今日のローレライたん
ぱしゃん
水面をたたく音が響く。
ライン川のほとりに、一人の少女が座っていた。
そんな少女の視界に、観光客をわんさと乗せたライン川下りの船が映る。
少女は、手元にあった小石を川に投げ込んだ。
再び水音が耳を打つ。
「る~♪ ららる~♪」
その姿に似つかわしくなく、喉を震わすのは極上の調べ。だが、少女の顔に浮かぶのは、苛立ちだけだった。
「ら~♪ るら~♪」
船に乗った観光客は、岩山を指さしたりカメラを向けたりしながら、楽しそうにしている。少女のことなど気付いてもいないのだろう。
そのまま遠ざかっていく船を見送った少女は、手近な石を掴みあげ、乱暴な仕草で川に向かって、大きくふりかぶる。
「ちょ、タンマ、タンマ」
その手を後ろから掴みあげる青年がいた。
「離せ!」
「いやいや、それ、マジで危ないから。被害受けるのはむしろ、お魚さんだけですよ?」
「そのようなこと、お前に言われんでも分かっておるわ!」
激しくジタバタともがくが、少女と青年、体格の差はいかんともしがたく、最終的に石は取り上げられてしまった。
「アイン! 最近のお前は妾に対して敬意がまるで足りておらぬ!」
見上げるように怒鳴られて、青年はまじまじと少女を見下ろした。
小学校に上がったばかりと言われてもおかしくないその姿に敬意を表せと言われても。……美少女なのは認めるが。
「ご自分の姿を川面に映してから同じことを言って欲しいもんです。あと、いいかげん僕の名前をちゃんと呼んでくださいよ。ヨハンって。一番目なんて、単なる番号じゃないですか」
「うるさい。お前が妾に気づいた一番目なのだから、仕方ないであろう」
「つまり、僕の後継ができれば、ツヴァイになるわけですか?」
「確認するまでもない。無論じゃ」
果たして、第一番目は栄誉と考えてもよいのだろうか。これから何番目まで続くか分からないけれど。
青年、ヨハンは気持ちを切り替えるために、ひとつ、溜息を落とした。
「とりあえず、戻りましょうよ」
「いやじゃ」
「歌ってたって、どうせ誰も聞いていないんでしょう?」
「ぐ……」
押し黙った少女は、悔しそうにうつむいた。かと思えば、手をバタバタと振り回し始める。
「最近の舟は生意気なのじゃ! やたらとゴテゴテと機械仕掛けにしおって! エンジンの音で妾の声も届かぬし、あやつら無駄に頑丈ときておる!」
「はいはい」
いつもの癇癪が始まった、とヨハンは適当に少女の頭を撫でる。
「アイン! そんなに気軽に妾に触れるでないわ! 妾はローレライ! ライン川を行き交う舟を沈めるものぞ!」
「最近、沈めてませんよね」
「ぐ」
「まぁ、沈められても、僕の仕事柄、困るんですけど」
「そのようなこと、妾は知らぬ!」
「そもそも前に沈めたのっていつでしたっけ?」
「ふ、ふふふふ、聞いて驚け、75日前じゃ!」
「あーそうでした。酔っ払ったバカなオッサンが救命用ボートでおおはしゃぎしてたのを沈めたんですよね」
「……」
押し黙ってしまった少女、ローレライを、ヨハンがよしよしと撫でる。
「とりあえず、センターに戻りませんか?」
「いやじゃ」
「センター長が、さっき買い物に抜け出して、リッタースポーツ買い込んでましたよ」
「……戻ってやらんでもない」
チョコレートにほいほいつられるのが、あのローレライだと言われても、正直ヨハンには納得しかねる。
機嫌を少しだけ直した少女を連れて、彼は職場へ戻る道をたどった。
ローレライ。
ドイツのライン川流域の町ザンクト・ゴアールスハウゼン近くにある、水面から130mほど突き出た岩山のことである。
この岩山は、ライン川の中で一番狭いところにあるため、流れも速く、また、水面下に多くの岩が潜んでいることもあって、かつては航行中の多くの舟が事故を起こした。この「ローレライ付近は航行の難所である」ことが、「岩山にたたずむ美しい少女が船頭を魅惑し、舟が川の渦の中に飲み込まれてしまう」という伝説に転じ、ローレライ伝説が生まれたという。
無事に、少女を職場、ローレライセンターに連れ戻した青年ヨハンは、パソコン画面に表示されたWikipediaの情報をもう一度読み直し、ちらりと少女を見遣った。孫にお菓子をあげるがごとくホクホク顔のセンター長の隣で、嬉しそうにチョコのパッケージを開けているのが、この伝説の張本人だとは誰も思うまい。
本人いわく、川幅が人工的に広げられてしまったり、造船技術の向上によってなかなか船が沈まなくなってしまったのだとか。ライン川の観光を生業としている身としては、とてもありがたい話だ。
このセンターに就職してから僅か2年で、まさかローレライ本人と遭遇するとは思わなかった。単に迷子を保護しただけのはずだったのだが。
「のぉ、アイン! センター長からこんなにチョコをもらったぞ」
「あー、良かったですね」
何故かこの少女をローレライだと信じて納得したセンター長から「ローレライ係」なる役職まで頂戴してしまった。
正直、さっぱりわけがわからない。
「のぉ、アイン。明日こそ妾は舟を沈めてみせるぞ」
「あーはい。できるといいですね」
まぁ、無人の舟を沈めるとか、前述の酔っ払いのように自業自得な人間を巻き込む程度なら、と適当に相槌を打ったら、何故か烈火のごとく怒られた。
「本気にしておらぬな! 妾の沈めた舟は、それこそ、よん―――」
「タンマ! それはさすがにタンマ!」
慌てて少女の口を押えたヨハンは、ちらりとセンター長の座る机に視線を走らせた。どうやら、こちらの会話には気づいていないらしい。
「前に最初に沈めた話をセンター長にしたときのことを忘れたんですか。パンフレットの記載変えるってんで、大騒ぎになったでしょうが」
「そんなもの、別に妾には関係ないではないか。むしろ、妾の偉業を褒め称えることに何か問題でもあるというのか?」
問題はない。
だが、あちこち印刷所を駆けずりまわった下っ端の自分のことも考えて欲しい。
「分かりました。今後、そういう話をセンター長に言わないでくれるのなら、今度のクリスマスにでもシュトーレン買って来ます」
「本当か!」
ローレライ買収完了。きらきらと目を輝かせる少女を前に、ヨハンは心の中でガッツポーズをした。
「えぇ、本当ですとも。だから、そういう自慢話はセンター長に話さないでください」
「うむ、ならばアインに話そうぞ!」
少女は嬉々として、これまで沈めた舟の数やら、沈めた舟から脱出した人々が慌てふためいて岸に泳ぐさまを語り始めた。自らの引き起こした水難を嬉々として語る姿は、確かにローレライと言って差し支えないのだが。
「? どうしたアイン?」
舟を思うように沈めないことで、徐々に外見年齢が幼くなっていってしまったという彼女は、この先も、まだ、こうして存在していられるのだろうか。
「いいえ、なんでもありません。続きをどうぞ」
「うむ! アイン、耳をかっぽじってしかと聞くのじゃぞ」
この先まだまだ存在し続けるだろう少女に「一番目」と呼ばれるのは、意外と光栄なことなのかもしれない。自分の名前を呼ばれることを諦めるのは悔しいけれど。
なんだかんだと、ローレライ係を拝命してしまった自分も毒されているな、とセンター長のことを笑えない自分に気が付いたヨハンは、苦笑して少女の頭を撫でた。