カルキ
「彩子、ほかの男と付き合いだしたみたい」
近藤は僕に向かって言った。
突然のタイミングだった。
僕は塩素の味が強くて生ぬるい水道水をグラウンドの隅にある部室棟前の蛇口からごくごくと飲んでいた。
夏休みの定期練習で、2年の僕らは秋の大会に向け、3年の抜けた穴を埋めようと必死になっていた。
もう3時過ぎだというのに、太陽の光は相変わらず殺人的で、体内から水分という水分をもうこれでもかというほど搾り取っていった。
埃と汗でべたべたになった練習着は着ているだけで気持ちが悪く、さっきの練習で接触し、吹き飛ばされたときに出来た右ひざの擦り傷がきりきりと痛んだ。
僕に話しかけてきた近藤は、茶色い髪を肩の下くらいまで伸ばしている。
部活の帰りなのか、制服姿で、バトンを二本片手に握っていた。
たしかダンス部は大会が近い。
毎日グラウンドには昇降口のガラス前で練習するダンス部のバックミュージックがBGMのように響いていた。
近藤は彩と一番仲のいい女の子で、よく僕とも話をする仲だ。
だったが、しかし夏休みに入り、ぼくと彩が別れたあとで口をきいたのはこの時が初めてだった。
僕は少しばつの悪い様子でグランドの様子を確かめて、まだ練習が再開されていないことを確認してから近藤に向かって口を開いた。
グラウンドでは休憩時間なのにもかかわらず四.五人がボールをけり続けている。
「そっか」
僕はそうとだけ言った。
僕の隣で同じように水を飲んでいたフォアードで1年の水田は、僕のほうを少し振り向いただけで部室の方へ歩いていった。
「何その気の抜けた返事。それはどういうリアクションなの?」
近藤は腕を組みながら片足を伸ばした姿勢で僕の反応をうかがっていた。
しかたなく僕は近藤に聞いた。
「誰と?」
「誰か気になる?」
近藤は笑みを浮かべることもなく、僕に顔を近づけてきた。
そして名前を言った。その名前は僕も知っているクラスの男子で、たしか卓球部だかバトミントン部だったはずだ。
しかし、僕はその男が彩子と話をしているところも見たことがなかった。
「ショック?」
近藤は単刀直入にそう聞いた。
近藤は思っていることをはっきりそのまま口に出す。
それが時に心温かいが、時につらい。
近藤は気の強い性格で、目立ちもはっきりしていて、大きな目で見つめられると思わずはっとしてしまうことがある。
僕はあわてて視線を逸らし、タオルで頭を拭きながらスパイクを脱ぎ、さっき出来た右ひざの擦り傷を水道水で洗い始めた。血はさほど流れていなかったが、思った以上にしみた。
「聞いてうれしいことではないかも」
僕は言った。
「別れて1ヶ月近くたつのに?」
近藤は質問を重ねてくる。
「うん、だからなんか、ね。たぶん別れた直後とかだったら本当に聞きたくもないだろうけど、もう日にちもたったし、彩子のこと考えるとそれでもいいのかなって」
「相変わらず、だね」
近藤はため息をついてそう言った。
「相変わらず?」
「相変わらずだよ。そうやって自分の正直な気持言わないんだから。全然わかってない。」
僕は蛇口を閉めて、スパイクを履きなおし、ソックスを上げてすね当ての位置を調整した。そして近藤のほうを向いて言った。
「正直に、あまり聞きたくなかったな。俺はふられたわけだし、彩子のこと嫌いになってなんかないし、むしろ今でも好きだからね」
「嘘だよ」近藤は言った。
嘘?
僕は虚を突かれてぽかんとした表情をしていた。
「だからアタシが今言ったこと全部嘘」
近藤の言っていることをよく理解できなかった僕は黙ったまま近藤のほうを見つめていた。
「どっきり。どんな反応するか見たかったの」
近藤はそう言った。
そしてさっき彩子が付き合っている相手として名前を挙げた僕の友人のことも、全く関係ないと言った。
僕は怒るどころか、ただ、近藤の理解不能な行動に反応が出来なかった。
「彩子はまだ誰とも付き合ってないよ」
近藤はそう言った。
僕は彩子に別れ話を切り出された公園のことを思い出していた。
1ヶ月前の木曜日。部活が終わってケータイのメールで呼び出された公園。あの時もやっぱり暑くて、日が暮れたあと特有のじっとりとした空気の感触がまだ鮮明に思い出せた。別れ話を出されたとき、やっぱり僕はすぐに反応が出来なかった。
そう、あの時も僕はまぬけな受け応えをしていた。僕はいつもすこしたってから現実の認識をする。そして後悔をする。
ふと気付くとグラウンドには顧問が現れ、センタリングの練習が始まろうとしていた。僕はタオルを蛇口にかけ、スパイクの紐を結びなおしてグラウンドに歩みだした。近藤は僕を笑顔で見送っている。僕は近藤に振り返って言った。
「そのことも」
グラウンドに声が響き始める。
「あまり聞きたくなかったな」
そう言うと近藤の笑顔は消えた。
太陽は相変わらず殺人的だ。
顧問の吹いたホイッスルがグラウンド中に響き渡った。