と知らなければならないことも多いのだが。
ふと気が付くと、目の前にゼルの身長の半分ぐらい、つまり、エネロの身長ぐらいの自然にできたと思われる土の段差がある。彼はよいしょと言いながら手をついてそれを何事もなくよじ登る。ゼルもそれに続いた。
「君はどうして追われていたんだい?」
ゼルがさきほど疑問に思っていたことを口に出す。
「ああ、オイラ達、すごい昔に逃げてきたんだ。てーこくっていうでっかい国からこの森に」
「逃げてきたって……何か悪い事でもしたのか?」
もちろんこのような子供に罪があるとは思っていないが、ゼルの問いにエネロは首を横にふる。
「してないと思うよ。ただ、あの国じゃ、逃げることそのものが罪だったみたいだ。ずっと逃げられたと思ったんだけど、最近また兵隊が現れ始めて。この森は深くて広いし、迷いやすいからしばらくは大丈夫と思うんだけど、そろそろどうするか考えなきゃダメかなー」
「なるほど」
確かにしっかりとした道はあるものの、少し森に入ってしまったらもう右も左もわからないぐらいだ。土地勘がないものは遭難する危険すらあるかもしれない。というよりさきほどから倒れた樹を飛び越えたり、大きな岩と岩の間をすり抜けるように進んだり、かなり障害物が多いのだが、エネロは慣れているのか、平地を移動しているかのようだ。
「それよりにーちゃんはすごく強いけどどうしてさっき苦しそうだったんだい?」
それはゼルにもはっきりとしたことはわからない。ただ一つだけ言えるのならば、体が武器を持つことをはっきりと拒絶した。体に電撃が流れるような痛みと、おぞましさに似た嫌悪感……。それが同時に襲い掛かってきたのである。何か武器に対してトラウマでもあるのだろうか。記憶がないにもかかわらず。
説明したが、エネロはよくわからないようだ。
「まあでも、武器がなくてもにーちゃんは十分つよいし、どうでもいっか!あ、見えてきたよ!あれがオイラの家さ!」
時間にして三十分ぐらい歩いただろうか。真っ直ぐ歩いていたような、色々な方角を歩いていたような、不思議な気分だった。さすがのゼルも少々足にこたえてきていたので、少しほっとした。
周りの木でつくられたであろう木製の家。しかし、どこか年季を感じさせながら、丈夫に作られたことがわかるその家は森の中でも暖かさと安心さを感じさせるものだった。
先にエネロが扉の前で元気よく叫ぶ。
「ただいまー!!マイー!」
少年の掛け声から一秒すらかからず、ドアの外からワンピースにエプロン姿の少女の姿が急いだ様子で出てくる。三つ編みにされたベージュ色の髪は兄の帰りにはしゃぐように揺れている。髪の色は全然異なっているが、目がエネロとそっくりだ。
「兄さん!おかえりなさい!」
まるで帰りを待ちきれなかったかのように彼女は少年を迎える。
「心配していたんですよ。さっき、危ないところだったって思っていたから」
途中で言葉が途切れる。少年の後ろにいる見知らぬ男に気が付いたのだろう。不思議そうに少年の横から覗きこむように見ながら尋ねる。
「そちらの方は……?」
「ああ、こっちはゼルのにーちゃん。さっき危ない所を助けてもらったんだ」
その言葉を聞くと、少女は青年に恭しくお辞儀する。活発な印象を一目で感じさせる兄とは正反対に、物静かな性格と分かった。
「ああ、ではやはり……兄さんを助けていただいてありがとうございました。私はマイと申します」
「私はゼル。こちらこそ、エネロには助けてもらった。お礼を言うのはこちらも同じだ」
少女の言葉にゼルも頭を下げる。そしてさきほどからの少女の言葉を思い返し、ふと気が付く。
少女はなぜ、少年に危険があったことが分かったのだろうか。少年の声は確かに森で響いてその声で自分も彼の元へ駆けつけたのだが、その場所からここまでは相当離れている。少なくとも家の中にいたら絶対に聞こえることはないだろう。
何か少年のことを知る手段でもあるのだろうか。
「ちょうど夕食にしようと思っていたんです。どうぞ上がっていってください」
少女の温和な微笑みを見て、今は尋ねる必要がないかと思い返す。自分もまだまだ分からないことだらけなのだから。
日はもう沈みかけていた。