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4.均衡を示す

 数日後、シェイラは二つの意味で頭を抱えていた。

 一つ目は、新たな教官が来た事だ。急にクラスの選択を迫られただけでなく、“弟”・ベルグとその教官との婚約話を聞かされた。

 二つ目は、頭痛である。まだまだ先の事だと思っていた“現実”が、突然目の前にやって来た。そのせいで、彼女は焦燥感に苛まれてしまい、部屋の中でこっそりと酒を飲んだのだ。

 シェイラはこれまで、酒なぞ飲んだ事が無いに等しい。飲んでも一口、二口程度だったにも関わらず、昨晩はワインの小瓶を一本空け、見事な二日酔いを味わってしまっていたのだ。

 食堂のカウンターに肘をついては、『うー……』と重い頭を抱え、朝から唸り続けている。


(これが、大人の世界なのね――)


 もちろん大間違いである。しかし、同年代の年頃の娘が既に経験しているであろう事が、シェイラには未経験な事が多く、空白の十年があると言っても過言ではない。

 やりたかった事が出来ず、いまさら誰かに聞くことも、一人でする事もできないため、本などから得た“大人の世界”が密かな憧れでもあったのだ。


「でも頭いたぃ……」


 ガンガンと響く頭に、『これはもう味わいたくない……』と思っていた。

 夜もあまり寝た感覚がせず、瞼の裏がずんとした重みまで感じる。


(スリーラインは……多分、森に遊びに行ったのかな?)


 酒を飲んでも怒られる年ではない。だが、“頼れるお姉ちゃん”でいる()()()のシェイラは、このような姿を誰にも……特に、“弟”には見られたくなかった。

 宿の女将は、新たに赴任してきた教官姉妹・レオノーラとローズと共に、朝早くから訓練場内の説明をしに行っている。町の者も読んでいたので、恐らく宿舎などの掃除もしてくるのだろう。

 カートは外をブラついていた所を見つかり、手伝いに連れて行かれてしまった。

 ――つまり、今この宿屋・近郊には、店番を任されているシェイラ一人しかいない。

 そのせいか、静かな風の音がハッキリと耳に届くほど、辺りはシン……としている。


(でも、あの可愛いかったスリーラインも結婚、か……)


 うるさく響く頭の中で想うのは、幼き頃を知る“弟”のことばかりだった。

 ベルグは基本的に食う、寝る、遊ぶの三原則で動き、それは今でも変わっていない。

 そんな、自由奔放だった“弟”が結婚する……これに反対ではないのだが、どうしても認めたくない自分・“姉”がそこにいて、嫌になってしまう。

 再会したばかりとは言え、女将よりも心許せる存在である。それがポッと出の教官――レオノーラに掻っ攫われると思うと、シェイラはどうしても納得がいかなかったのだ。

 昨晩も、酒を飲んだら気が紛れると聞いていたので、思い切って飲んでみたものの……ぼうっと昂揚した頭の中でそればかりが巡り、えづきながらも、飲めぬ酒をどんどんと嚥下(えんげ)していた。

 しかし、気を紛らわせるどころか、気まぐれのせいで、気持ち悪くなる結果となった。


「ハァ……でも、どうしちゃったんだろ、私」


 頭痛と悶々とした気持ちから、重いため息を吐き出してしまう。

 もう何度目か分からない、グラスの水を一気に口に含んだ時――ちょうど同じタイミングで、宿屋に一人の女性客が足を踏み入れた。


「むっぐ!? ぐっ……げほっ、げほっ……い、いら゛っしゃいませ――」

「だ、大丈夫ですか?」


 間が悪い時にやって来たと、すまなさそうな表情をうかべている。

 くすんだ朱色のような、蘇芳(すおう)色のローブを揺らしながら『何でもいいので、急ぎで一食用意して頂きたいのですが』と注文すると、入口近くの席に腰をかけた。

 注文を承けたシェイラは、手早くエプロンをかけ、すぐに調理に取り掛かる。


「あ、簡単なもので大丈夫ですよ」


 そう言われると、余計にプレッシャーがかかってしまう。

 料理を出す側とすれば、簡単な物ほど難しい。言葉の通りに“簡単な物”を出せば、愛想が無いと思われてしまいかねないのだ。

 その上、肉か魚、それとも野菜か――客の好みさえも分からないのである。


「何かダメな物はありますか?」

「いえ、特には……」


 以降、無言。シェイラの探りはそこで終わった。

 こうなると、何を所望しているのか、客の様子から見抜かなくてはならない。


(恐らく暑がっているから――冷たい物かな?

