イブに消える
車の問題
美羅々は夢路が消えたときの状況をくわしく話して聞かせた。美乃地はよゆうの表情でうんうんとうなずいている。美羅々は話しながら兄をちょっと憎らしく思った。
「みごとな探偵ぶりだよ」
「ちょっと。わたしのこと、ばかにしてるわけ?」
「まさか。マジでほめたんだ。特にギアとシートの問題に気づいたのは大したもんだ。夢路さんが消えたトリックをこれで解明できる」
美乃地はかべのラックに並べてあった小さな車のおもちゃをふたつ持ち出してきた。手のひらサイズのかわいい車。ゼンマイで動き、たしか〝チョロQ〟とかいうシリーズのミニカ―だ。
「じゃあ、お兄ちゃんにはもうわかってるわけ?」
美乃地は二台のチョロQをテーブルの上に置いた。
「こっちが夢路さんが最初に乗ってきた車。もう一台は駐車場のすみでヘッドライトを消して体育館のエントランス、つまり、美羅々たちがいる場所に対して、横向きに待機している。二台とも同じ車種であれば都合いいけど、似たフォルムとカラーであればかまわない。どうせ美羅々も美瑠璃も車にはくわしくないだろうし」
美乃地は一台のチョロQを動かした。
「夢路さんは最初は自分のとはべつな車でおまえたちの前に現れた。そして忘れ物を口実にいったん引き返す」
美乃地の手にあるチョロQはUターンの動きをして、もう一台の横に隠れるように並んだ。
「待機しているもう一台には共犯者が乗っている。共犯者は夢路さんよりずっと機敏なやつだ。たぶん男だろうけど。夢路さんの車はその向こう、つまり、おまえたちの目から隠れる位置に止まり、ヘッドライトを消す。と、同時にもう一台がライトをつけて入れ替わりのように動きだす。二度目のUターンをしておまえたちのほうへ戻ってきたのは共犯者が運転するほんとうの夢路さんの車だ。そしてとちゅうでギァをニュートラルにしてドアを半開きにし、体を車体にこすりつけるようにしながら外へ抜け出す。反動でドアは閉まる。惰性で車はそのまま、おまえたちがいるエントランス目がけて進みつづけるってわけだ」
美羅々はあのとき見た光景が美乃地の説明と矛盾しないかどうかを考えていた。たしかに車の動きはライトの光だけでしか確認できていない。闇と雪に閉ざされ、車体や人の姿はよく見えなかった。
「共犯者は走って引き返し、夢路さんと合流。ヘッドライトはとりあえず消したままで駐車場を脱出する。これで人間消失事件は完了だ」
「じゃあ、この事件は夢路さん自身が仕組んだってこと?」
美乃地は首をかしげた。
「それは疑問だな。むしろ、ストーリーを作っている人間にうまく利用されたって考えるほうが妥当だろう。計画を立てたのは共犯者のほうかもしれない。シートの位置から考えれば夢路さんとあまり変わりないくらい小柄なやつが共犯」
美瑠璃がこわい目で兄を見た。
「あの、オバはんはこのあとどうなるの?」
「危険だと思う。事件を仕組んだ人間、もはや犯人と呼んでもいいと思うけど、犯人のほんとうのねらいは夢路さんの可能性がある。もしかしたら命の危険がせまってるかもしれない」
「どうしよう」
「たぶん、最近夢路さんの車と同じか、よく似た車種の車が盗まれてると思う。レンタカーを事件に使ったとは思えないしね。だれだっけ、なんとかさんとかいう女性刑事に言って、最近の盗難車について調べてもらったら?」
盗難車と聞いて、美羅々はZのおやじから聞いたことを思い出した。幸次は二年前の冬に自動車窃盗事件を起こしている。かれは無免許だが運転の知識はあった。
夢路と行動をともにしているのは幸次ではないだろうか。かれは小柄だ。美乃地の推理が正しいとすれば幸次は夢路の命をねらっている?
でも、なぜ?
美羅々が考え込んでいると、美瑠璃のスマホが着信を知らせた。
しばらく話してから美瑠璃が言った。
「亮介たち、さっそくZのおやじから幸次が写った写真借りて、ゆくえを調べてるって」
美羅々は何もできないでいる自分を歯がゆく感じた。
津紀子のなぞ
美瑠璃は朝から亮介たちと行動をともにしている。
美羅々はひとり学校へ行くや、父に呼び出された。
〝ホーンテッドマンション〟と呼ばれる築九十年の学園本部にある理事室を訪れた。レンガ造りの西洋館で、大学の映画サークルが自主製作ホラーのロケに使って以来こう呼ばれている。
理事長室には父のほかに津紀子がいた。
「いま、水島くんから事情を聞いたところだ」
津紀子は深々と頭を下げた。
「もうしわけございませんでした。友人からの頼みを断りきれなくて、学園にもごめいわくをかけてしまいました」
そして、ひと呼吸置いて言った。
「本日中に辞表を提出いたします」
美羅々は父と津紀子とが打ち合わせどおりの演技をしているような気がした。
清太郎は首を横に振った。
「この問題はあくまでプライベートなことだ。辞職するのは行きすぎだと思う。だから、これまでどおり勤務をつづけてもらいたい」
津紀子は一礼すると出て行った。
父は美羅々に言った。
「これで気がすんだだろう。もう、探偵ごっこはおわりにしなさい」
父の意図がはっきりした。
美羅々を納得させるために仕組まれた芝居。父をそそのかしたのは津紀子のほうだろう。
これ以上、父親と話をしたくなかった。
無言で理事長室を出た。黒光りするヒノキづくりの床を踏んで、階段を降りかけたとき、窓からの逆光を受け、踊り場にたたずむ長身が目に映った。
津紀子は明らかに美羅々を待ち受けていた。
「あなたにもいろいろ誤解させてしまったみたいで、ごめんなさいね」
「わたし、誤解なんかしてません。あなたはあの場にいたんでしょ?」
「あの場って?」
「わたしと妹が占いを受けに行ったとき。ヌウのそばにいたのは水島さんですよね」
津紀子は何も答えず、さめたまなざしで美羅々を見つめ返してきた。
美羅々はさらに追及した。
「都筑麻由子を知ってるんでしょ」
「ええ。存じてるわよ」
肩すかしをくらった思いで逆にめんくらってしまった。
「かわいらしいけど、とても気の毒なお嬢さんね。若いのに信じられないくらいつらい目に会ってきたらしいわ」
「麻由子はいまどこにいるんですか」
津紀子の瞳がいたずらっぽく輝いた。
「会いたい?」
「もちろん」
そう答えて、しまった、と思った。このままでは相手の術中にはまってしまうかもしれない。
「会わせてあげましょうか」
津紀子のペースに巻き込まれてはいけない、と思いつつも、うなずいていた。
「あなたひとりなら会わせてあげてもいいわ。あなたの電話番号を教えて。あとで連絡するから」
結局、言われるままにしてしまった。津紀子には人を思うまま動かすオーラのようなものがあるのかもしれない。
スーツの長い腕に肩をつかまれていた。
「もしかしてわたしがこわい?」
美羅々はあとずさろうとしたが、津紀子の力は意外なほど強い。
「だいじょうぶよ。わたしはいつだって弱いものの味方だから」
美羅々は精一杯強がってみせた。
「わたしは弱くないわ」
「なら、勇気をもって行動することね」
津紀子は踵を返し、階段を降りていった。
美羅々が教室へ戻ると、雰囲気の異変に気づいた。男子たちのうす笑い。女子は眉をひそめて美羅々を盗み見る。ひややかな悪意が教室内に感じられる。
美羅々はとまどいつつ席に着いた。ふだんよく会話をする女の子が耳打ちしてくれた。
サイトの掲示板に美羅々のことが書き込まれている、と。
つぎの休み時間にトイレの個室でスマホからそのサイトにアクセスしてみた。美羅々が街の少年グループに輪姦され、リーダーの女になった、と、ある。学校はY越市のK学院、美羅々の名はM羅々となっているが、彼女を知る者にはすぐだれだか知れてしまう。アップした日時はゆうべ、真夜中だ。
胸の奥をスプーンでぐしゃぐしゃにかきまわされる思いがした。
だれがこんなことを?
津紀子か?
だれか自分に深い悪意を抱き、美羅々をめぐる人間関係にもくわしい人物。
ふと、麻由子の顔が浮かんだ。まさか、あの子が?
そんなこと信じたくない。でも、可能性はいちばん強いかもしれない。
なぜ、なぜ、わたしは麻由子からそんなにきらわれちゃったんだろう。
悲しい貯金箱。
美羅々の心は深い思考の底へと沈み込んでいった。
「それはおまえの動きをじゃましようとしているんだな」
美羅々から打ち明けられた美乃地はそう言った。
「とりあえず、サイトの管理人におれから削除依頼を出しておいてやるよ」
なんだか、兄がとても頼もしく思えてきた。
美乃地は何か取り出してみせた。細いコードつきのボタン電池のようなもの。
「こんどはこれがおやじの部屋から見つかった。前のより小型で高性能の盗聴器だ」
「お兄ちゃん、パパの部屋に忍び込んだの? なんでそこに盗聴器があるってわかったの?」
「そんなに驚くな。おまえと美瑠璃の部屋も同時に調べさせてもらったんだから」
なんてこと!
