見えざる犯罪
コーヒー香る夜
帰宅すると美瑠璃がいた。リビングルームのソファで首から下に毛布を巻きつけ、身をちぢめるように横たわっていた。目がうつろで、ときおりのどの奥から木枯らしのような音を立てて、咳をくりかえしている。
「ちゃんとベッドでお休みなさいと申し上げたのに、聞いてくださらないんですよ」
美羅々はみささんの小言を聞き流し、妹のひたいに手をあててみた。ひどく熱い。病院へ行くよううながしたが、うんと言わなかった。
「病院って注射されんだろ。あたしの体に針なんか刺すやついたら、ぶっとばす」
ピアスならへいきなくせに、といやみのひとつも言ってやりたいが、美羅々はかいがいしく妹の看病をした。背中をかかえ起こし、みささんが運んできたあたたかいレモンティーを飲ませた。レモンの香りがふと麻由子が消えた夜を思い出させた。
「そんなにひっつくとあたしの風邪うつるよ」
美羅々はちょっといじわるを言ってみたくなった。
「家族に風邪うつしたくないならなんで帰ってきたの?」
美瑠璃は紅茶をすすって熱そうに顔をしかめた。
「亮介に風邪ひかせたくねえからだよ。あいつ、ジムの練習もあるし、仕事へも行かなきゃならねえから」
亮介の名が美羅々の胸をトンと打った。さりげない風をよそおいきき返す。
「亮介さんってどんな仕事しているの?」
「仕事たってバイトだけど、居酒屋で。あいつ、やきとり焼くのじょうずなんだ」
亮介はアパートでひとり暮らしだと聞いたけど、居酒屋のバイト収入くらいでひとり暮らしが成り立つのものなのか、美羅々の経済感覚からしても疑問だった。
「亮介さんって、家賃とか自分で払ってるの?」
美瑠璃は生気のない目を向けてきた。
「なんで、あいつのことに関心持つんだよ」
美羅々は言いわけがましく答えた。
「あなたのカレシってどんな暮らししているのかなあ、って」
「亮介はさ、おふくろさん早く死んじゃって、小学生のときおやじが再婚したんだ。新しいおふくろには連れ子がふたりいて、そいつらとうまくいかなくて中学卒業と同時に家を追い出されたんだって。おやじの名前で部屋借りて、家賃と最低限の食費だけ仕送り受けてんだ」
亮介がただよわせている孤独のかげ。そのわけが少しわかった気がした。
美瑠璃はしばらく咳こんでから言った。
「別居させられたときのおやじのセリフ、あたしが聞いたってムカつくよ。離婚すれば慰謝料とふたりぶんの養育費払わなきゃいけないけど、亮介だけ別居すればひとりぶんですむって、そう言いやがったんだって」
美羅々はしばし物思いにふけったが、さりげなくきき返した。
「風邪なおったらまた出ていっちゃうの?」
美瑠璃はのどを鳴らしてさめた紅茶を飲みほし、答えた。
「ああ。あたしが帰る場所は亮介のとこだけ」
美羅々は心の底に火の残るマッチをぽとり落とされた思いになった。
じりじりとくすぶる感情をおさえてこう告げた。
「美瑠璃にはやっぱりこの家にいてほしいんだ」
「なんで?」
「さびしいから。生まれてからずっといっしょに暮らしてきたのに離ればなれになっちゃうのっていやだから」
そう言葉にしながらも、うそつき、と自分をののしっていた。ほんとうは美瑠璃を亮介のもとへ帰したくないから。嫉妬。それ以外のなにものでもない。
「それっておやじに頼まれてしゃべってるの?」
美羅々はかぶりを振った。
「パパは関係ないわ。学校へ戻るかどうかはあなたしだい。だけど、せめて家にだけはいてほしいの」
美瑠璃は天井を見上げた。
「この家にはいたくねえ。なおったら出て行く」
強い口調がのどを刺激したのか、美瑠璃ははげしく咳こんだ。寝室へ行くよううながすとこんどは素直に従った。パジャマに着がえさせ、その間にみささんを呼び、風邪薬とお湯でしぼったタオルを何枚か持ってきてもらった。熱いタオルでメークを落とし、熱のせいでかいた汗をぬぐってあげた。薬をのませ、ベッドに入った美瑠璃の肩までしっかり毛布をかけてやる。
美瑠璃がつぶやいた。
「お姉ちゃんって、なんで、そんなに優しいんだよ?」
わたしが優しいって?