 旅の途中みたいだし、あまり冷し過ぎない程度にして、消化の良い物……。

 うん、ちょっと早いけど、冷製パスタにしよう!)


 メニューは決まり、すぐに準備に取り掛かったが、すぐにその手を止める。

 改めてその女に目をやると、少し肌寒そうに手を擦り合わせているのだ。

 恐らく冷え性なのであろう。シェイラはそれに一つ頷くと、即座に提供するメニューを変えた。

 あまり待たせてはならないと、女の言葉通り“簡単な物”となってしまう、シェイラはこれが正しい“選択”だと思っている。


「温かい物、ですか……」


 出された料理を見た女は、側から見ても分かるほど、ガッカリしたような目を浮かべた。

 料理を女の座るテーブルに置かれたのは、ほうれん草と人参、そして鶏肉の炒め物――飾り気も何もない、簡素な料理であったからだ。


「美味しい料理が食べられると聞いていたのですが……残念ですね」

「申し訳ありません……お客様はどこか、貧血気味のようでしたので……。

 もし、気に入らない・お口に合わなければ、御代は結構ですので――とりあえず、残さないでください」


 最後の一言から、女は並々ならぬ圧力を感じ、いそいそと食べ始めた。

 シェイラは、ローブの明るい色に目を(とら)われていた。

 夏に移ろうかと言う時期に、未だ厚手のローブを羽織ったままであり、パサついた髪に、冷えのように手を擦り合わせている女を見て、逆に血を作る食材を摂取した方が良いと判断したのである。

 一食程度ですぐに効果は出ないのは重々承知しているが、少しでも“力になれば”と考えた結果だった。


(冷たい物がいいなら、最初に言ってくれたらいいのに……。

 はぁ、女将さんに叱られちゃうかもな……って、あれ?)