兄を尊敬しかけた気もちはふっ飛んだ。
だが、つぎの言葉が美羅々をさらに驚かせた。
「おやじこそが津紀子のターゲットらしいな」
「どういうこと? パパと津紀子さんとの間にどんな関係があるの?」
美乃地は頭のうしろで手を組んだ。
「それがわかれば事件の真相はあきらかになると思う。ところでどうするんだ。津紀子の誘いに飛び込むのか」
美羅々はまだ迷っていたが、決意を込めて答えた。
「うん。少なくとも麻由子の居場所をあの人が知っているのはたしかだと思う」
「罠かもしれないぞ」
美羅々はむりに笑顔を作ってみせた。
「罠へ飛び込んだら、わたしどうなると思う?」
美乃地はあごに手を当てた。
「まさか、命まではねらわれないとは思うけど、何かおそろしいことの目撃者に仕立てられてしまうかもな」
美羅々は津紀子の挑戦的な態度を思い起こした。あの美しいけどひややかでいじわるそうな顔つきが憎く思えてくる。小さな怒りが勇気をかきたてた。
「わたし、行くわ。麻由子にもう一度会って、すべてを聞き出したいの」
美乃地は苦笑まじりにつぶやいた。
「おまえも強くなったなあ。美瑠璃は連れていかないのか」
美羅々はちょっと考えた。美瑠璃がいっしょのほうが心強いのはたしかだ。でも、津紀子は美羅々ひとりなら、という条件をつけてきた。
「やっぱり、わたしひとりで行く」
美乃地は真顔になった。
「危険だな。美瑠璃にあとをつけさせろよ。打ち合わせしたほうがいい」
「わかった。ありがとう」
兄の部屋を出て、忠告のとおり、美瑠璃に電話しようとしたとき、先にスマホが着信を知らせた。相手の番号は非通知。おそるおそる出てみたら津紀子だった。
『これから出られる?』
先手を取られた気がしている。
「ちょっとしたくに時間かかるかも。いま、どこにいるんですか」
『したくなんかいらないわ。あなたの家の前にいるから。すぐ出てきてくれなきゃ、この話は無しよ』
危険なドライブ
津紀子は有無を言わせない口調で、美羅々はあせっていた。
「わかったわ。すぐ行く」
そう答えてしまった。急いでダウンジャケットにそでを通し、スマホだけポケットに突っ込んだ。美乃地には知らせておこうと思う。
話を聞いて美乃地の表情はくもった。
「まずいな。行かないほうがいいかも。話が急すぎる」
「でも、もう外にいるって。わたし、このチャンスをのがしたくないの」
「しかたない。スマホの電源だけは何があっても切るなよ」
美乃地は立ち上がり、カーテンのすきまから外をのぞいた。美羅々の目にもへいのわきに止まるセダンタイプの白い車が見える。美乃地は伸びあがるようにしてケータイをかまえ、車の画像を撮影していた。
「ここからじゃ、ナンバーまで写らない。美羅々、車に乗る前にナンバーをこっそり知らせてくれないか。なんかあればすぐ警察に通報してやるから」
「わかった」
運転席には津紀子がいた。ひとりだ。車に背後から近づき、ナンバーを確認、スマホで美乃地を呼び出し、すばやく数字だけ告げた。
『おれが見ているってことを津紀子にわからせろ』
美羅々は家の窓を見た。二階の窓ではカーテンを全開し美乃地がこちらを見下ろしている。
「乗って」
津紀子に声をかけられ、となりに乗り込むとき、わざとつぶやいてみせた。
「お兄ちゃんたら、わたしのこと心配みたい」
津紀子は窓のほうを見ようとさえしなかった。
「なかのいい兄妹なのね。うらやましいわ」
「津紀子さんはきょうだいとかいないんですか」
「わたしはひとりぽっちよ。ずっとむかしから」
空はまた雪になりそうな気配だ。美羅々はポケットの上からスマホにふれてみた。このうすっぺらなツールがお守り代わりの気がしてくる。
車はすでに走り出していた。
「麻由子はどこにいるんですか」
津紀子の横顔にうっすら笑みが浮かんだ。
「いま向かっているんだから、わざわざきかなくてもいいんじゃない?」
声にカミソリの刃のようなつめたいひびきがある。津紀子がいよいよ素顔の断面を見せ始めた、そんな気がした。
「夢路さんもいっしょにいるんですか」
「さあ、どうかしら」
車は市街地をしだいにはなれ、郊外へと向かっているようだ。
美羅々は心細くなってきて、弱気をまぎらわすためにも何かしゃべっていたかった。
「なぜ、わたしを麻由子に会わせようとしてくれるの?」
前方の信号が黄色に変わった。
津紀子は正確な動作でブレーキを踏み、車はなめらかに停止した。
「あなたは目撃者になるのよ」
津紀子の口調は美羅々をおびやかして楽しんでいるかのようだ。
「あなたは二年前に麻由子失踪の目撃者になった。そしてこんどは夢路さんの失踪も見た。つぎも目撃者になるようあなたは運命づけられているの」
それがストーリーなわけ?
これはぜんぶあなたが仕組んだことなの?
「あなたはほんとうはだれなんですか。なぜ、この街へやって来たの?」
津紀子はあごを上向かせ楽しそうに笑った。
「わたしはわたし。ほかのだれでもないわ。なぜ、この街へ来たか、ですって? それはあなたのお父さまに採用されたからよ」
わたしをからかわないで、と言ってやりたかった。
車は国道を走り西へ向かっているようだ。車道の雪は溶け、車の流れはスムーズだが、路肩には残り雪が凍りついて低い氷壁と化している。これから陽がかたむけば冷え込みはいちだんときびしくなりそうだ。
ドライブインやパチンコ店、ガソリンスタンドが立ちならぶ地方の国道特有の風景は絶え、畑や田んぼがふえてきた。車は温泉地の看板が立つ小道へ左折した。このままだと山のほうへ行ってしまう。
とちゅうでパトカーとすれちがった。美羅々はすれちがいざまにパトカーをじっと目で追いかけてしまった。津紀子がそのようすに気づいたのか、からかう口調で言った。
「わたしなにか悪いことしたかしら? べつにあなたを拉致したわけじゃないわよ。あなたに危害をくわえるつもりもないし。何をびくびくしてるの?」
「びくびくなんかしてません」
美羅々は意地になって言い返した。
「いま悪いことしてないって言いましたけど、人の家を盗聴するのは悪いことじゃないんですか」
「盗聴? なんのことかしら。わからないわ」
「とぼけないで。リビングと父の部屋にしかけたでしょっ。兄が見つけたんですっ」
「あなたのお兄さんって探偵ごっこがすきなんじゃない?」
車は山あいのゆるやかな道を登って行く。とうとう雪が舞い始めた。まだ夕暮れまでは間があるのに、雪ぐもに日ざしをさえぎられ、あたりは暗くなってきた。この道は除雪がじゅうぶんでなく、車のわだちが残る路面は凍りつき、スタッドレスタイヤが氷雪をかむ音が耳にうるさい。人家はまばらだ。
美羅々はそっとスマホを取り出しディスプレーをぬすみ見た。電波はまだしっかり届いていて、安心した。とつぜん車が大きくゆれた。目の前の風景がいきおいよく反転する。そのはずみでスマホが手をはなれ、シートの下へすべりこんでしまった。
津紀子がハンドルを動かし、車はようやく安定した。
「ごめんなさい。スリップしちゃって」
津紀子は言い訳がましく言った。美羅々はシートの下をのぞきこんだ。スマホに手を伸ばしたがシートベルトがじゃまをしてあとわずか届かない。
「あぶないから動かないで。またスリップするかもしれないから」
美羅々は津紀子の横顔を見た。言葉と裏腹に落ち着きはらった表情だ。さきほどのスリップはわざとやったことではないか、と思った。美羅々の手からスマホをうばうために……。美羅々はシートベルトに手をかけた。その手は津紀子に押しとどめられた。
「だいじょうぶよ。スマホは消えてなくなりやしないから」
津紀子の口調にはうむを言わせない強引なものがある。
美羅々の目にこの女性が魔女のように見えてきた。
着信を告げるメロディが足もとから聞こえてきた。美羅々は救いを求めるようにシートの下をのぞき込んだ。着メロがとまったとき、見はなされたような孤独をおぼえた。
山のあいまのゆるいカーブを抜けると、雪になかばうもれたビニールハウスが見え、その先にさらに山へとつづく細い道がある。細い道にはひざがうずもれるほどの雪が残っている。
津紀子はその手前で車を止めた。
「下りて」
美羅々はチャンス、とスマホに手をのばしたが、津紀子にすばやくさらわれてしまった。
「返してください」
津紀子はスマホの電源を勝手に切ってしまった。
美羅々は自分の心臓を止められたような気がした。
「スマホは車に残していきなさい。ここから先では必要ないから」
津紀子は美羅々のスマホを後部へほうってしまい、そのあとうしろのトランクルームのフードを上げた。美羅々はその中のものを見て息がつまりそうなほど驚いた。つめたいトランクの中に体を丸めてうずくまっていたのは夢路だった。
「さあ、起きて。これからしばらく歩いてもらうわ」
津紀子に手助けされ、夢路がのろのろトランクからはいでてきた。この人が自分といっしょにこの車に乗っていたなんて。美羅々には想定外のできごとだ。
夢路はねぼけているかのようにトロンとした顔つきで足もともおぼつかない。大柄な津紀子に腕をかかえられ、ブーツで雪をふんだ。白いコートも消えたときそのままの姿だ。美乃地の推理どおりだとすれば夢路は自分の意思で消えたはずなのになぜここに?
美羅々は白い息をはきながらあたりを見まわした。道路には一台の車も通らず、雪の舞う山あいの光景はグレー一色の世界でモノクロ写真の中へまぎれこんでしまったようだった。
五十メートルほど先に木造の建物が見える。三角屋根の上に十字架が乗っている。教会らしい。三人はその教会めざして黙々と進んだ。教会はいまはもう使われていないようで、荒れはてていた。ペンキのはがれたた板かべがささくれだっている。
どうしてこんな場所に教会があるのかふしぎだった。
朽ちかけたとびらが開き、中から人が現れた。
美羅々はハッとして足を止めてしまった。
出てきたのは幸次だった。幸次は津紀子を手伝い夢路の腕に手をそえた。
美羅々はこれから起こることへの不安を払拭しようと声を上げた。
「夢路さんに何をしたの? この人をどうするつもりなの。幸次くん、教えて」
幸次がこちらを見て歯をむき出した。
「やあ、麻由子のあとばっか追いまわす探偵さん。亮介の女になったのとちがう? あいつとは、やりまくってるの?」
美羅々はこの瞬間に理解した。サイトに美羅々への中傷を書きこんだのは幸次だ。ニット帽の下の顔を見つめ返した。細くひいでた眉と少女のような目もとがいま邪悪な感情にゆがんでいた。この顔にメークをほどこしたなら……。
フォーチュンハウスで見たヴェールの下の顔。見知らぬ少女でありながらどこかで見たような顔。
あれは女装した幸次だった……。
もちろん催涙スプレーで美瑠璃を襲ったのも幸次にちがいない。
Zで騒ぐ学生たちに幸次がキレたことがあったけど、あれは美羅々たちの話を盗み聞きするのをじゃまされたからだろう。
歩くあいだに夢路は意識がはっきりしてきたらしい。
「ああ、幸ちゃん。あたしのこと助けに来てくれたのね。うれしい」
そして横に津紀子がいることに気づくと悲鳴を上げた。
「あなた、なに? わたしに変な薬のませたでしょっ」
幸次も津紀子もあとはいっさい無言だった。
美羅々はこれから展開するだろうストーリーを変えるにはどうすればいいのか考えていた。
幸次が夢路を引きずるようにして教会の入り口をくぐった。美羅々も津紀子に背中を押され、しかたなく足をふみ入れる。
さほど広くはない屋内の正面はかつて祭壇があったらしいステージになっている。ステンドグラスがあったとおぼしき窓はいまは板でふさがれている。すきまからもれる光の中に麻由子がいた。公園に現れたときと同じ黒いコートに黒の帽子。わずかな光のたまりにうずくまっている。その姿は翼を広げて飛び立つ瞬間を待つ堕天使に見えた。
堕天使がほほ笑んだ。
死のカード
「麻由ちゃん」
夢路は麻由子に向かって一歩ふみ出し、芝居じみた仕草で両手をさしのべた。
麻由子は母親を見ても身動きひとつしない。
夢路は表情を凍りつかせ、とがった声を出した。
「どうして? 麻由ちゃん、どうしてそんな目でわたしを見るの? どんなにあなたに会いたかったか。いまだってあなたのこと抱きしめたい気もちでいっぱいなのよ」
麻由子はうす笑いのまま、言った。
「だったらなぜ、あんたのほうからかけ寄ってきて、あたしを抱きしめないの?」
夢路はぼうぜんとしている。言われた言葉の意味をとらえかねているようすだった。
「この姿勢でいるあたしを抱きしめたら、コートのすそがよごれちゃうからでしょ。ちがう?」
美羅々はなすすべなく母娘を見まもっていた。それは親子の再会というにはほど遠い光景だった。なすすべなさそうなのは幸次も津紀子も同様だ。これは麻由子と夢路のふたり芝居なのであって、あとの三人は観客にすぎないのかもしれない。美羅々はそんな思いにとらわれた。
夢路は眉を寄せた。悲しみを強調しているのか、のどをふるわせ、声を上げた。
「どうして、ママに向かってそんな口をきくの? わたし、こんな安物のコートなんかちっとも惜しくないのよっ」
夢路はいきなりコートをよごれた床へ脱ぎ捨て、ブーツのヒールでふみにじった。何度も何度もふみにじり、白いコートはたちまち黒くよごれた。
「ほら、わかるでしょ、ママの気もちが。こんなものぜんぜんだいじじゃないのよ。わたしには麻由子ちゃんさえいてくれればそれでいいの」
麻由子はうずくまったまま顔をふせた。もう何も見たくない。そう意思表示したようにも思えた。
「麻由子ちゃん、来て」
夢路は涙を流していた。これはだれに向けられた涙なのだろう。
美羅々にはおぼろげながらわかってきた。この涙は麻由子ではなく、夢路が自分自身へ向けた涙だ。
娘に受け入れてもらえないかわいそうな母親。そんな自分の役を演じるための涙。
「もう、やめろっ」
そうさけんだのは幸次だった。
「くさい芝居はやめろよ、おばさん」
夢路の瞳の中で何かが燃え上がったように見えた。きびしいまなざしを幸次へ向けた。
「なんですって? なんで、わたしにそんな口きくの? あなた、これまでわたしをそういう風に呼んだことあった? あなた、自分の恋人をそんな風に呼ぶの?」
「あんたは恋人なんかじゃない。おれの恋人は麻由子だけだ」
そう言いきった幸次の表情はひどく苦しげだった。
夢路はとつぜん笑い声を上げた。そのあと小さなくしゃみをひとつしてコートを拾い上げると肩に羽織った。汚れたコートを肩にした姿はみすぼらしく見えた。
幸次は、大きな空き缶の中で燃える火にかたく丸めた古新聞を突っこんだ。麻由子たちはここでこうやって暖を取っていたらしい。
夢路はいまやふてくされた声で言った。
「そっか。やっぱり幸次くんも麻由子のことだいすきだったんだ。あの男と同じよね。みんな、わたしより麻由子がすきなんだ」
夢路は幸次をにらんだ。
「わたしに内緒で麻由子とずっと連絡を取り合っていたのね」
夢路の声には相手を責め立てて楽しむようにサディスティックなひびきがある。
「幸次くんを救ってあげたのはわたしなんだから、それをわすれないで。そうそう、この教会、あの日もこの近くまで来たわよね。あのとき幸次くんがわたしといっしょに何をしたか、みんなに教えたらどうなるかなあ」
幸次と夢路がしたこと?