うそよ、そんなの。わたしはエゴイスト。あなたがこの部屋でゆっくり休んで、やっぱ自分の家っていいなあ、そう感じてほしいだけ。そして二度と亮介さんのところへは帰らないでほしい。
美瑠璃はハァハァと苦しげな寝息を立て始めた。薬の効果かもしれない。美羅々はしばらくベッドのはしに腰をおろし、妹の寝顔を見つめていた。メークさえ落とせば、自分とうりふたつの顔がそこにある。わたしも眠っているときはこんな顔をしているのだろう。
笑ったときはこんな顔。怒ったときはこんな顔。泣けばこんな顔。
鏡なんか見なくともぜんぶわかる。それは美羅々にとっても美瑠璃にとっても決して心地よいことではない。顔を会わせるたび、むきだしの自分自身を見せつけられる気がしていやなのだ。
美瑠璃のスマホが最新のポップスを歌い始めた。目を覚ます気配はない。美羅々は妹のスマホを手に取った。Ryo。ディスプレイが発信者の名をそう告げている。美羅々はスマホを手にしたまま廊下へ出た。この電話に出てみようか。そう思った瞬間に着うたは止まった。
おれが話したい相手はおまえじゃない。
亮介にそう突きつけられた気がした。
美瑠璃をこの人のもとへ帰したくない。美羅々は亮介の番号を突きとめると、妹のスマホからいまの着信記録を削除した。それを悪いことだと考えたくはない。すべては美瑠璃にふつうの暮らしを取り戻させるためなのだ。そう自分に言い聞かせた。
みささんが美乃地の夕食をトレイに乗せて上がって来た。
「美瑠璃さんにはおかゆを作っておきましたから。あとで差し上げてくださいね」
みささんが帰るのを見届けて、美羅々は自室で亮介の番号をコールした。呼び出し音と心臓の鼓動とが共鳴し、数秒間が長く感じられる。
亮介の声が出た。見知らぬ番号からかかったせいか、いぶかしげな声だった。
美羅々は名を告げ、妹のことで会いたいと伝えた。意外なほどあっけなく亮介は承諾した。美瑠璃が病床にある今夜こそがチャンスだと考える美羅々はあせっていたのかもしれない。アパートの場所を聞き出し、一時間以内に行くと約束して電話を切った。
美瑠璃の部屋をのぞいた。ぐっすり眠っている。このとき初めて妹をあざむく罪悪感を覚えた。
大通りへ出ると、タクシーを拾った。市内を往復するくらいのタクシー代なら財布の中にある。車の中でコンパクトを取り出し、メークを直す。ルームミラーごしに運転手の視線をうるさく感じた。
外を見やると、暮れゆく冬間近の街並みが寒々として見える。
亮介がアパートのめじるしに指定したコンビニ前で車を降りた。コンビニの駐車場では荒んだ目つきの若者たちがすわりこんでたばこを吸っていた。いまわしい記憶がよみがえり、美羅々の背はこわばった。かれらと目を合わせぬよう亮介のアパートを探し求めた。
不意に亮介がコンビニの中から現れた。店内から美羅々を見守っていたようなタイミングだった。
「通りに出ればマックとかあるけど、そっちのほうがよければ……」
美羅々はちょっと考えて首を振った。
「だいじな話なので人のいない場所がいいです」
亮介は先に立ち歩き出した。亮介が暮らすアパートはひどく古びていた。街灯に照らされたモルタル塗りの外観は殺風景だ。鉄製のさびついて、ところどころ穴のあいた階段を上がり、部屋にたどり着いた。亮介が明りをつけると室内の光景が浮かび上がった。
六畳の和室に形ばかりのキッチン、あとはトイレつきのユニットバスがあるようだ。かべも天井もよごれているが部屋はわりと片づいていた。ベッドが部屋の半分を占め、残るスペースに小さなテーブルとパイプ式のクローゼットハンガ―、小型のテレビがじかに畳の上に置かれている。ハンガ―には見覚えのある美瑠璃のジャケットやパンツが下がっている。見てはならないものを見た気がして美羅々は顔をそむけた。
「ベッドのはしにでもすわって。コートは着たままでいいよ。ストーブこわれちまって暖房はないから」
美羅々は冷蔵庫の中にいるような寒さに耐えてコートの前をかき合わせるとベッドに腰かけた。
