第一話
「翔兄ぃ、我が家の愛車が帰って来たよ」
日曜日の朝。若妻の凛とした声が、とある新婚家庭のダブルベッドの上で響き渡る。
「だから、早く起きなよ。起きろ、翔兄ぃ。起きろ!」
亭主に馬乗りになった妻の真琴が叫んでいる。
体を激しく揺さぶられたことで、壬生翔一郎は夢の中から現実世界へ連れ戻された。
「おまえな。日々の労働で疲労している亭主のことを少しは思いやってだな、休みの日ぐらいは昼まで寝かせといてあげよう、なんて殊勝な気は起こさんのか?」
「翔兄ぃ。まだアラフォー手前なのに、疲れてるぅ~なんてオヤジ臭いこと言わないでよね。そのうち禿げるよ」
低血圧気味なボケた寝癖頭が今日は休暇日であることを思い出す。伸びた右手が枕元のiPhoneを掴み取った。
親指が指紋認証ボタンに触れる。夫婦といえど、プライバシーは重要だ。液晶パネルが指し示しているのは午前八時三十分。
「禿げちゃったら、せっかくの男前が台無しだよ。それに痴呆症には早すぎだよ。今日の事もう忘れちゃったの翔兄ぃ」
「ああそうか、今日は車検の納車日か。やっと帰って来たんだな、我が家のファミリーカー『インプレッサWRX』が」
「そうだよ。さっきリンさんが、わざわざ駐車場まで届けてくれたんだよ」
そういえば先日、なじみのクルマ屋『エム・スポーツ』の店長水山に車検を依頼してあった。そして先程スタッフの三澤倫子が、代車の引取りを兼ねて納車に訪れたのである。
ついでに、『便利なオプション機能』の設置も依頼した。クルマ好きである妻のたってのリクエストだ。その為に、一週間程の整備期間が掛かったのである。
「さあ、早く見に行こうよ翔兄ぃ」
亭主に向かって、兄ぃはないだろ兄ぃは。何時までたってもお子ちゃま気分が抜けないんだからと、内心ボヤく翔一郎。
彼はなんとも面倒臭そうに上体を起こし、ベッドから這い出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
十数分後。翔一郎と真琴の新婚夫婦は、壬生家のコーポから数建隔てた月極駐車場を訪れていた。
住宅と住宅の間に挟まれたその空間からは、すでにほとんどの車が出払っている。いまは翔一郎の愛車だけが、ぽつんと残されているような状況だった。
「来た来たぁ、翔兄ぃのブランニューインプが」
スバルGRB「インプレッサWRX・STI」
スバルが三菱自動車ランエボとの熾烈な性能競争の果てに市場へと投入したファイブドアハッチバックのモンスターだ。
そのボンネット下に収められたEJ-20水平対向エンジンは、カタログスペックで三百八馬力という常識外れの出力を発揮する。
数年前まで乗っていたスバルBE-5「レガシィB4」を手放して以来、翔一郎は三代目の愛車であるこのクルマを、ずっと大事に扱ってきた。
そのことを、妻の真琴はちゃんと知っている。
「ねえねえ、早く乗ってみてよ」
若妻のポニーテールが左右に揺れる。真琴は無邪気に翔一郎の手を引っ張った。
歳の頃は、せいぜい二十代前半といったところか。好奇心いっぱいの大きな瞳と人好きのする整った顔立ち。少々跳ね返りの強い栗色の髪を、頭の後ろでひと括りにまとめている。
まさにじゃじゃ馬お姫さまだな。ひと回りも年の離れた妻の揺れる尻尾を見つめながら、くたびれ気味の新米亭主がほくそ笑む。
「いいから、早く乗ってよ翔兄ぃ」
背中を押されるように翔一郎は、愛車インプレッサの運転席に乗り込んだ。
「おや?」
翔一郎はすぐさま異変に気付いた。キーシリンダーが、桃色のプッシュスターターボタンに変更されている。
「えへへ、これラクチンだよ」
これが真琴のリクエスト『便利なオプション機能』の正体である。いつの間にか助手席を陣取った真琴が微笑む。
「ものぐさ翔兄ぃには、ぴったりの最新便利機能だよ」
お気に召さないのだろうか。ふて腐れ顔の亭主はボリボリと寝癖頭を掻き毟った。
「あのイグニッションキーを回す瞬間が、朝のスイッチが入っていいんだけどな」
ボヤく翔一郎に「昭和ーっ」と揶揄する真琴。
「しかし、この趣味の悪い桃色のプッシュボタンカバー。これだけはどうにか――」
「できませーん、却下」
間髪入れず、真琴が言い返した。
「まあいいか、一応ファミリーカーだし。肝心の走りに影響するわけでもなさそうだ。せめて内装の趣味ぐらいは、財務省の意見も尊重しないとな」
「はいどうぞ、国土交通大臣さま」
ちゃらりと金属音を鳴らしながら、彼女はキーを手渡した。
ふて腐れながらマスターキーを渋々上着のポケットに入れる翔一郎。その金属音が同じポケット中のiPhoneと絡み合う。
「それにね、これ凄いんだよ。最新の『指紋認証機能』まで付いているんだよ」
「へぇ、まるでiPhoneみたいだな」
翔一郎は、おもわず自分のポケットに目を配った。
「盗難防止なんだってさ。万が一、マスターキーを盗まれても、本人じゃないとエンジン掛けれないんだって」
「なるほど」と、感嘆の声を上げるアラフォー手前の新米亭主。
「日進月歩。時代は常に進化してるんだな。たしかに何かと便利な機能だ。食わず嫌いは止めて、俺もしっかり時代に付いて行かないとな」
「そういうことだよ、オ・ニ・イ・さんっ」
真琴が桃色の笑顔を浮かべて微笑む。
そんな新妻の顔を見て「そうか」と納得する昭和の兄貴。そして彼は、右足でブレーキペダルを踏み込みながら、指先でおもむろに桃色のボタンを押した。
「ん。あれ、エンジン掛かんないぞ」
翔一郎は「いきなり整備不良か」と首をかしげた。
「違うよ翔兄ぃ」
助手席の真琴が「うふふ、実はね」と照れ笑いを浮かべる。
「実は?」
じゃじゃ馬姫は、ポリポリとポニーテールの付け根を掻き毟った。
「えへへ、ボクの指紋で登録しちゃった」
(つづく)