美羅々は夢路の口もとをじっと見まもった。はたして事件の核心は語られるだろうか。
幸次の顔は蒼白で麻由子は無表情だった。
夢路はほほ笑みさえ浮かべている。
「このあたりってさ、もう何十年も前のことだけど、神さまを信じる人たちの集団がいてさ、自給自足の村を作ろうとして移り住んだ場所なの。知ってた? 結局村はつぶれちゃったらしいんだけど、この教会はその名残なの。ねえ、幸次くん。わたしたちがやったことって神さまは許してくださるかしら?」
そのとき津紀子が初めて口を開いた。
「そろそろ本題に入ったらどう? 美羅々さんも待ちくたびれてしまうわよ」
何がこれから始まるのか。それをたしかめたいという思いと、これ以上何も見たくないという思いが美羅々の中で葛藤した。
麻由子が立ち上がった。それが合図であったのか、幸次が夢路の背後にまわり込んだ。若い男の力が夢路をねじふせ、ポケットから取り出した粘着テープで両手を後ろ手にしばりあげてしまった。
「あなたたち、わたしをどうするつもりなの! 美羅々、あなたもこの人たちの仲間なの?」
美羅々がちがう、と答えるよりも先に、津紀子の声がした。
「美羅々さんはこれから起こることの目撃者になるのよ。麻由子さんの望みどおりにね」
麻由子の望み?
美羅々は麻由子に向かって言葉を投げた。
「麻由子、教えて。あなたはどんなストーリーを描いているの? わたしに何をしろって言うの? なぜ、わたしを選んだの?」
麻由子の目に怒りに似たものが燃えていた。だが、その底に悲しみがあるのを美羅々は見て取った。
美羅々は相手を見つめ返した。相手を理解しようという意思さえあれば、憎しみにさえひるむ必要はない。
麻由子はゆっくりとした口調で言った。
「あなたを選んだわけはね」
麻由子の瞳をいなずまが走ったように見えた。
「あなたがあの日のわたしを見送ってくれたひとりだからよ」
「あの日?」
麻由子の声がどこか遠いところから聞こえる気がした。
「あたしがあなたのママに車で送ってもらった夜よ」
ああ、やっぱり。あの夜の麻由子の顔。リアウィンドウごしにふり返った顔。
「麻由子。あの日、あなたの家で何があったの?」
麻由子は答える代わりにコートのポケットからカードのたばを取り出した。無表情でシャッフルし、数枚を選び出すと、夢路の前で扇形に広げた。
「すきなカードを選んで」
夢路は手首の自由をうばわれてもなお強気だった。
「何がカードよっ。子どものあそびにつき合ってるひまはないの。早くわたしの手をほどいて、家まで送ってちょうだい。さもないと、警察を呼ぶわよ」
夢路は津紀子にもけわしい顔を向けた。
「あなたはちゃんとしたおとなでしょ。わたしに変な薬飲ませたり、どうして子どもたちのお先棒かつぐのよっ。わたしは幸次くんにさそわれて失踪ごっこしただけだったのに。みんなを驚かして楽しみたかったの!」
やっぱり、幸次と夢路が共謀して車からの消失事件をでっちあげたんだ。お兄ちゃんの推理は当たってた、と美羅々は納得した。
津紀子はひややかに告げた。
「麻由子さんの言うとおりになさい」
麻由子は夢路の眼前にカードを近づけた。
「すきなカードを選んでください。その一枚であなたの運命はきまります」
夢路はヒステリックな声を上げた。
「なんでそんなもので運命がきまるわけ? 麻由子、わたしはあなたのママなのよっ。母親を侮辱するなんてゆるせないっ」
麻由子は顔色ひとつ変えない。
「選んでください」
「いやよっ」
「選びなさい」
麻由子の語気が強まった。
「あなたには選ぶ義務があるのよ」
夢路はくやしそうにくちびるをふるわせたが、かすれた声を出した。
「……右から二番め」
麻由子は言われたカードを裏返した。現れた図柄が美羅々の目にも映った。
馬にまたがる骸骨の騎士。
麻由子の声がカミソリの刃のつめたさを帯びた。
「死神。破壊と再生。あなたの運命はいちどその身を滅することにあります」
夢路は絶叫に似た声を発した。
「なによ、それっ。わたしに死ねってこと?」
麻由子はマニュアルでも読むように変わらぬ声で答えた。
「死ではありません。再生につながる破壊です」
夢路は恐怖にかられたらしく、いやいやをするように首をふった。立ち上がり逃げようとするのを幸次がつかまえた。夢路の顔にはみだれた髪がふりかかり、幸次に向けて言葉をはき散らした。
「よく、わたしにこんなまねができるわねっ。あんなにかわいがってあげたのに。わたしを裏切って麻由子とぐるになっていたのねっ」
夢路はつぎに娘を見すえた。
「これがママに対する仕打ちなのね。あなたはさかりのついたメス犬よっ。わたしのだいじな人をふたりも誘惑して。悪魔の子だわ」
美羅々は夢路の言葉を信じがたい思いで聞いていた。
だいじな人を誘惑? メス犬? 悪魔の子?
それらの言葉を麻由子に否定してほしかった。
だが、麻由子は静かに聞き流しながら、一本のペットボトルを手にしていた。麻由子はキャップをひねる。美羅々は異臭をかぎとった。ボトルの中身は灯油にちがいない。
夢路がさけぶ。
「何をするつもり?」
麻由子はゆがんだ笑いを浮かべた。
麻由子にこんな表情ができるなんて美羅々には信じられなかった。
「これで、あなたの顔を変えてあげるの。炎があなたの罪といっしょに顔を焼きつくすの」
麻由子はペットボトルを手に夢路に近づいた。
いやだあ、いやだあ、と子どものように夢路は泣きさけんだ。
「人殺し、人殺し。あんたたちはみんな人殺しよっ。幸次っ。あんたのこともぜんぶ警察にしゃべってやるから。いくら未成年だって殺人は見のがしてくれないわよっ」
幸次は殺人者だった……?。
美羅々は真相の一端を知った気になった。内装業者が見た染みはやはり血だった。
殺人は夢路の家でおこなわれた? 麻由子はそれにどう関わっているのだろう。
津紀子はすべてを知った上で麻由子に加担しているのか。
美羅々にはいまここにいるだれが真の悪人なのかわからなくなってきた。
麻由子がペットボトルを夢路の眼前でふりあげた。
夢路は悲鳴を上げた。
麻由子の声が静かに流れる。
「いのちまでは取らないわ。顔がじゅうぶん焼けたら火を消してあげる。そしてあなたは新しい顔で生きていくのよ」
だめ、麻由子にそんな残酷なまねさせたくない。
美羅々はとっさに麻由子の手にとびついた。麻由子はあらがい、ふたりはもみあいになった。美羅々はうしろからはがいじめにされた。幸次だ。
「麻由子、やめてっ。人を傷つけたらあなたは警察につかまるのよっ」
「そんなのわかってる。でも、幸次はあたしのために罪を犯してくれた。だから、あたしもその気もちにむくいて罪人になるの」
麻由子の手がペットボトルの液体を夢路の顔や首へふりかけた。鼻をつく灯油のにおいがあたりに広がる。
美羅々は幸次につきとばされた。床にひざを打った痛みをこらえ、美羅々は声をはりあげた。
「わたし、麻由子がこれからすることなんか見たくないっ。なんで? なんで、わたしをこんな目に会わせるわけ?」
つぎに瞬間に麻由子が見せた顔を美羅々はきっとわすれることはできないだろう。どすぐろい膿が麻由子の中からあふれ出したように見えた。
「そ・れ・は・ね、美羅々、あなたのことが大きらいだからよ」
ほおをいきなりたたかれた、そんな思いだった。
「あたしはね、あなたにも傷ついてもらいたいの。あたしと同じように。そして苦しんでもらいたいの」
美羅々は泣き出したいような思いをこらえてきき返した。
「なんで、そんなこと思うわけ?」
麻由子の目が遠くを見やった。
「あたし、助けてほしかったの、あの日。あなたたちのこと友だちだって信じてたから。でも、あなたはママに言って車まで出してあたしを家に送り返そうとした。美瑠璃はちょっとだけかばってくれたけど、美羅々、あなたはちがった。おとなの前でいい子になりたくて、言いなりになってたのよ」
麻由子の声を美羅々はどこか遠くで聞いている気がした。
「あたし、目の前がまっくらになって死にたくなったわ。あたしが心の中でどんなに、美羅々、美瑠璃、助けて、あたしを家に帰さないで、ってさけんでいたか、わからないでしょ? それでも車の中からあなたちに手をふらなきゃいけない自分がとっても悲しかった」
「だったら、なんで、あのとき言葉に出して助けてって言わなかったの? どうして家に帰りたくない理由を話してくれなかったの?」
返ってくる麻由子の声は血とともにほとばしったように聞こえた。
「おとうさんって呼んでる男の人にむりやりセックスの相手をさせられるから、なんて友だちに言えると思う?」
美羅々はどろどろに溶けた熱い鉛を胸の底へ流し込まれた気がした。
放心したようにすわりこむ夢路を問い詰めた。
「麻由子の話って、ほんとうなんですか」
夢路が顔を上げた。ふりかかった灯油のしずくがメークを溶かし、ごみ捨て場に打ち捨てられた人形の
ようにグロテスクに見えた。
「あの人は若い女の子がすきだったのよ。わたしがあんなに尽くしてやったのに、わたしより麻由子を抱くほうがあの人にはよかったのよ」
「それを知っていて止めようとしなかったの?」
夢路の片ほおがゆがんだ。泣いたのか、笑ったのかはわからない。
「わたし、あの人よりも麻由子のほうをゆるせなかった。だって、わたしの男を取られたんだもの。わたしよりこんな子どものほうが魅力的だなんてゆるせなかった。くやしかった」
だから麻由子を守ってあげなかったわけ?