亮介は畳に体育すわりした。
「話ってなに?」
美羅々は思いがけないほどあっさりと言葉が出た。
「美瑠璃とわかれてもらえませんか」
亮介はごく静かな口調できき返してきた。
「それ、だれかに頼まれてきたことなの?」
美羅々は首を横に振った。
「おれとわかれたほうが美瑠璃はしあわせになれると思う?」
悲しい質問だ、と美羅々は思った。
「わかりません。だけど、あの子にはやっぱり家にいてほしいんです」
それだけでは言葉がたりないと考え、こうつけくわえた。
「家族だから……」
言ってしまってから、亮介に対し残酷な言葉を投げかけてしまった、と後悔した。
かれは家族というものから切り捨てられた存在なのだ。
部屋は寒く、ふたりが吐く息は白かった。美瑠璃がこの部屋で亮介とふたり肌を寄せ合い、暖めあう姿を想像した。
そのふたりを引きはなす。自分はとてもむごいことをするためにここへ来たのだ、と感じる。
「わかった」
亮介は答えた。
「美瑠璃と話し合ってみる。おれたちの関係が家族を苦しめているなら、わかれてもいいよ」
これでここへ来た目的は果たしたはずだった。しかし、美羅々は帰りますとは言えなかった。自分が帰ったあとひとりこの部屋に残された亮介を思い浮かべた。夕暮れのグラウンドにポツンと忘れ去られたサッカーボールを連想した。
「あんた、妹を愛してる?」
不意を突かれ、美羅々はぎこちなくうなずいた。
亮介はかかえたひざにあごを乗せた。
「いいもんだな、きょうだいって」
亮介の声には年齢より老成したひびきがあった。
「美瑠璃とわかれる代わりに」と、急に粗野な声になって言った。
「あんたがおれの女になれ」
美羅々は自分でも意外なほどその言葉を冷静に聞くことができた。
ワルぶった言葉と裏腹に亮介の表情はさびしそうだった。いまのセリフは美羅々の理不尽な要求に対する精一杯の抵抗にちがいなかった。だが、美羅々はそうでないことを願った。自分がほんとうに求められているのだと信じたかった。
あごをわずか動かしうなずいて見せた。
「おれと寝る度胸あるの?」
それきりふたりとも黙りこんでしまった。
長い沈黙のあとで、美羅々はコートの前ボタンに指をかけた。
「シャワーとか……浴びたほうがいいですか」
亮介は最初とがめるようなまなざしを向けてきたが、すぐ微笑みに変えた。
「いいんだ。そのまますわってて」
立ち上がったかれはキッチンからコーヒーメーカーを持ってきた。なれた手つきでコーヒーを作る亮介を美羅々は見守った。やがてかぐわしい香りが部屋に満ち、空気まで暖まっていくような気がした。ふたつのマグカップはペアで、美羅々の胸はまた痛んだ。
それでも手わたされたカップを両手で包みこみ、しばしぬくもりと香りとを楽しんだ。ふたりとも何もしゃべらず、畳のつめたさが足の裏からひたひたと伝わってくる。だが、美羅々はいまの時間を心から楽しんでいた。寒さと沈黙と、ふだんなら厭うべきものさえ気にならなかった。
亮介が食べかけのチョコレートを出し、ふたつに割った。半分を受け取りながら美羅々はきいた。
「あまいものとかすきなんですか」
亮介ははにかんだようにぎこちなくうなずいた。
「ゆっくりあまいもん食ってるとホッとするんだ。ガキのころはあまいものではいやな思いばっかしたから」
あまいものでいやな思い? 意味がよくわからない。
「おれ、おふくろが死んで、小五のとき新しい母親が来たんだ。いきなり兄貴がふたり、できた。おれ、少しすねちまって、それできらわれたのかもしれない。兄貴たちはおれをいびり始めた」
亮介はいやな思いでさえ楽しんでいるような口ぶりだった。
「母親はおやつとかは平等にくれるんだけど、兄貴ふたりは親の見てないところでおれからチョコとかクッキーとか取り上げちゃ、返してよこす。戻ってきたお菓子には庭のどろや砂がまぶしてあった。おれ、そのことだれにもしゃべらなかった。兄貴たちの仕返しがこわいってのもあったし、おとなにチクることが卑怯に思えたから。おれ、よごれたお菓子を水道で洗って食ってた。そうやって口に入れたチョコやキャンディってどんな味がすると思う?」
