第三話
「なあ、財務大臣」
短い沈黙の後、翔一郎は妻の真琴を強く睨みつけた。
「なに、翔兄ぃ」
「亭主を、壬生家の総裁であるこの俺を脅迫するつもりか」
「さあ、どうだろうね」
助手席の真琴が、運転席の翔一郎の方に顎先を軽く差し出す。そして上から目線で「うふふ」と含み笑いを浮かべた。
「条件はなんだ」
「何だと思う?」
しばらく考え込んだ後、翔一郎は口を開いた。
「そうか、内閣の財政難による議員報酬の大幅削減決議案が目的か」
翔一郎のおこずかいは月に二万円。同世代の同僚と比較してかなり少ない。その代わり、夫婦共通の趣味であるクルマに掛かる費用は家計持ち。それがせめてもの救いではあるが。
一国の主としては、これ以上賃金カットされては立つ瀬がない。まさに背水の陣である。
「残念、ハズレだよ。あんな少ないおこずかいで、翔兄ぃよく我慢してくれているなって、いつも感謝してるよボク」
翔一郎は心の中で胸をなで下ろした。真琴に悟られぬよう、表には出さずに。
「それじゃあ、昔乗っていた赤いCR-Xに変わる自分専用の愛車を、壬生家のセカンドカーとして買ってくれってことか」
「ううん」
残念そうに、ゆっくりとかぶりを振る真琴。
「それもハズレ。そんなお金の掛かることなんて求めてないよ。こう見えてもボクは家計を守る主婦だよ。翔兄ぃ、インプレッサの維持費って一体どれだけ掛かると思ってるのさ」
「うっ」
痛いところを突かれた。それを言われるとぐうの音も出ない。
走り屋が好む車の中でも、スバルインプレッサWRXのような大排気量モンスターカーの維持費は、一般のファミリーカーと比較して軽く数倍は越える。
チューンナップなどの改造に手を出した日には、ヘタをすれば同じ車がもう一台買えてしまう。
泣く泣く日産セレナなどのファミリーミニバンなどに乗り換える、元インプレッサ乗りの心優しきお父さん。そんな輩が現代社会では後を絶たない。
「そりゃあボクだって、あの頃のように自分だけのクルマが欲しいよ。でも、今は夢のマイホーム実現へ向けて、しっかり貯金しなきゃ」
「まあ、そう……だよな」
三年以内にマイホームを真琴の実家の近所に立てる。それが新婚夫婦のささやかな夢だった。
「じゃあ、たまには何処か楽しいレジャーに連れて行けってことか」
「またまたハズレ。それもお金が掛かっちゃうでしょ。何時もの近場ドライブで充分だよ。節約しなくちゃ。ただでさえインプレッサは、燃費が悪くてガソリン代も馬鹿にならないし」
またまた痛いところを突かれた。壬生家の国土交通省としても党首としても、まさに面目丸潰れである。
「だよ……な」
「難しく考えすぎだよ翔兄ぃ、悪い癖だよ。答えはもっと簡単なことなのにさ」
「は?」
「ヒントはこれだよ」
例の桃色のプッシュスターターを指差す真琴。
「このエンジンスターターが、この桃色のボタンがヒントだって?」
翔一郎は腕組をしながら首を傾げた。
「そうだよ」と指先で、自分の口元を指し示しながら真琴が返す。
それを見た翔一郎は「あ、そうか」と言いながらポンと膝を叩いた。
「そうか、桃がたらふく食べたいのか。おまえ食いしん坊だからな」
真琴は、おもわず「ぷっ」と吹き出した。
「笑うなよ、こっちは真剣なんだぜ」
「ごめんごめん」と真琴。よだれと唾でなまめく水蜜桃のような口元を拭う。
「翔兄ぃさあ、さっきこう言ってたよね『あのイグニッションキーを回す瞬間が、朝のスイッチが入っていいんだけどな』って」
妻が亭主の口調を真似る。
「ああ、確かに」
「ボクにも毎朝、ももいろスイッチを押してエンジン掛けてくれなきゃ。今日という一日を頑張れないよ」
真琴は急に真顔になった。
「なんか意味不明だぞ。真琴、もっと分かりやすいヒントはないのかよ」
寝癖頭を更にぐちゃぐちゃに掻き毟りながら、翔一郎は真顔で噛み付いた。
「だからぁ。これから翔兄ぃが毎朝ボクのももいろボタンを押してくれなきゃ、ボクもエンジンスターター押してあげないからねっ」
子供みたいに拗ねた表情を浮かべる新妻。林檎のように頬っぺたを真っ赤に膨らます。
「は、なんだそれ。おまえのももいろボタンって、なんだよ真琴」
ハアと深くため息を付く真琴。語尾に「鈍感」と小声で付け足す。
「やっぱ典型的な左脳人間だよね翔兄ぃって。ボクに皆まで言わせないでよ」
「は?」
「もう、しょうがないなあ。だから、これからボクに毎朝」
真琴がゆっくりと瞳を閉じる。
「ボクに?」
口元を尖らせ、右側に座る翔一郎の顔にそっと突き出す。
「ボクに毎朝――」
今にも溢れ出す水蜜桃のような――
「毎朝?」
ぷるんと艶めく、柔らかな桃色の唇を。
「ボクに毎朝チュウしてくれなきゃ、エンジンスターター押してあげない」
(つづく)