ひどい、ひどすぎる。
美羅々はもう声を出すことさえできなかった。
幸次がたき火が起こる缶の前で立ち上がった。炎の移った新聞紙のつつを手にしている。
「おまえみたいな小娘にやられてたまるか!」
とつぜん、夢路がけものじみた声をはりあげ、麻由子目がけて突進した。
幸次が麻由子を助けようと、体の向きを変えた瞬間、美羅々は幸次の手から新聞紙のトーチをひったくりブーツの底でふみにじった。
幸次は怒りの形相で美羅々につかみかかってきた。
美羅々は床のペットボトルを取り上げ、幸次の顔めがけて中身をほとばしらせた。残っていた灯油が顔にふりかかり、幸次は苦痛のうめきを上げると片目を押さえ、はげしくむせかえっていた。
「幸次、だいじょうぶ!」
麻由子が恋人にかけ寄るのと、美羅々が夢路の肩をつかむのとほぼ同時だった。
このストーリーはわたしが書き直さなきゃいけない。
美羅々は夢路のからだを引きずるように戸口めざしてダッシュした。津紀子が目の前にいる。じゃましようとしたら体当たりをくらわす覚悟で、足を止めなかった。津紀子は阻もうともせず道をあけた。
とびらに肩をぶつけて外へとび出した。夢路は両手の自由をうばわれているので走るバランスが悪そうだ。転んだりしたらおしまいだ。
あたりには夕闇がただよい、雪の白さだけが目につく。美羅々は夢路を手助けしながら道路めざして走った。靴底がひえた雪にすべり、気もちばかりが先に出て腰から下がついてこない。ふり返るよゆうなんかない。追跡者の気配だけがひしひし伝わってくる。
勇気をふるって一度だけ顔をふり向けた。
麻由子が追ってくる。そのうしろを片目を手でおさえたまま幸次がつづく。幸次は灯油のかかった目が痛むのか、足取りはのろく、追跡の態をなしてはいないが、片手に金属製のスコップをにぎりしめている。それがこわかった。
麻由子のさけびがした。
「美羅々! あなたって、あたしのママがどんなにおそろしい人かわかってないのね!」
雪をけり、夢路のひじを引きながら、美羅々は心の中でさけび返していた。
(ちがう。わたしが助けたいのは夢路さんじゃあない。麻由子、あなたなの。あなたに罪を犯させたくないからこうやって逃げてるの!)
津紀子の運転してきた車がすぐ目の前にある。夢路のいましめを解けば、運転させて逃げられる。
ドアを開け、夢路を運転席に押しこめ、自分はとなりにかけ込み、ドアをロックした。
「夢路さん、手を出して」
夢路の手首をしばるテープはたがいにぴったり貼りつき、なかなかはがれない。
麻由子が窓の外にせまる。ドアを開けようとしてはたせず、窓を手でたたき始めた。
幸次が追いつき、ボンネットにとび乗った。
スコップをふりかざす姿がフロントガラスいっぱいに広がる。
夢路の声がひびいた。
「あなた、早くエンジンかけてよ!」
美羅々はとまどった。
(車のエンジンってどうやってかけるんだっけ?)
「そこにキ―が差さってるでしょ! それをまわして!」
となりから夢路のひざごしに身を乗り出し、キーをひねった。エンジン音が鳴りひびくのと、フロントガラスにスコップがたたきつけられたのとほぼ同時だった。目の前一面に白くクモの巣状にひびが生じた。
「早く、ギアをドライブにして! サイドブレーキをはずしてよっ」
(ギアをドライブってどうすればいいの? サイドブレーキってどれよ?)
美羅々はなんとかサイドブレーキを探し当て、解除した。
フロントガラスにつぎの一撃が来た瞬間にギアがドライブに入った。飛散防止用のガラスは飴でできているかのように大きくたわんだ。
夢路の足がアクセルをふみ込んだ。
シートベルトをつけていないふたりのからだは瞬間はね上がりそうになった。
「ハンドルにぎって! あなた、ハンドルにぎって」
言われるまま、夢路のふとももの上に上半身をあずけ、ステアリングをにぎった。
車はすでに走り出している。幸次の姿は視界から消えていた。
(まさか、ふり落としちゃったとか?)
「早くハンドルを右、右」
フロントガラスは視界を保つ役目をはたせず、夢路は横の窓から前方をのぞき見て指示を出してくる。
ステアリングを右へ切ったが加減がわからず、車体はなかば反転してしまう。
「バカッ、切り過ぎ、戻して、戻して」
どなられても、どうしていいのかわからず、ひたすら命じられるまま、ステアリングを動かし続けた。
車ははげしく蛇行し、美羅々は何かにぶつかったような衝撃を感じた。
道ばたの雪をかきよせたかたまりに突っこんでしまったようだ。
「バック、ギアをバックに入れて!」
ルームミラーごしに幸次の姿が見えた。やはりボンネットから落ち、雪の上に転がったらしい。足をひきずりながらも、こっちへ向かってくる。片手にはまだスコップをにぎっていた。
美羅々は恐怖とあせりに襲われ、大声を上げていた。
「バックってどれよっ」
「Rって書いてあるでしょっ」
車は雪のかたまりから脱出し、前進に移ったが、凍った路面をスリップし、坂道を横すべりしはじめた。路面はてらてら輝き、スケートリンクのようになっている。
夢路がアクセルとブレーキを交互にふみ、美羅々は心臓のちぢむ思いでステアリングをあやつった。
なんとか体勢を立て直し、車はまっすぐ進み出した。
ルームミラーをのぞくと幸次の姿がぐんぐん遠ざかっていく。
ひどいけがをしていませんように、と美羅々は祈った。
炎上
教会はあとかたもなく焼け落ちていた。
十二時間前に美羅々が必死にステアリングをあやつり走り抜けた道には警察と消防、マスコミの車が列をなしている。きのうの夕方、美羅々と夢路は蛇行運転とスリップをくりかえしながら奇跡的に国道までたどり着いた。
近くのガソリンスタンドへ車をむりやり止め、店員に助けを求めたのだった。かけつけたパトカーにふたりは保護された。警察署に移され、美羅々はかけつけた父と妹に対面した。
「お姉ちゃん、なんであたしに黙って行っちゃったの? あたしがいくらでも協力したのに」
美乃地は、妹と連絡が取れなくなったことを心配して警察へ通報してくれたらしい。家族がいちはやくかけつけてくれたのもそのおかげのようだ。
父は終始無言だった。事情聴取を受けている最中にあの教会が燃えているとの連絡が現場へ急行した警官からもたらされた。
美羅々はとっさに最悪の事態を想像した。燃える教会の中にあのふたりが……。
警察で事情を聞かれている間に夢路は体の不調を訴え、美羅々もいったん帰宅をゆるされた。
そしてきょう、詳細な見分のため警察の車でここへやって来たのだ。 夢路はそのまま入院してしまったらしい。
警察の話だと遺体らしいものは焼けあとからは発見されてないという。
「これから、あたり一帯の捜索を行います」と、警官は言った。
美羅々は雪の積もる山なみを見渡した。ゆうべは氷点下の寒さだった。麻由子と幸次はそんな中にひそんでいるのだろうか。津紀子もいっしょなのか。わからないことだらけだ。
新たに車が到着した。
副島だった。
なつかしい人に会った気がして美羅々は思わずかけ寄っていた。
「たいへんだったね」
副島といっしょに美瑠璃が降りてきたのを見て驚いた。
「お姉ちゃんのこと、心配だから、乗せてもらってきたんだよ」
美羅々は津紀子のことをきいてみた。
「水島津紀子もきのうからゆくえふめいだ。あの車は借りたものでレンタカー会社を調べて意外なことがわかったよ」
副島は声をひそめた。
「水島津紀子という女性は存在しないかもしれない」
「どういうこと?」
「車を借りるときに提示された免許証のコピーがレンタカー会社に残ってたんだけど、免許証は巧妙に偽造されたものだとわかった。水島津紀子という名前も偽名の可能性が出てきた」
いったいあの人は何者なのだろう?
美羅々はきのうの光景を思い出しぞっとした。
夢路の顔を焼こうという残酷な復讐。それをひややかに見守っていた津紀子。しかも美羅々たちが逃げるのを止めようとはしなかった。行動があまりに不可解だ。
何よりも麻由子が美羅々に向けてきた悪意が心にいまも突き刺さっている。
「剣橋学園にある津紀子の履歴書も刑事課で調べたけど、過去の経歴もでたらめだったらしい」
父がそれを知ったらどう思うだろう。
警察のバスが到着し、警官の姿がふえてきた。全員防寒ウェアに身を固め、これから山へ入るらしかった。
「あっ、マスター」
美瑠璃の声にふり返ると、Zのマスターが警官につきそわれて現れた。
美瑠璃がかけ寄ると、マスターは青ざめた顔で答えた。
「あのばか野郎があんたちをひどい目にあわせたらしいな。すまん」
マスターはため息まじりにつぶやいた。
「あいつが見つかったら、ぶん殴ってやる」
かたわらの警官がつっけんどんなに言った。
「もし見つかっても、相手を刺激するようなことは言わないでくださいよ。少年を落ち着かせるのがあんたの役目なんだから」
マスターは警官に連れられ、山のほうへ去って行った。
雪をふんで山へと向かう警官の集団を見ながら美瑠璃がつぶやいた。
「あいつら、ふたりだけの答えを出すつもりじゃないだろうな」
美羅々は胸を突かれる思いになった。
ふたりはどんな答えを出すつもつなのだろう。
捜索隊の列は雪でそまるふもとの森へと吸いこまれていく。
じっと立っていると冷気が肌にひたひたしみこんでくるようだった。
「あんたたち、いったん帰ったほうがいいよ。風邪ひくよ。あたしが担当者に話しておいてやるから」
副島の好意にふたりとも首をふった。
「お姉ちゃん」
美瑠璃が耳もとでささやいた。
「あたし、おしっこしたい」
美羅々は祈る思いで山を見やっていた。ともかくふたりがぶじに見つかってほしい。
妹にはそっけなく言い返した。
「警察の人に連れていってもらえば?」
「そんなこと頼めるかよ。お姉ちゃん、しゃべってきて」
聞きつけた副島が苦笑しながら車で国道ぞいのコンビニへ連れていってくれた。美瑠璃はトイレへダッシュし、副島が熱いコーヒーをおごってくれた。
「盗難車が見つかったよ」
携帯でだれかと話をしたあと副島が言った。
「夢路さんの車とよく似た車種だって。いま指紋の鑑定作業中。これで幸次の指紋が出れば決まりだけどね」
美乃地の推理が正しかったということか。
そして過去に起きたかもしれない殺人についても兄は正しい推理をしていたのだろうか。そのことを問いかけると、副島は紙コップのコーヒーをにがそうに飲んだ。
「夢路さんの体調回復を待って捜査員が取り調べするだろう。そうなればすべてはっきりしてくる。場合によって夢路さんは被害者から加害者の立場に変わるかもしれない」
美瑠璃が戻ってくると副島は言った。
「さて、どうする? あたしはいちど署に帰るけど」
美羅々はきっぱり答えた。
「わたし、麻由子たちが見つかるまであそこにいます」
「あたしも」
「わかった。また現場まで乗せていってやる」
車の中で美羅々はきいた。
「中学時代、麻由子といっしょに補導された子って、幸次くんだったんですよね?」
「ああ。ふたりは深夜の街で出会った。おたがい孤独を抱える同士はすぐ恋人と呼べる関係になったらしい」
そして幸次は恋人を凌辱した男を殺した……?