美羅々には想像もつかない。
「それでもうまいんだよ。あまくて。だけど、そんなものをうまいって感じる自分がすっげえみじめだった。おれは中学へ入ってすぐ、体をきたえたいからっておやじに頼んでボクシングジムへ通わせてもらった。本当の目的は隠してた。そのころになると、殴られたり、けられたり、兄貴たちのいじめはエスカレートしてた。おやじはおれたちのことにほとんど無関心だったし、母親は気づいていたみたいだけど、いつも兄貴たちの味方だった。ボクシング始めて三年め、中三のとき、おれは兄貴たちを公園へ呼び出してボコボコにしてやった。これが、おれがいまひとり暮らししてる理由」
亮介は初めてほんものの笑顔を見せた。やせたほおにえくぼが浮かぶのがわかった。
「美瑠璃のことは悪かったよ。家族にそんなに心配かけてるなんて思わなかったんだ。あいつとはちゃんと話し合うからだいじょうぶだよ。あんたも遅くならないうちに帰ったほうがいいよ」
美羅々は軽い憤りをこめて言った。
「あんた、なんて呼ばないでください。わたしは美羅々です。名前を呼んでください。妹と同じように……」
亮介はしかられた子どものような表情でうつむいてしまった。
美羅々は大胆な気もちになっていた。自分の中にも貪欲な性質がひそんでいることに気づいていた。美瑠璃が経験したことなら自分も経験したいと思った。
「わたし、寒いの」
美羅々はベッドを下りると、亮介のかたわらににじり寄っていった。肩にほおをもたせかけた。
ああ、亮介の体ってあたたかい、と思った。
復讐のアドバイス
朝食の席でひさしぶりに父をつかまえた。さりげなくきいてみた。
「水島さんってどんな人なの?」
清太郎は新聞に目を落としながら、トーストをかじった口を動かしている。顔も上げずにきき返してきた。
「なぜ、そんなことをきく?」
「とってもきれいな人だから。どんな人なのかなあって」
美羅々は父の表情の変化を見のがすまいと見守っていた。父の目がこちらを見た。けわしさをよそおった目。美羅々は直感した。父は何か隠したがっている、と。
「よく気がきいて、秘書として有能な女性だよ。それだけだ」
「水島さんってタロット占いとかしないのかな」
父はまた新聞に目線を落としてしまった。だが、顔つきが神経質になっているのを美羅々は見た。
目を合わすことなく言葉だけが返ってきた。
「そりゃ、若い女性なら占いとかに興味を持つこともあるだろう。ただ、水島くんとそんな話をしたことはないね。なんで、そんなことをきいてくるんだ?」
美羅々は紅茶のカップを口へ運びながら答えた。
「あの人、いい人そうだから、こんどお話してみたいなあ、と思って。わたし、タロットに関心あるから話題にできるかも」
この説明を父が納得したかどうかはわからないが、それきり黙りこんでしまった。
いっそ、副島から聞いた事実を突きつけ、問い詰めてみようかと考えたが、いまの時点で水島津紀子が悪いことしたと決まったわけではない。もう少しようすを見ることにした。
不意に父が顔を上げた。
「おまえはゆうべ、帰りが遅かったようだが」
思わぬ反撃を受けた気分でドキッとした。
「あっ、友だちのとこでおしゃべりしてたら遅くなっちゃって」
逃げるように食卓をはなれた。
登校時刻までまだ少し時間があるので美瑠璃の部屋をのぞいてみた。
妹はベッドにあおむいたまま、目を開けていた。
「気分どう?」
ひややかな声が返ってきた。
「お姉ちゃん、ゆうべ、どこ行ってたの?」
父親に返したのと同じ答えを口にした。
「きのうは亮介から電話もメールもなかった。あたしのほうから電話してあいつと話した。そしたら、家族と暮らせ、家の人に心配かけるな、なんて生活指導のおやじみたいなこと言いやがった。なんで?」
美羅々は沈黙した。
「お姉ちゃん、ゆうべ、亮介のとこ行ったんだよね?」
美羅々は硬直したまま美瑠璃の裁きを待つ思いでいた。
