第二話
「なっ、なんでだよ!」
運転席の翔一郎は、おもわず大声で叫んだ。
「だってさ、このインプレッサWRXは我が家のファミリーカーだよ。夫婦生活の鍵は奥さんが握るのが常識でしょ」
「まったく、なに考えているんだ真琴は」
「大丈夫。ボクが毎朝、駐車場まで翔兄ぃをお見送りしてあげるからさ」
寝癖頭を更に逆立たせながら、翔一郎が唇を尖らせて反論する。
「こんなの余計に不便じゃないか。仮に百歩譲って、行きはいいけど帰りはどうすんだよ。毎朝、役所への通勤にだって使ってるんだぞ」
「チッチッチッ。心配後無用だよ、まじめな公務員のおニイさまっ」
右手の人差し指をメトロノームさながら左右に振りながら、真琴が「うふふ」とほくそ笑む。
「指紋認証システムは管理者と使用者とに権限が分かれているんだよ」
「ほぉ」
「管理者の指紋認証が必要なのは朝の一発目だけ。毎日二十四時間でタイマーリセットされるんだって。なんでも営業車の休日無断使用や、旦那さんの浮気外泊の防止用オプション設定なんだって」
まるで勤務先のPCのようだなと翔一郎は思った。
「なるほど。主婦のおまえが管理者、旦那の俺が使用者という訳か」
などと感心している場合ではない。真琴は構わず続けた。
「まだメーカー開発段階で、一般には正規販売されていないんだって。その噂を『みんカラ』で聞き付けたボクが、水山さんとリンさんにお願いして、試乗車用の試作品を特別に取り付けてもらったんだ」
『みんカラ』とは「みんなのカーライフ」の略称。全国のクルマ好きが集まるインターネットの大手コミュニティサイトである。密かに真琴はそのサイトの常連なのだ。
主婦業の傍ら、せっせと亭主の愛車インプWRXの整備手帳をインターネットに書き記す。それが彼女の日課であり、ささやかな楽しみなのである。
とはいえ、家庭のPCの管理者は翔一郎の担当。機械に疎い真琴は、もっぱら使用者として利用しているのだ。
「ちょっと待てよ。試作品って、そんなので車検が通るのかよ」
「だから車検終了後に、こっそり取り付けてもらったんだよね。システム障害などの問題がなければ向こう二年間は有効。いいタイミングでしょ」
「はあ……」
「二人とも『モニターになってもらえて、こちらこそ助かる』って喜んでたよ」
「俺のWRXは実験台かよっ!」
ようするにみんなグルなのかと、翔一郎は内心ボヤいた。
「じゃあ、お前が外泊する時はどうするんだ」
「ボクは翔兄ぃを置いて、どこにも行ったりしないもーん」
真琴がシレっと言い返す。
「まてよ。たしか、こういうのは緊急時の為に、従来通りのアナログキー機能も搭載されている筈」
翔一郎はステアの下側をまさぐり覗き込んだ。案の定、キーシリンダーらしき挿し込み口がある。
「翔兄ぃ、スマートキーのカバーを引っこ抜いて鍵を挿してごらんよ」
「ん、どれどれ」
ポケットからスマートキーを取り出す翔一郎。真琴に言われた通り、カバーを外す。
むき出しになった銀色のイグニッションキーをキーシリンダーに挿す。彼はそれを回そうと試みた。
「くそっ、駄目だ回らない」
「その機能はあくまでスマートキー側のリチウムボタン電池切れの為の対処法。認証システムの電源供給源は、車体側のバッテリに依存してるから無駄なんだよ」
「まあ、言われてみれば確かに……」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる翔一郎。
「結局、最終的にはスターターボタンを押さないとエンジンは始動しないんだよ」
「まあ、確かにそうだよな。鍵を挿してあっさり始動するんじゃ本末転倒。それじゃあ盗難防止システムの意味がないもんな」
その台詞を聞いて「やっぱ昭和だねーっ」とまたまた揶揄する真琴。翔一郎の台詞は、やたらと四文字熟語が多い。まさに昭和オヤジの証明である。
「よっ翔兄ぃ、昭和の男前っ」
「うるさいよ、悪かったな昭和で」
「そうだよ。市役所の住民課の業務でワードやエクセルを使いこなしてバリバリ働く、真面目で賢い男前の翔兄ぃなら――」
「なら?」
「そんなことぐらい機械に疎いボクに言われなくても、ちょっと考えれば分かると思うんだけど」
「うっ」
おもわず絶句する翔一郎。
密かに彼女は私立 尽生学園高等部の卒業生。県内でも有数のレベルを誇る進学校だ。
かつて翔一郎が、ここの受験に見事玉砕したという事実は、いまでも妻には内緒の黒歴史だった。
「分かったよ真琴、俺の負けだ。分かったから早くボタンを押してくれよ」
急かす翔一郎。なんだかんだ言って、さっきからウズウズしているのだ。水平対向エンジンのボ・ボ・ボと独特なアイドリング音を、早く体感したくてしょうがない。
その台詞を聞き終えた途端、待ってましたと言わんばかりに真琴はニヤリとほくそ笑んだ。
「悪いけど、タダじゃ押せないよ翔兄ぃ」
(つづく)