美羅々は寒々とした思いにとらわれたが、人の心としてここまでは理解できた。
わからないのは夢路の行動だ。内縁の夫を殺した少年をかばうばかりか、親しくつきあい続け、今回の失踪劇にも進んで加担したその心理。
教会の焼けあと近くに着くと、新たな動きがあったようだ。
美羅々たちは飛び下りるような勢いで車から出た。署に帰るはずの副島も降りてきた。
カメラを持った報道関係者たちがわらわらと走って行く。
山のほうから捜索隊員たちが戻ってくる姿が目についた。
美羅々たちも走り出したが、すぐに警戒中の警官に阻まれた。
「下がって、下がって」
雲の切れ目から陽が差し、雪の照り返しが目に痛いほどだ。
美羅々はひたいに手をかざして雪の原を見やった。目に映ったのは、警官たちに取り囲まれ、重い足取りで歩いてくる幸次の姿だ。背中に人をおぶっている。幸次の肩ごしにだらりと垂れる手が見えた。顔は見えないが麻由子にちがいない。
美羅々は警官を押しのけて走り出し、美瑠璃もあとに続いた。
「待って。行っちゃだめ」
副島の声を聞き流し、美羅々も美瑠璃も雪をけって進んだ。幸次の姿がはっきり見えるところまで来たが、そこから先はべつな警官に止められてしまった。
「麻由子、だいじょうぶかな」
美瑠璃の苦しそうな声を背中で聞きながら、美羅々は身動きもせず幸次たちを見ていた。
警官たちの怒号がひびく。
「止まれ!」
「その子を背中からおろせ!」
だが、幸次は制止の声を聞くことなく、歩み続ける。鼻やほおが赤黒いのは凍傷にかかっているのかもしれない。
「幸次!」
マスターの声がした。幸次が初めて足を止めた。表情まで凍りついたかのようだった。
「もういいんだ。もうおわりにしろ。女の子をおろすんだ」
マスターの言葉を合図に警官たちが近づき麻由子に手をかけようとした。
幸次の絶叫がひびきわたった。
「さわるな!」
警官たちでさえ、一瞬動きを止めてしまうほどのさけびだった。
幸次は身をかがめて麻由子の体を背負い直した。
麻由子の髪が幸次の首すじに垂れかかる。両手はだらんと伸びきったままだ。
「だれもこいつにさわるな!」
幸次の赤黒いほおを涙が伝わった。
「もうだれもこいつをいじくりまわすな!」
最後は泣きじゃくりながらさけんだ。
「麻由子はおれだけのものだ!」
幸次は顔をうしろへのけぞらせた。
美羅々にはわかった。
幸次のほおが麻由子とふれあうのを。
麻由子が動くことはなかった。
警官たちがいっせいに幸次を取り押さえにかかった。
つめたいクリスマスツリー
Zの店内ではマスターがプランターのモミの木にクリスマスツリーのかざりつけをしている。あと三日でクリスマスイブだ。
「いつもならもっと早くかざりつけするんだけどな」
マスターはさびしそうに笑った。
美羅々と美瑠璃はいつものメンバーたちといっしょにテーブルにいた。だれもが無言で重苦しいものを心に抱えていた。
ランプが美羅々に向かい頭を下げた。
「すんませんでした。おれたち役立たずで」
「最初から期待してないよ」
美瑠璃のいやみもむなしい。
報道によると少年A、つまり幸次は夢路の内縁の夫勝又行男殺害を自供した。遺体はあの教会よりさらに奥の山あいに埋めたという。きょうにも現場で遺体発掘作業が行われるらしい。夢路も重要参考人として退院後に警察への出頭を求められきびしく追求されているようだ。
麻由子は幸次の背中ですでに死亡していた。
幸次の供述と検死の結果から、雪の山中で幸次の目を盗んで大量の睡眠導入剤を自らのみ、死に至ったと判断された。直接の死因は昏睡下での低体温症ということだ。麻由子は失踪以降、不安定な精神状態が続き、ネットで入手した睡眠剤をいつも持ち歩いていたらしい。
けさ、麻由子の遺体は荼毘にふされた。遺骨は東京からかけつけた実父が引き取り、きょう午前中の新幹線で持ち帰った。美羅々と美瑠璃は先ほど父親をホームまで見送ってきたところだった。
麻由子の実の父親池上昇司はやせこけておとなしそうな人物だった。ふたりは昨夜遅くまで池上を手伝い、幸次の部屋に潜伏していた麻由子の遺品を整理した。
池上の口から、失踪し東京に現れた当時の麻由子のようすを聞くことができた。
「再会したとき、あの子は疲れはて、やつれていました。急に電話をもらい、東京駅近くの喫茶店で会ったんです。最初、わたしは自分の娘だとわからないほどでした。顔を見るのは小学四年生のとき以来でしたから。夢路が会わせてくれなかったんです」
美瑠璃は腕を組み怒ったような顔で聞いている。
「麻由子は打ち明けてくれました。妊娠している、と」
美羅々の脳裏に雪の上のレモンがあざやかな色彩でよみがえった。妊娠中の女性が酸味の強い食べ物をこのむという話を聞いたことがある。あのレモンは麻由子の体に起きた変化の象徴だったのか……。
美瑠璃がきいた。
「赤ちゃんの父親は幸次?」
池上はつらそうに首をふった。
「妊娠の相手は……夢路と同居している男だったんです」
池上は目じりに涙をにじませていたが、うっすらひげの伸びたその顔がひどくみすぼらしく見えた。目の前の男が麻由子を汚した張本人かのように見え、美羅々は胸がむかついてきた。
「ひでえっ、そんなのありかよっ」
美瑠璃は言葉を吐き捨て、こぶしで空を打った。
「やっぱ、あの夜あたしたちって麻由子にひどいことしちまったんだよ。ママに頼んで車で送っていかせたの、あたしたちだった。麻由子があたしたちをうらんで当然だよっ」
美羅々は耳をふさぎたい思いだった。美瑠璃は引きとめようとしていたのだ。妹に罪はない。むしろ、おとなの前でいい子になろうとして麻由子を帰そうとしたのは美羅々のほうだ。
はげしい罪悪感におそわれた。
いまはただ真実を知ってあげることが罪滅ぼしだ、とむりに自分を納得させて、きき返した。
「麻由子はそのあとどうしたんですか」
「あの子はかなりまとまった現金を持っていました。そのお金はどうしたんだ、ときくと、友だちから借りた、と。そして中絶手術を受けたいので病院を探してほしいと言ってきたんです」
友だちから借りたというのはうそだ、とすぐわかった。幸次が渡したのだ。麻由子の失踪直前に急に恐喝をくりかえすようになった幸次。それは麻由子にお金をあたえるためだったのか……。麻由子は幸次にだけは心をゆるし、すべてを打ち明けていたのだろう。
「わたしは最初、おかあさんに事実を告げろ、と説得しました。でも、麻由子の答えにわたしは打ちのめされました。夢路は性的虐待の事実をもう知っているというのです。そして娘を助けるどころか、いまの夫を誘惑したとあの子をひどく責めたそうです」
あのクソババア、と美瑠璃が吐き捨てた。
美羅々は夢路の言動を思い出し、やりきれない気もちになった。
「麻由子が言うには、新しい街でやり直したい、できればわたしといっしょに暮したい、と。でも、わたしには再婚した妻子もおりますし、むりな話でした。ともかくわたしのマンションへ連れていき、先妻との子をしばらくあずかるからと、妻を説得しました。なんとか病院を見つけてこっそり中絶を受けさせました。手術後にわたしが見舞うと、あの子は青白い顔でベッドに横たわっておりました。十五歳に見えないくらいやつれた顔でした」
いいかげんにしろよ、と美瑠璃がさけんだ。
「あんた、ただの世間話みたくしゃべってるけどよ、へいきなのかよっ。麻由子はあんたの娘じゃねえのかよっ」
嵐のような口調に池上は当惑を見せた。
いいんです、続けてください、と美羅々は先をうながした。
はあ、と気のぬけた声をもらして池上はふたたび話し出した。
「麻由子はもう呼越市にはぜったい帰りたくないと言いました。勝又という男がしつこく追いかけてくるかもしれないのでなぞめいた失踪に見せかけて出てきたのだ、と。だけど、わたしと暮らすのはむりなんだよ、と伝えると、あの子はさびしそうにほほ笑んで答えました。働いてひとりで生きるから、と。中学も卒業していない女の子がどうやって働くんだ、とわたしはしかりました。麻由子は、東京でならなんとかなるでしょ、と答えました」
「どうして警察とか児童相談所とかに行かなかったんですか」
美羅々は自分が思いつくかぎりまっとうだと思える考えをぶつけてみた。
「麻由子本人が世間に知られることを望んでいませんでした。それに夢路はちょっとこわい性格の女で、うらまれると何をしでかすかわかりませんし……」
へたれ野郎、と美瑠璃がまた毒づいた。
「それでもうちにいる間、麻由子は楽しそうでした。妻とはあまり口をききませんでしたが、わたしの子どもとはなかよく遊んでくれました。何日かたち、住み込みの仕事を見つけたからと告げられ驚きました。義務教育も終えていない子にそんな働き口があるはずないとふしぎでしたが、あの子はほんとうに出ていってしまったのです。わたしは妻にないしょで餞別を渡しました。後日、麻由子から手紙が来てわかりました。麻由子は年齢と経歴を偽って飲食店に勤め出したんです」
「あんた、それを知ってなんとかしようと思わなかったわけ?」
美瑠璃はくやしげに涙さえにじませていた。
それに答える池上の声は小さかった。
「わたしにはどうすることもできなかったんです。マンションのローンとかあっていまの妻子との暮らしをささえるのに精一杯でしたから」
そしてきょうのおひる前。新幹線のホームで遺骨の箱を抱え、ていねいに頭を下げる池上に美瑠璃が思い切りきつい口調で言った。
「頭なんか下げんなよ。あんたのために来たんじゃねえぞ。麻由子を見送りに来たんだからな」
麻由子の遺骨を乗せた新幹線が走り去ると、姉妹は肩を抱き合って泣いた。
美羅々は回想から返った。
みんなも手伝い、ツリーのかざりつけは終わった。
マスターがプラグを差すと、ツリーのまわりにだけ小さな天使が訪れたように見えた。
ドアベルがカランと鳴り、入ってきたのは副島だった。いつになく疲れた表情だ。同じテーブルのいすに腰を落とした。それでも声だけはかけてくれた。
「元気?」
「な、わけねえだろ。何の用?」
「遺体が見つかったらしい。幸次の供述どおりに」
「幸次はなんて言ってんの?」
副島は声をひそめた。
「二年前の麻由子失踪のあと、勝又をこらしめてやろうと幸次は夢路の家に出かけて行った。刃物をポケットに入れてね。ただ、最初からの殺意は否定している。麻由子のことを謝罪させ、慰謝料を取ろうと考えたらしい。刃物は相手をおどすために使おう、と。ところが勝又は逆ギレして襲いかかってきた。それで身を守るためしかたなく刺した、ということだ」
それが夢路の言っていた殺人の真相だったのか……。
「ちなみに麻由子の失踪を全面的にサポートしたのも幸次だ。例の袋小路であんたら姉妹をやりすごしたあと、近くで待っていた幸次が盗んだ車で駅まで乗せて行ったそうだ。車の中で麻由子はシートの下にひそんで、着がえも中ですませた。これで目撃者のいなかったわけがわかったよ」
副島はカウンターのマスターをちらっとふり返った。マスターは副島の話はいっさい聞かないふりをしている。