「あたしだって、バカじゃないよ。お姉ちゃんと同じ心を持つ妹だよ。お姉ちゃんが亮介のことどう思ってるかくらい気づいてるよ」
美羅々はうつむき、小さな声で、ごめんなさい、としか言えなかった。
「亮介とはエッチしたの?」
美羅々はわずかかぶりを振った。否定のつもりだったが、美瑠璃は信じるそぶりを見せなかった。
「お姉ちゃんって初めてだったんだろ? どうだった、痛かった? 亮介はちゃんと避妊してくれた?」
「やめて。亮介さんとはなにもなかったの。あの人、コーヒー入れてくれて、それを飲んで帰ってきただけ」
美瑠璃の表情がゆがんだ。泣いている。
「あいつ、あたしにコーヒーなんか入れてくれたこと一度もなかった。コーヒー作るのはいつもあたしの役」
美瑠璃は手の甲で涙をぬぐった。
「いつだってそうだよね。いつだって、あたしお姉ちゃんにはぜったい勝てないんだ」
涙が声をふるわせていた。
「あたしがテストがんばって八十点取ると、お姉ちゃんはいつも百点だった。あたしが徹夜してマフラー編んだら、お姉ちゃんはあたしより早くきれいに仕上げてた」
「美瑠璃……」
美瑠璃は濡れた顔を隠しもせず、美羅々を見あげてきた。
「バレンタインの日、あたしがすきな男の子にチョコあげに行ったら、その子、お姉ちゃんと楽しそうにおしゃべりしてた。何をやったって、あたし、お姉ちゃんに勝てないんだよ。こんどは亮介まであたしから取っていくつもり?」
美瑠璃の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、ひどいありさまだった。それでも、美羅々はいまほど妹を愛しく感じたことはなかった。
美羅々はかがみ込むと、美瑠璃の頭を抱き寄せた。着ている制服のブラウスが美瑠璃の涙と鼻水で汚れたが、それを厭う気持ちはまったく起きなかった。美瑠璃は幼いころに返ったように姉の胸に顔を押しつけ、声を上げて泣いた。
美羅々は妹の頭にほおずりした。短い髪がちくちくと肌に痛かった。
「美瑠璃。あなたは勝ったの。こんどはわたしに勝ったの」
ゆうべのできごとを隠すことなく美瑠璃の耳に吹き込んだ。
きのうの夜。美羅々はつかの間亮介と肩を寄せ合った。だが、かれはそっと美羅々から離れ、こうつぶやいた。
「あんたは美瑠璃そっくりの顔をしてる。でも、美瑠璃にはなれない。おれに必要なのは美瑠璃なんだ。美瑠璃じゃないとだめなんだ」
美瑠璃が顔を上げた。姉と妹は間近で見つめ合った。こんどは美羅々のほおにひとすじの涙が伝わった。
「わたし、ふられちゃったんだ」
そのうちにどちらからともなくクスクス笑い出した。
「そうだよ」と、美瑠璃が鼻をすすりながら言った。
「亮介みたいなワルいやつ、お姉ちゃんに合うはずねえよ」
「じゃあ、どんな人がわたしに似あうと思う?」
「ちびでブサ面で、うざいやつ」
「えっ?」
「そんなやつに首輪つけて引いて歩くの。女王さまみたいにつんつんして。それがお姉ちゃんにいちばん似あってる」
「ひどいよ!」
ふたりで笑い合っていると、ドアが開く気配がした。ふり返った美羅々は意外なものを見た。
美乃地が立っている。
「お兄ちゃん、部屋から出られるの?」
「おれだって足くらいついてるよ。それより気になることがあるんだ。来てくれ」
美瑠璃もベッドを抜け、パジャマの上にコートを羽織ってついてきた。
「お兄ちゃんが直立歩行すんのひさしぶりに見た気する」
「おれは類人猿じゃないぞ」
美乃地の部屋で三人してパソコンに向き合った。紅蝙蝠のサイトが開いている。主催者からのメッセージはありきたりのものだが、ほかにタロットの歴史、診断プログラムや相談コーナーの説明などがつづく。
美乃地が画面をスクロールした。
「これだ」
紅蝙蝠に所属する占い師たちのプロフィールが紹介されている。その中にヌウがいた。ヴェールで半面を隠したポートレート。生年不詳の五月十二日生まれ。おうし座のB型。明らかにされているプロフィールはそれだけだ。
「麻由子の誕生日ていつだっけ?」
「たしか五月のはず」