 女はあっと言う間に食べ終わっており、シェイラが気づいた時には、静かに席を立ったところであった。

 その机の上には、中判金貨が一枚が置かれているのに気づき――


「ちょ、ちょっとお釣り……お客様っ!?」


 女は気づいていないのか、聞えていないのか……振り返らないまま店を出て行った。

 パタパタと足音を立てながら、急いで後を追ったものの、


「……あ、あれいない!?」


 店を出た時には、その姿が全く見られなかった。

 古びた建物が建ち並ぶ閑静な道に、あんな派手な色のローブを纏っていれば目立つはずだ。

 にも関わらず、道には誰一人とて歩いておらず、まるで幽霊のように、忽然と姿を消していた。

 食い逃げも困るが、中判金貨は明らかに貰いすぎだ――。

 シェイラは、どうした物かと立ちすくんでいたが、後ろから別の客が入店した事に気づき、無意識にエプロンのポケットに突っ込んでしまっていた。



 ◆ ◆ ◆



 その頃――カートはかび臭い研究室の掃除をさせられていた。

 下半分を布で覆った姿は、まさに盗賊そのモノであるが、手には短刀や剣ではなくハタキが握られている。

 埃をざっと落とし終え、掃除するように命じたローズへ報告に向かおうとした時――


「ん? 何だこれ……本か?」


 部屋の外、廊下に一冊の本が落ちていた。

 この訓練場の史書であるようだが、カートにはこう言った歴史書には興味がない。

 温故知新は理解しているが、過去は過去に過ぎない、と考えているからだ。

 ローズが落としたのだろうと思い、拾い上げた時――廊下の突き当たりで、蘇芳色のローブを着た女が横切ったのが見えた。


「誰だ――おっ、と」


 ドサッと音立て廊下に落ちた本は、訓練場きっての三人組のページが開いている。



 ◆ ◆ ◆



 ベルグもまた、森を一人で歩く蘇芳色のローブを着た女を見た。

 その女は、町とは反対方向――今から森を抜けようとすれば、どこかで野宿せねばならない。

 日暮れと共に《グール》が徘徊を始めるため、連れ戻そうと腰を浮かせた矢先、その女はスゥ……っと木漏れ日の光の中に消えてしまった。


「……俺の見間違いか?」


 ベルグは深くは考えない。浮かせた腰を再び落とし、目の前の“天秤”に集中し始めた。

 “天秤”の左の皿には石ころ、右の皿には多くの木の破片が乗せられている。

 傍らに置いてある破片を掴み、一発で左右均衡を狙う――ベルグ考案の遊びであった。

 “天秤”に乗せられた木の枝を全て取った時、ふいに彼の背後から女の声が聞こえてきた。


「それは、遊び道具じゃないのですが……。まぁ、罪ではないですけど……」

「ん?」


 声のした方に振り向いたが、そこには誰もいない――。

 片方の皿が空であるにも関わらず、“天秤”は“均衡”を示している。



 ◆ ◆ ◆



 二日酔いのシェイラには、最もハードな一日となっていた。

 あれから、訓練場の掃除片付けを終えた町の者が次々と来店し、落ち着いた頃には、もうすっかり日が落ちてしまっていた。

 もう最後は気力だけだった。後片付けらは女将に任せ、一足早く自室へと戻らせてもらうと、彼女はエプロン姿のままベッドに飛び込んだ。

 その時ふと、下腹部に何か硬い物を感じたシェイラは、ゴソゴソと手をやると――


「あ゛っ……わ、忘れてたっ!?」


 それは、蘇芳色のローブを着た女から受け取った金貨だった。

 原則として、客から受け取ったお金を、服やエプロンのポケットに入れてはならない。

 シェイラは、それをうっかり入れてしまっただけでなく、そんな客が来た事すら女将さんに伝えるのを忘れてしまっていたのである。


「うぅ……明日、怒られるの覚悟しよう……」


 思えば、これのせいで酷い一日になった――。

 シェイラは恨みがましい目で、置かれていった金貨に目を見つめている。


「でもこれ、どこの金貨なんだろ?」


 両面に“一枚の羽”が描かれている金貨など、これまで見たことがなかった。

 この国では、国王か鳥の絵柄……他国のではカエデの葉なのが多い。

 金貨にも大中小があるが、これは中判金貨よりも一回り大きいように見える。

 よく見ると、その側面に文字が刻まれいるの事に気づいたようだ。彼女の目は文字を追い、無意識に口がそれを噤んでゆく。


「我、“間”に立つ者なり。我が心は友を信じ、耳は友の言葉を聞く。

 我が目は罪を見逃さず、我が手は罪を裁く。そして、我が口は裁決を下す。

 我は、罪を告げる“裁断者”――ヴァルキリー、なり……え、なっ、何!?」


 すると、その金貨が眩い光を放ち始め――シェイラは思わず強く目を瞑った。

 何が起こったのか。その光はすぐに収まり、彼女は瞑った目をゆっくりと開くと……。


「え……え、え?」


 あたり一面、白い世界であった。

 上も下もない。産まれたままの姿で温かい光の海に浮かび、まるで母が揺らす揺りかごの中のような、懐かしい心地よさに包まれている。

 ずっとこうしていたい――と、シェイラはすっかりそれに身を委ね、眠るようにそっと目を閉じた。


『貴女に“使命と役目”を押し付ける事になりますが……どうかお願いします。

 もう時間も、猶予もあまり残されていません――。それと、ご飯美味しかったです』


 シェイラの耳に、どこからか女の声が聞えてきた。

 しかし、それが誰なのかすらも考える事もせず、幸せな浮遊感に身を委ねている。

 この心地よい空間は“天国”であり、声の主は“天の遣い”かもしれない……と、考えていた。

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