「信じられないのは勝又殺しを目撃していた夢路の行動だ。夢路は幸次に言ったそうだ。あなたはまだ若いんだからこんなことで人生をだめにすることはない、死体を隠すのを手伝うから何でも自分の言うことをきけ、と」
美羅々は、この事件でほんとうに罪を犯したのはいったいだれだったんだろう、と考え込んでしまった。
「夢路の車で遺体を山へ運んで埋めた。そのあと秘密とひきかえに幸次はむりやり夢路の愛人に仕立てられた。ただ、これは幸次の供述で、いまのところ夢路はぜんぶ幸次がひとりでやったことだ、と主張してるけどね。その点は今後の取り調べで明らかになると思う」
美羅々は気にかかることをきいてみた。
「津紀子さんはどうなったの?」
副島の眉間にしわが寄った。
「いまゆくえを追ってるけど不明。夢路に対する監禁幇助容疑で捜査を続けてるんだけど、いぜんとして身元がわからない。なぞの女だね」
美羅々は苦渋に満ちた父の顔を想像した。自分の娘たちばかりか秘書まで事件にかかわってしまったのだ。
美羅々はいろいろな意味でつらくなってうつむいた。
密室からの消失
剣橋清太郎はオレンジ色のセーター姿で娘たちと向き合っていた。セーターの華やかな色合いがかえって顔を老けて見せていた。
「わたしは理事長の職を退こうと思う」
美羅々はおそるおそるきいた。
「それってわたしたちのせい?」
「いいや。わたし個人の資質の問題だ。わたしは教育組織の代表たるにふさわしくない」
美瑠璃がとげとげしい声で言った。
「はっきり言えよ。ばか娘たちがとんでもないことばっか仕出かしたからだ、って。おまけに愛人にしてた秘書までいまじゃ警察から追われてる。どいつもこいつもおれさまの顔にどろぬりやがってっ、てな」
清太郎はかぶりをふった。
「おまえたちのせいじゃない。わたしは以前から自分がいまの地位にふさわしいかどうか考えていたんだ」
美瑠璃が声を張り上げた。
「何かっこつけてるわけ? いつもいつも腹ん中は汚い欲望でいっぱいのくせして、うわべばっかつくろいやがって」
美瑠璃は立ち上がるとドアを荒々しく閉じてリビングを出て行った。
美羅々は遠慮がちに父の顔をうかがった。
清太郎はひとりごとのようにつぶやいた。
「いや……あいつの言ったとおりだ。わたしは美瑠璃が言ったとおりの人間なんだ」
清太郎は沈黙し目を閉じた。疲れきって老けこんだ姿だった。
じっさいの父はみじめでくたびれたただのおじさんだったんだ、と美羅々は知った。
このとき初めて父親への愛情らしきものを意識した。
十二月二十三日。前夜に再び本格的な雪が降った。剣橋学院のキャンパス内にも二十センチ以上の積雪がある。きょうは曇り空だ。高校、大学ともに冬季休暇に入っているのでキャンパスに人の姿はほとんどない。それでも歩行者通路は早朝のうちに宿直の警備員が除雪しておいたとみえ、歩くのに支障はない。
午前九時。美羅々は正門から学院本部へ通じる小道を歩いていた。レンガづくりの本館わきには大きなモミの木が数本そびえ、〝ホーンテッドマンション〟は雪の中でいっそう古めかしく見えた。その周辺にだけヨーロッパの古都を思わせる雰囲気がただよっている。
美羅々は重たいほどの決意を秘めて本館へ向かっていた。きょう九時半から本館内の会議室で緊急理事会が開かれることになっている。父はその席で辞意を表明する意思を固めたらしい。
ゆうべ、美羅々だけがそのことを父の口から直接聞いた。美羅々はそのあと朝までほとんど眠ることさえできずにあることを考え続けた。そしてひとつの結論を出したのだ。
理事長である父以下九人の理事が集まったところで美羅々は理事会を不意打ちするつもりだった。そこで学校の名を傷つけるようなまねを仕出かしたことを謝罪し、父が理事長を続けられるよう理事たちに嘆願してみるのだ。
美瑠璃がこのことを知れば、お姉ちゃんは自分だけいい子になろうとしている、と怒るだろう。でも、美羅々はそうすることで自分の中でひとつのけじめをつけるつもりだった。
だけど、わたしってこんなに強い女の子だったけ?
美羅々は思わず自分自身を笑いそうになった。
父は早く家を出てすでに理事長室に入っているはずだ。
美羅々は本館一階の史料室へもぐりこんだ。学院の歴史を表す史料や古い写真が陳列ケースやかべに展示された部屋。休み中はこの部屋にはだれも来ないだろうし、窓から玄関のようすも見える。理事たちが来れば、すぐわかるだろう。
美羅々はすみのソファに腰かけ、おとなたちの前でどう話を切りだすか、イメージトレーニングを頭の中でくりかえした。窓の外に理事たちの姿が見えてきた。スーツを来た高齢の男性やワンピース姿の中年女性。みんな弁護士だったり、医師だったりほかの職業を持っている人たちだ。
美羅々は見つからぬよう姿勢を低くしソファに沈み込んだ。九時二十二分になる。美羅々がかぞえたかぎりでは八人まで来た。残りはひとり。あとひとり来れば会議は始まる。
緊張していた。うまくいくだろうか。おとなたちの前でちゃんと話せるだろうか。
不安が弱気を生みだす。やっぱりこんなことやめてこのまま帰っちゃおうか。
だめ、と美羅々は自分をはげました。
わたし、強くならなくちゃ。行動しなくちゃ。負けたくないから。
会議室は一階の奥。父の部屋は二階。もうじき降りてくるだろう。最後の理事が急ぎ足でやってくるのが見えた。その人の姿が玄関に吸い込まれるのを待って美羅々は立ち上がった。
そのとき、こちらへ向かって歩いてくる人の姿が目についた。まだほかにも理事がいたのだろうか。
近づくにつれ顔があきらかになった。
スーツの上にロングコートを引っかけた女性。
まさか。
水島津紀子だ。
美羅々は窓ぎわのかべに身を寄せ、津紀子を目で追いかけた。
なぜここへ現れたのだろう。自分が警察に追われていることを知らないはずはないのに。
津紀子は人形のように無表情のまま美羅々の視界から見えなくなった。
玄関のほうでとびらを開け閉めする音。
美羅々はドア近くで耳をすませた。階段を上がっていく足音。
そっとドアを開け廊下にすべり出た。
階段を上がっていく津紀子のうしろ姿が見える。
美羅々は足音を殺し、距離を置いてあとに続いた。
津紀子はすでに二階の廊下だ。床をふむ足音だけがひびく。
やがてどこかの部屋のドアが開き、すぐに閉じる音がした。
美羅々は足を早めて二階へ上がった。
津紀子の姿はない。
建物の広さにくらべ窓が少ないので廊下はうす暗い。廊下には左右それぞれ五つのドアがならんでいる。階段はいま美羅々が上がってきた一か所だけなので、津紀子がどこかの部屋に入ったのはたしかだ。
美羅々は(理事長室)というプレートのついたドアを軽くたたき、中からの返事も待たずにドアを開けた。
父の清太郎はあっけに取られた顔で美羅々を見つめ返してきた。机の上に(辞表)と書かれた封筒が見えた。美羅々は室内を見まわしたが津紀子の姿はない。
ドアを細めにあけたまま、廊下へ耳をすましながらささやいた。
「津紀子さんがいるの。どこかの部屋に入ったわ」
父は美羅々を押しのけるように廊下へ顔を突き出した。
「ほんとうに水島くんなんだな?」
美羅々がうなずくと、父は理事長室の電話に手を伸ばした。校内の警備員を呼んだようだ。やがて現れた警備員に階段を見張るよう指示した。
「美羅々はここにいなさい。あの女は危険だ」
「いや。いっしょに探すわ」
父はそれ以上は何も言わず、手近のドアを開けた。美羅々ものぞきこんだが中に人かげはない。階段口がざわめき、理事たちが顔をのぞかせた。二階での異変が階下へも伝わったらしい。でも、これでいくつもの人の目が二階を見張っている形になるので津紀子に逃げ場所はないはずだ。
父がつぎのドアを開いた。ここにもいない。
そのときガラスの割れるような音が聞こえた。
「秘書室だ」
父がひとつのドアめざして走る。美羅々も続く。父がノブをひねったがドアはかたかた鳴るばかりで開かない。
「カギがかかってる」
この部屋にだけカギがかかってるということは中にだれかがいるはずだ。
「水島くん、いるならドアを開けなさい!」
返答はない。
美羅々は耳をすませたが中で人の動く気配はない。
「スペアキーを持ってきましょう」
走り去った警備員はやがてキ―のたばを手に戻ってきた。ドアが開くや、警備員に続き清太郎と美羅々が足をふみ入れた。
正面にスチールの事務机、かべぎわには同じくスチール製の書類棚が置かれ、使われることのないマントルピースが建物の古さを表している。
人の姿はない。デスク横の窓ガラスの一部が割れている。さっきの音はこれが割れた音だろう。
美羅々は窓へかけ寄った。木枠のクラシックな押し上げ式窓で、錠はかかったままだ。カーペットにはガラスのかけらがわずか散らばり、これはガラスが中から割られたことをしめすのだろう。
美羅々はガラスごしに外を見やった。
正面に大きなモミの木がそびえている。雪の上に足あとなどは見えない。ガラスの割れ目も小さな子どもが頭を出せるかどうかというくらいの大きさしかなく、するどくささくれ立ったガラスが残っているので、むりに通り抜ければ大ケガをしてしまうだろう。
マントルピースの中をのぞいていた警備員がつぶやいた。
「ここからも出られそうにないですね」
美羅々は思いついたことを口にしてみた。
「古い建物だから秘密の抜け穴があるとか?」
清太郎が真顔で答えた。
「そんなものあるわけない。あればわたしがとっくに活用している。最初からこの部屋にはだれもいなかったのかもしれない」
そんなはずない、と美羅々は思う。このガラスはどう見ても室内から割られたものだし、ガラスの割れる音は父もいっしょに聞いたはずだ。
ほかの部屋も調べてみたが異常はなかった。
「外を見てみよう」
父と美羅々に続いて理事たちもぞろぞろ出てくる。
美羅々はおとなたちに声をかけた。
「待ってください。もし足あとが残っていれば貴重な手がかりです。ふみつぶさないよう注意してください」
理事たちはいぶかしげな顔を向けてくる。
探偵きどりのなまいきな娘、と思われたのかもしれない。こんな発言ができるのも美乃地の影響だろう。美羅々自身も足もとを気をつけて見たが、雪はどこもまっしろでふまれたあとはない。
二階を見上げてみる。割れたガラスが見える。窓のすぐ下にきらきら光るガラス片がたくさん散っている。よく見ると雪になかばうずもれて何かが落ちていた。
美羅々はしんちょうな足取りで雪をふみ、それが卓上電気スタンドであることをたしかめた。
美羅々は父をふり返った。
「それは秘書室のスタンドだ」
父の声はひどく緊張しているようだ。
部屋の中からこれを窓に投げつけガラスを割ったということなのか。
美羅々はまわりの光景になぜか違和感を抱いた。何かがおかしい。
何者かはなぜガラスを割れなければならなかったのか。
窓からおよそ三メートルのところにモミの木がある。白いヴェールをまとったように雪をつけた葉と枝。津紀子はまちがいなく本館の二階に上がり秘書室に入った。そして消えた。そこになんらかのトリックがあるにちがいない。
美羅々は本館二階の窓を順に目で追いかけた。
あれは?