「このメッセージを読んでくれ」
美乃地が画面をクリックするとヌウのメッセージが拡大された。
〝わたしはふつうの女性なら三十年かかって経験するようなことをその半分の年月で体験してしまいました。そのことがわたしの精神の密度を高め、だれよりも早く高度なステージに到達させてくれたと思っています。もちろん守護神さま、そして紅蝙蝠さまがたのサポートにも感謝をささげないわけにはまいりません。今後はあたえられた力を存分に生かしてみなさまのお役に立ちたいと考えております〟
美乃地が妹たちをふり返った。
「ふつうの女性が三十年かかるところの半分、つまり十五年だ。麻由子が消えたのは十五歳のとき。意味ありげな一致だな」
美乃地はマウスを動かした。
「おれ、十五歳の女子中学生になりすましてヌウに相談のメールを送ってみたんだ。返ってきた答えがこれ」
返信欄が開かれた。
美羅々は美瑠璃とほおを寄せ合うようにして読んだ。
〝復讐〟という文字がまっさきに目に飛び込んでくる。
美乃地の声がした。
「おれが成りすました架空の女子中は、カレシを親友にうばわれた子なんだ」
キモい、と美瑠璃がつぶやいた。
美羅々は亮介とのことを言われた気がしてうつむいた。
「おれ、じゃなかった、あたし、つまりその女の子が親友と絶交したらいじめを受けるようになった。いまでは元カレまでいっしょになってあたしをいじめてくるの。あたし、くやしくて悲しくて死んじゃいたい、って思ってる……」
声色をつかう美乃地に、美瑠璃がボソッと言った。
「お兄ちゃんってじつはオネエ系だったとか?」
アドバイスを見ると〝泣いてはだめ。泣くひまがあったら復讐することを考えなさい〟と、ある。
これってほんとうに麻由子が書いたものなのだろうか、と美羅々は首をひねった。
〝あなたは裏切られ、いじめられ、苦しんで、はずかしい思いまでさせられて不幸だった。もし、あなた自身が生まれながら背負ってきた原罪のようなものがあったとしてもそれはこれまでの苦しみでじゅうぶんつぐなったはずです。だから、いまのあなたはとてもピュアな存在なのです。他人を罰する資格があるのです〟
そのあと、元カレにはこういう復讐をして、友だちにはこんな手段で仕返しして、と具体的なアドバイスが列挙されている。そのどれもが、いかに相手を傷つけ苦しめるかに主眼を置いた陰湿なものだった。
「なによ、これ」
美羅々は思わずディスプレーから顔をそむけた。
「麻由子じゃねえよ。あんな優しい子がこんなこと書くわけねえ」
美瑠璃は強い口調で言ったはずみに咳こんだ。
美乃地が顔をしかめた。
「細菌をまきちらさないでほしいな。おれ、免疫弱いんだから」
美乃地はイスごとふたりへ向き直った。
「おれがこれを読んで感じたのは、ずいぶん感情的な文章だなあ、ってこと。相談者にまるきり感情移入してしまって、相手を見失っている。ふつうの子がこんなアドバイス受けたらかえって引いちゃうんじゃないかな」
「真に受けて飛び下りようとするやつもいるけどな」
美瑠璃が吐き捨てるように言った。
美羅々も気分が悪くなっていた。
「こんなものほうっておいたら、とんでもないことする子がふえるかも」
美乃地の言葉がつづく。
「ヌウ自身が復讐にとりつかれていると考えていいんじゃないのかな。だれかへの復讐を目的にこの街へ帰ってきたのかもしれない」
美羅々は決心して、ヌウのフォーチュンハウスの借り主が水島津紀子で父が保証人になっていることを打ち明けた。
美瑠璃がくちびるをゆがめてつぶやいた。
「あのクソおやじの秘書がヌウと関係ありだったのかよ」
美乃地が言った。
「ヌウの動きからしばらく目をはなさないほうがいいかも」
美羅々はきいた。
「お兄ちゃんはヌウの復讐の相手はだれだと思う?」
「ヌウが麻由子だと仮定すれば考えられるのは母親」
美羅々は夢路の奇矯な態度を思い浮かべた。
「つぎに考えられるのは、おまえたちだ」
美乃地は妹たちを指さした。
「あたしたちに復讐だって? なんでだよっ。麻由子に憎まれるおぼえなんかねえよ」
