第四話
翌朝。
チュ。
「行ってらっしゃーい、翔兄ぃ」
その翌朝。
ムチュ。
「行ってらっしゃーい、翔兄ぃ」
そのまた翌朝。
ムチュウ。
「行ってらっしゃーい、翔兄ぃ」
こうして壬生家のファミリーカー『スバル・インプレッサWRX』の車内にて、毎朝恒例儀式である「悶絶!! 朝のももいろチュウちゅうバトル」が開催されたのであった。
ムチューウ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なあ真琴。もうカンベンしてくれないかな」
更に数日後の朝。出勤前のファミリーカーという名の禁断の密室にて。
首筋に絡まるすらりと伸びた妻の両腕を振り解きながら、ネクタイ姿の翔一郎は助手席に陣取る彼女に訴え掛けた。
翔一郎の厚い胸板にムギュっと押し付けられた、桃色エプロンに包まれた真琴の胸元を引き離す。
彼は、唾液に塗れた唇をぬぐいながら言い放った。
「ご近所さんに見られたらどうすんだよ。まったく恥ずかしいったらありゃしない」
眼前には、新妻の潤んだ瞳と艶めく桃色の唇。互いの唾液が絡まり合い、ぬめりと糸を引いている。
「いいじゃん。ボクら健全な新婚夫婦なんだからさ。全然、普通なことだよ。それに、近所の奥様方も『まあ、お熱いこと。若いっていいわね真琴ちゃん』って羨ましがってたよ」
時、既に遅しである。
「くそっ、手遅れか」
不精に伸ばした髪を掻き毟る翔一郎。平成時代の公務員としてはギリギリラインの髪型だ。
それを見た新妻は「あーあ、せっかくボクがセットしてあげたのに。台無しじゃん。もーっ」と頬を膨らませた。
赤色のスプリングニットにまとわれた両腕を組む真琴。おもわず眉をしかめる。
「ねえ翔兄ぃ。チュウする事って、ボクらが愛し合う事って、そんなに人に見られて恥ずかしいコトなのかな」
真顔になる真琴。そのまま不安げに、翔一郎の横顔を覗き込んだ。
「当たり前だ」
亭主は妻に視線を合わせず、語尾を強めて言い放った。
「言語道断。顔厚忸怩とは正にこのことだ」
「まーた、四文字熟語。しかもダブルで」と呆れ顔の真琴が揶揄する。
「クドいよ翔兄ぃ、悪い癖だよ。難しい言葉の使いすぎは、おじさんの証拠。ホントに何から何まで昭和だよね」
「うるさい。悪かったな昭和で、何とでもほざけ」
フロントガラスを見つめたまま仏頂面で腕組みする翔一郎。
「クドいのは、その男前の顔だけにしておきなよ」
褒めているのか、貶しているのか。よくわからない真琴のフォロー。
「黙れ」
それでも頑固オヤジの機嫌は直らない。完全にヘソを曲げている。
「まあ、翔兄ぃのそういうとこボク嫌いじゃないけど――あ、そうだ」
真琴はポンと膝を叩いた。紺色のミニスカートから覗く健康的な白い太ももが、弾けるようにぷるんと揺れる。
「なんだ。どうした真琴」
「じゃあさ、翔兄ぃ」
もったいぶった口調の妻。
「じゃあってなんだ。早く言え、早く」
急かす翔一郎。年を取ったせいか、最近やたら気が短い。
「じゃあさ、これをしてくれたら、指紋認証解除してあげるよ」
「本当か。何をすればいいんだ」
翔一郎はおもわず、妻の座る助手席へ身を乗り出した。
「ていうか、わかんないかなぁ。乙女のボクにそんな恥ずかしいこと言わせないでよ」
「人妻のくせに何が乙女だよ。わからんから聞いているのだ。早く言え」
「はぁ、やっぱり鈍感」
真琴が残念そうに小声で囁く。
「鈍感で悪かったな。おまえのタチの悪い謎掛けなど、もうウンザリだ。早く結論を言え、早く。ハリー、ハリー」
「もうっ。翔兄ぃたら、せっかちなんだからぁ」
「主語を言え、主語を。いいから先ず結論を述べよ、結論を!」
密かにそれは、翔一郎が職場で何時も上司から言われている台詞だった。
「わかったよ翔兄ぃ。大きな声出さないでよ。ご近所迷惑だよ」
「おまえが言うな、おまえが!」
平日出勤前の駐車場での、新婚夫婦による犬も食わない愛の抱擁。そちらの方がよっぽど、ご近所迷惑千万である。
亭主の叱咤に自覚したのか、急にしおらしくなる真琴。俯きながら恥らいの表情を浮かべている。
「わかったよ、言うよ。だからぁ、ボクに」
欲求不満の情欲に飢えた若妻が、桃色の頬を赤らめる。
「ボクに?」
「ボクに毎晩」
桃色に艶めく唇を舌舐めずりしながら、幼き妻は。
「毎晩?」
彼女は口元に、妖艶な笑みを浮かべた。
「ボクに毎晩、ベッドの上でーー」
(つづく)