ちょうど秘書室と廊下をはさんだ向かいに当たる窓。その真下に雪が小山となってもりあがっている。
屋根のかたむきのせいでそこだけ落雪が重なったのだろう。高さは一階のなかばまで達し、ほとんど窓をふさいでいる。雪にはなだらかなスロープがついている。まるでミニチュアサイズのゲレンデといったおもむきだ。
美羅々はようやく重要なものを探り当てた気になった。スロープから外へ向かい、くつのあとに見える型が除雪した通路まで続いている。だれかがここを歩いた……。
よくたしかめると雪のスロープはだれかがスコップか何かで固めて人工的に作ったようにも見える。
建物の二階へ急ぎ足でもどると、スロープの真上に当たる部屋をたしかめた。ここの窓に錠はかかっていない。
美羅々は窓から身を乗り出しスマホであたりを撮影すると、美乃地あてに送信した。そのあと電話を入れた。
「あっ、お兄ちゃん。知恵を貸して」
美羅々はこれまでのできごとをくわしく伝えた。
しばらく沈黙して美乃地は言った。
『モミの木の高さはどれくらい?』
美羅々は身を乗り出し、目測しながら答えた。
「二階のとちゅうくらいまであるわ」
『よし、じゃあ、その木の下に立ってみて』
すぐ外へ走り出て、言われたとおりにした。
『本館のかべと平行な向きに張り出した枝はない?』
「あるわ」
電話の向こうで美乃地のほくそ笑む顔が目に浮かぶようだ。沈黙を通してもかれが手がかりをつかんだようすが伝わってくる。
『その枝の高さは?』
美羅々は腕を伸ばしてみた。届く高さではない。
「二メートル近くあるかも」
『上等だ。枝に変わったことない?』
美羅々は首をほとんど直角近くまでまげて観察した。
「美羅々、何しているんだ」
父の声も無視した。
あれはなんだろう?
枝のとちゅうに黒っぽいビニールテープみたいなものが巻きつけてある。
そのことを美乃地に伝えた。
『それでほぼわかったよ。キャンパスのどこかに重しをつけた長いひもかロープが隠されていると思うんだ。それさえ見つかれば、おれの推理はぴったり当たったことになる』
美羅々は警備員に美乃地が言った通りのものを伝え、どこかで見かけなかったか、きいてみた。
警備員は首をかしげながらも探してみると言って踵を返した。
「ほんとうに水島くんがいたのか?」
父や理事たちは疑わしそうにこちらを見ている。
美羅々は言い返した。
「じゃあ、なぜガラスは割れたの? だれがスタンドを投げ捨てたの?」
ここで父は大きな疑問を思い出したようだ。
「ところで、なんでおまえがここにいるんだ?」
理事たちの前で理由を告げるわけにいかない。
美羅々が口ごもっていると、ちょうど警備員がもどってきた。ぐるりと巻いた細いロープを手にしている。
「裏門わきの植え込みにありました。雪をかけて隠そうとしたあとがあります」
美羅々が近づいて見ると、ロープの先に青銅製のペーパーウェイトが結びつけてある。
この発見をすぐ美乃地に報告した。
『なるほど。これでおれの考えたとおりだ』
「待って。わたしにも津紀子さんがどんなトリックを使ったかわかったわ」
『言ってみな』
「津紀子さんはなんらかの方法できょうの緊急理事会を知った。で、ゆうべまだ雪が降っているうちにキャンパスにしのびこんで準備したのよ。まず屋根からの落雪を利用して秘書室向かいの窓の下にすべり台を作った。そのあと秘書室へ入る。窓ガラスの一部に小さな穴をあける。どうやったか方法はちょっとわからないけど」
『ガラス屋が使うガラスカッタ―を使えばいい。通販でもかんたんに買える』
「そうしたら穴へロープを通して外へ垂らす。室内に残ったロープのはしにペーパーウェイトを結びつける。あとは卓上スタンドを窓から雪の上に投げておく。窓の錠をしめて、ドアから廊下へ出てカギをかける。半年以上ここで働いていた津紀子さんならカギ屋さんでスペアキーを作らせるチャンスはあったでしょ」
『うん、いいぞ』
「外に垂れたロープを引っぱって、モミの枝にかける。津紀子さんの身長ならロープを投げ上げればかんたんよね。枝にビニールテープを巻いたのはすべりをよくするため。警備員に見つからないようロープにたるみをつけて地面をはわせておけば降る雪が自然に隠してくれる」
あたりがざわめいた。制服の警官が見えた。父が呼んだらしい。
美羅々はスマホに向かい声をひそめた。
「そしてけさ、ここへやって来た津紀子さんは秘書室へ入ったように見せかけて向かいの部屋に入ったの。窓の下には雪のすべり台がある。おしりがつめたいのをがまんすれば窓からすべり台を伝わって下へ降りるのはかんたん。あとはモミの木の下まで行ってロープを引けば、ペーパーウェイトがガラスを突きやぶって落ちてくる。これで、だれかが秘書室の中からスタンドでガラスをこわしたように見せかけられる。最後はロープを回収して去ればいい」
『正解だ』
ただ、ひとつの疑問。津紀子はなぜわざわざ現れてそんなめんどうなことをしたのか。美羅々が津紀子の姿を見ていることをどうやって知ったのか。それがわからない。
父の声がした。
「美羅々。おまえの話が聞きたいそうだ」
警官が近づいてきた。
光のウィンク
「おやじを苦しめるのが目的って感じがするな」
美乃地がそう言った。
津紀子の今回の消失の動機について話している最中だ。
「夢二さんの消失トリックもじつは津紀子さんが考えたって気がするんだ」
「たしかに。夢路さんや幸次君じゃあ、あんなトリック思いつかないかもね」
美羅々は大きな疑問を口にした。
「きょうのことが津紀子さんの自作自演だとしても、あの人はわたしに見られていることをどうやって知ったんだろう?」
美乃地が身を乗り出した。事件が始まってから兄のテンションが上がっている気がする。
「おまえ、きょう本館に行くってことをだれかにしゃべったか?」
「ううん、しゃべってない」
すべて自分ひとりで決めたことだ。美羅々がきょうあの時間に本館にいることなどだれも知りようがない。
「読んだんだろうな、美羅々の心を」
「はあ? 津紀子さんが超能力者ってこと?」
「ちがう。おやじの性格をまず見れば、屈辱には耐えられない人間だってわかる。そうなればいずれ理事会を招集して辞表を出すってことは想像できる。つぎに美羅々の性格を読む。たよりなくてポワンとしたおまえがこの事件に関わってから、ずいぶんと強く行動的になってきた。自分のやったことに責任も感じているだろう、と。なんらかのアクションを起こすために理事会当日、おまえが乗り込んでいく可能性も津紀子は考えたんだろう」
「それって、わたしのことホメてる? でも、きょう九時半から理事会があるって津紀子さんはどうやって知ったの?」
美乃地はにやりと笑った。
「盗聴器でおやじが電話で理事たちと話すのを聞いたんだろ」
「えっ、だってパパの部屋の盗聴器はお兄ちゃんが見つけて……まさかもとへもどしておいたの?」
「もちろん。相手の出方を見るためにはそのままにしておいたほうがいいと思ってね」
美羅々はちょっとむくれた。
「でもさ、わたしが本館へ行かなかったらどうするつもりだったんだろ」
「そのときは警備員でも理事のだれかでも目撃者に仕立てればすむことさ。だいじなのは学院本館でミステリアスな人間消失事件を起こして、さわがせることだったんだから。そうなればおやじは学院の責任者としてますますプレッシャーが大きくなるだろう。津紀子のねらいはそこにあったんだ」
パパへの復讐?
でも、パパの何に対する復讐?
パパと津紀子さんとの間には過去に何か関係があったのだろうか。
美羅々が考え込んでいるとスマホが着信した。
非通知。いやな予感。
『きょうはお疲れさま。なぞは解けた?』
津紀子の声。
兄の顔を見た。美乃地は、話を続けて、と言うふうにうなずいてみせた。
「教えて。なぜ、きょうみたいなことばかりするんですか。目的は何なんですか」
『ある人との約束を守るため』
「ある人ってだれですか」
津紀子の声はひそやかになった。
『あしたはクリスマスイブね。もうこの街ともおわかれのときが近づいているから記念に名物のイルミネーションを見ておきたいわ。あしたの夜、三番街の彫刻前で会わない? 六時に』
美羅々は瞬時に決断した。
「はい」
津紀子の口調がからかうようなものに変わった。
『言っておくけど、警察へ知らせるのは無しよ。もっとも警察が張り込んだって、つかまるようなわたしじゃないけど』
楽しげな笑い声を残して電話は切れた。
話した内容を美乃地に伝えた。
美乃地は無言でなにごとかを考える顔つきだった。
銀河が頭上近くまで下りて来たような光のページェントだ。六百メートルにわたる長い遊歩道のけやき並木は六十万個の電球をまとい輝いている。黒い空からふわふわ落ちてくる雪もたちまち光の海にのみこまれてしまう。
美羅々はいま三番街の彫刻前にいた。ブロンズの裸婦像が黒い肌をきらめかせている。
あたりを見まわすと、人、人、人の波。カップルの数が圧倒的だ。
「女ふたりってうちらくらいじゃねえの」
かたわらで美瑠璃が笑いながら言ったが、美羅々は緊張した面持ちをくずさず、津紀子の姿を探し求めていた。今夜この場所がこれまでの事件の真の結末をむかえる場になるかもしれず、イブの雰囲気にひたる気分にはなれない。
けさのテレビニュースでは、十七歳の少年Aの自供により発見された白骨死体の身元が判明したと伝えていた。勝又行男。DNA鑑定がそう結論づけた。同時に元保険外交員の女性が死体遺棄幇助と犯人隠匿容疑で逮捕された。
「あいつらも、いかにも彼女いないって雰囲気だよな」
少しはなれた場所に亮介たちがいる。何か起こればサポートしてくれるよう美瑠璃が頼んでおいたのだ。
美羅々はさりげなく亮介に目を向けたがふたりの視線がまじわることはなかった。
六時まであと五分。人通りはますます多くなってくる。
遊歩道は車道の中央に設けられている。左右の車道を走る車もふえてきた。三番街はしゃれたカフェやレストラン、小ぢんまりしたブティック、ブランドショップなどが並ぶ高級志向の通りだ。
人々のにぎわいとどこからともなく流れてくるクリスマスソングの中で美羅々はスマホが着信していることにあやうく気づかないところだった。
非通知。
『あなた、わたしがどこにいるかわかる?』
津紀子の声はこの夜を楽しんでいるかのようだ。
美羅々はスマホを耳にあてたまま、あたりを見まわした。美瑠璃もいっしょに四方へ視線を配っている。
『わたしからはあなたたちがよく見えるわ。妹さんもいっしょよね』
周囲のざわめきが遠のいていくように感じられた。スマホを通して津紀子と一対一の対決を強いられている気がする。
「どこにいるの? 姿を見せないなんてずるいわ」
『駅方面に向かって左側の歩道を見て』
美羅々は言われた方角を見やった。車道の向こう側。車の流れのすきまから歩道の上に長身の女が見えた。クリムゾンレ―キのハーフコートに同系色の帽子を目深にかぶっているが津紀子にちがいない。
美羅々は語気を強めた。
「なぜ、そんなに遠い場所にいるの? 約束がちがうわ」
『約束は守ってるわ。おたがい顔も見えるし、こうして話もしているじゃない。で、あなたが知りたいことってなんだったかしら』
美瑠璃が亮介たちを手招きで呼び寄せるのがわかった。
「きのう、ある人との約束を守るためって言いましたけど、ある人ってだれですか」
『答える前に、その男の子たちをこっちへよこさないで』
美羅々は手まねでかれらを制した。
亮介たちは硬直したように美羅々を見ている。その姿ははなやかなイルミネーションの下で浮いて見えた。
再び会話がつながった。
『あなたのお父さまをこらしめるのがその人との約束だったの。ここまで言えばわかるでしょ。あなたがたのお母さまよ』
ママが津紀子さんに頼んだ?
母の面影がよみがえった。
いつもおだやかで優しい母だった。父をなじるようなことは一度もなかった。
そんなママがパパへの復讐をたくらんでいた?
『あなたのお母さまは、お父さまの女性関係にとっても心を痛めてらしたわ。わたしが開いていた悩み事相談のホームページを見てお手紙をよこされたの。それが縁で何度も手紙や電話でお話をしたわ。で、お父さまを少しこらしめてあげましょうって話になったの。あなたたちお嬢さんのこともいろいろ聞いたわ。でも、わたしが解決のため動こうとした矢先にお母さまは病気で倒れてしまわれた』
では、父を苦しめるために津紀子は美羅々たちが事件に巻き込まれるよう仕組んでいたのか。
美羅々はすべての背後に亡き母の意思を感じて慄然とした。
『わたしは決心したわ。あなたのお母さまの心をくんで、わたしがお父さまに痛い思いをさせてやろうって』
「それで父に近づいたんですか。でも、麻由子のことは?」
『わたしが東京のあるお店で働いていたとき、あの子がアルバイトで入ってきたの。麻由子ちゃんはわたしのことをおねえさん、おねえさんって慕ってくれたわ。そしてあの子が心に深い傷を抱えていることを知った。あなたがたと同じ呼越市出身だとわかったとき、わたしの中にプロットが浮かんだの。あなたのお母さまと麻由子ちゃん。ふたりの女性の復讐を同時になしとげられる方法をね』
美羅々は憤りを覚えた。
何人もの人を傷つけて、復讐だ、復讐だ、とさわぐ相手に強く反感を抱いた。
「復讐なんてそんなことに意味あるんですか」
津紀子の声があざ笑うように返ってきた。
『意味があるか、ですって? それはほんとうに傷ついたことのない人間が言うきれいごとよ。ボロボロに、ズタズタにされたたましいが復活するためには復讐と言うプロセスがぜったい必要なのよ』
「言ってる意味がよくわからない」
『あなたももっとおとなになればわかるようになるわ。人は多かれ少なかれ過去の何かに復讐するために生きてるってことが、ね』
美羅々は言い返した。
「そのためには犯罪をしてもいんですか」
『夢路さんを傷つけようとしたことを言ってる? わたしはちょっとこわい思いをさせてやるくらいでいいと思ってたんだけど、若いふたりが暴走しちゃったの。だから、あなたと夢路さんが逃げようとしたとき、わたし、止めなかったでしょ?』
美羅々は最大の疑問をぶつけてみた。
「あなたって、ほんとうはだれなの?」
電話の向こうから答えはなかった。
目の前を大型のコンテナ車が通りすぎた。
美羅々は瞳をこらしたが、津紀子の姿はなくなっていた。
美瑠璃が不審げにこちらを見ている。
「逃げたの?」
亮介たちがぱらぱらかけ寄って来る。
美羅々はとほうにくれてあたりを見まわした。
電話は切れていた。
イルミネーションの光が頭上へ水しぶきのように降りそそぎ、カップルたちのざわめきが高まる。
とつぜんイルミネーションが消えた。光にならされた目には闇が来たようにも見えた。
スターライトウィンク。
人々を楽しませるための演出だ。
みんな固唾をのんで頭の上を見上げている。
たっぷりとした沈黙の時間がすぎたあと、イルミネーションがいっせいに点灯した。
巨大な光の華が開いた。
光のシンフォニー。光の大合唱。
その光景はほんとうに無数の天使が舞い降り、街を祝福しているかのようだった。
拍手が起こり、歓声がわきあがる。
チャンスとばかり抱き合いキスをかわすカップルもいた。
美羅々は周囲の喧騒から取り残され、ただ立ちつくしていた。
エピローグ イブに消える
女は改札口への通路をいそいでいた。
新幹線の発着する呼越駅の乗降客数は平日でも十五万人を下らない。ことに今夜はクリスマスイブとあって、どことなく華やいだ表情の人たちで構内はあふれかえっている。広い通路にはクリスマスケーキを臨時販売する屋台やサンタクロース姿のアルバイターたちが風船やチラシを配り、人々の歩みをわずかさまたげている。
旅の終わり。女はそんな気分を味わっていた。
今回は幸次という少年が予想以上に突っ走り、不本意な結果に終わってしまった。
麻由子のことを思い出すと胸が痛む。
美羅々という少女とその仲間たちの思わぬ探偵ぶりは腹立たしいが、いま思えばほほえましくもある。
ふと、直感が告げた。だれかがあとをつけている……。
美羅々たちの追跡はうまくかわしたはずだった。
構内の円柱に身を寄せ、ふり返った。
背の高い男が立っている。半面をインフルエンザ用マスクでおおい、メガネの中からのぞくまなざしは落ち着いているが、まだじゅうぶん若いのはわかる。少年と呼んでもいいだろう。
女は少年と目を合わせた。相手はたじろぐそぶりも見せずに一歩ふみ出してくる。
少年は着ているコートのポケットから何か取り出した。
「これ、忘れ物です。お返しします」
女は盗聴器を受け取った。
「わざわざ、ありがとう。あなた、美乃地くんだったわよね。わたしのあとをずっとつけて来たの?」
マスクの顔がうなずく。
「あなたって引きこもりじゃなかったっけ?」
メガネの中で瞳が笑った。
「イブのときくらい街に出たくなります」
女は笑顔を返し、次の言葉を待った。
しばしの沈黙ののち、マスクごしに声がした。
「あなたが紅蝙蝠だったんでしょ?」
女はさあ、と言うように首をかしげてみせた。
美乃地はさらに言った。
「紅蝙蝠は組織でも団体でもなく、あなた個人を表す名だったんだ。ほんとうは何者なんです、あなたは」
「妹さんにも同じこときかれたわ。わたしはわたし、としか答えられないわね」
美乃地のまなざしは少女のように優しげだった。
妹たちとそっくりの目をしている、と女は思った。
「ぼくの想像を言いましょう。あなたはお金持ちだったけど、心をズタズタに傷つけられたことがある人。そしてこの世界を憎んでいる。ちがいますか」
小憎らしささえ感じさせるほど老成した物言いだった。
女は肩をすくめてみせた。
「大した想像力ね。まっ、当たらずと言えども遠からずといったところかしら」
女はそのとき耳の奥で海鳴りを聞いていた。
「わたしの生まれた家は資産家で、わたしにはふたつの国の血が流れている。お金はあったけど決して幸せじゃなかった。すべてから逃れたくてヨーロッパを放浪してたとき、ロマのおあばあちゃんからタロットを教わった。明かせるプロフィールはこれくらいね。ねえ、あなた、マスクとメガネを取ってみてくれない?」
美乃地は素直に従った。
女は相手を頭から足先までしっかりながめ回して言った。
「なかなかいい顔してるのね。背も高いし。でも、そのコートはちょっとおやじくさくない?」
美乃地はにこりともしなかった。
「だって、おやじのですから。黙って借りてきたんです。おやじは辞表を出してから部屋にこもりきりでコートなんかもう着ませんから」
女は笑った。
「五十歳すぎての〝引きこもりデビュー〟ってわけね。自分を見つめ直すいいチャンスだわ」
女は真顔で語りかけた。
「あなたがたの探偵ぶりもかっこよかったわ。いっそのこと妹さんたちと探偵団でも結成したらどう?」
答える美乃地もまじめだった。
「考えておきます」
「いまどき少年探偵団でもないだろうし……剣橋探偵団じゃ、大むかしのサーカス団みたいだし。そうね、剣ブリッジ、ケンブリッジ探偵団なんてどうかしら?」
美乃地はどこまでもきまじめだった。
「いいですね。検討しておきます」
女はふとわかれのさびしさに似た感情をおぼえた。
「わたし、今夜かぎりでこの街を離れるの」
「東京へ?」
女は否定も肯定もしなかった。
「蝙蝠はね、にぎやかな闇の中へ帰っていくの」
このとき女は本当に自分の背中につばさの生えた気がした。
いまならどこへでも飛び立っていけそうな高揚感がある。
美乃地が言った。
「あなたはおふくろのかたきを取ってくれた。おやじもおふくろをふみじにったことをきっと悔やんでいると思います」
「なまいき言うのね」
女は不意に美乃地の足もとを指さした。
「スニーカーのひもがほどけてるわ」
※ ※ ※
スニーカーのひもが……と言われ、反射的に視線を落とした美乃地が再び顔を上げたとき、女の姿はどこにもなかった。
人の流れは絶えることなく、〝聖者が街にやってくる〟のリズムや山下達郎の歌声がどこからか聞こえ、にぎやかだ。
放心したように立ちつくしていた。
いつかこんな晩に、目の前にいるだれかに向かい言ってみたい言葉がある。
美乃地は人の波を見つめ、その言葉を口の中で小さくつぶやいた。
「メリークリスマス……」
おわり
最後までお読みいただきありがとうございます。少しでもお楽しみいただけたならさいわいです。
また、いずれちがうものをお目にかけたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。