美羅々はあのときの麻由子のまなざしを思い出した。
車のリアウィンドウから見えた顔。
救いを求めるようなまなざし。
麻由子はわたしたちに何を求めていたのだろう。
「あたしの仲間にヌウの監視をやらせよう。ところでさ、お姉ちゃん、学校はいいのかよ?」
美羅々は時計を見て、あわてた。時刻は完全に遅刻モードに入っていた。
見えざる殺人
Zの店内では大学生風の男女八人がふたつのテーブルを占めて騒いでいる。
美瑠璃たちはいつもの丸テーブルにいた。
「おれ、やりますよ。その占い師のマンション見張ってりゃいいんですよね」
ランプが勇んだ声で言った。ドンはかったるそうにイスの背にもたれかかり、亮介はきょうはいない。
「おまえ、ずいぶん気合入ってるね」
美瑠璃がからかうと、ランプは頭をかいた。
「美羅々の頼みっすから」
そのとき学生たちの席で大爆笑が起きた。美羅々たちの会話がかき消されてしまうほどの大声だ。幸次がカウンターから出てきて、騒いでいる学生たちに何か言った。その顔はひどくけわしい。男子学生のひとりが立ちあがる。学生の顔にも怒りの色がある。幸次はかれとにらみ合った。
マスターのおやじが出てきた。幸次をいさめ、学生にわびを入れている。そのうち学生たちは不服そうな顔つきで店を出て行った。
ランプがつぶやいた。
「幸次のやつ、さっきの客たちにうるさいってブ―垂れたみたいだ」
マスターは幸次を店のすみへ連れていき、叱っていた。
美羅々には今しがたの幸次の行動が気になっていた。かれはキレやすい性格なのだろうか。
幸次はエプロンをはずすとプイッと店を出て行ってしまった。
「あいつ、どうしちゃったわけ?」
ランプのつぶやきを耳にして、美瑠璃が立ち上がった。
「じゃあ、あんたら、フォーチュンハウスの見張り頼んだよ。お姉ちゃん、行こう」
美羅々たちが外へ出ると、ビルのかべにもたれてZのマスターがいた。空を見上げている。
「おやじ、どうしたの? 幸次どうなっちゃったの?」
美瑠璃が声をかけると、おやじは鼻をこすった。
「あいつも悪気はないんだろうが、もうちっとおとなになってもらわねえとな」
「おやじって、ほんとうの父親みたいな口きくんだね」
「ああ。あいつがまだ小学生のころから面倒みてきたんだ」
「へえ、知らなかった」
マスターは口をつぐむと店へ戻って行った。
うしろに足音がしたのでふり向くと、ランプが息を切らせていた。
「あの、またあぶない目に会うとこまるから、おれ、駅まで送りますっ」
美瑠璃があざ笑った。
「あたしがいるんだ。だいじょうぶだよ」
ランプは顔に当惑を張りつかせ、立ちつくしている。
美羅々は助け舟を出すつもりで言った。
「ありがとう。でも、心配いらないから」
ランプはちょっと残念そうな顔をしたが、ほおを赤らめ言った。
「おれ、美羅々さんのためなら何でもやりますから、なんかあったらいつでも言ってください」
ランプはクルッと背中を向けると、足早に去って行った。
「あいつ、お姉ちゃんに気があるんだな」
美羅々は前に美瑠璃に言われたことを思い出した。
ランプという少年に荷物とかをぜんぶ持たせてうしろに従え、女王さまみたいな顔で通りを歩いてみたら……どうだろう?
美羅々は小柄なランプのうしろ姿を見送りながらつぶやいた。
「それもいいかも」
美瑠璃がハァッ? と、こちらをふり返った。
「雪だ!」
美瑠璃が声を上げた。
ふたりは同時に手のひらを空へ向けて雪を受けていた。ふわふわ綿毛のように大つぶな雪は手の上でたちまち水滴に変わった。
「お姉ちゃんはこれからどうすんの?」
「麻由子の家をもう一度たずねてみる。もし麻由子がこの街へ帰ってきてるなら、おかあさんに連絡いってるかもしれないし」
「気をつけてな。あたしはちょっとほかに行くところあっから」
ふたりは駅前でわかれた。美瑠璃の姿はすぐ雑踏にまぎれてしまう。亮介のもとへ行くのだとわかった。美羅々は取り残されたようなさびしさをおぼえながら在来線のホームへ向かった。
一日の乗降客数十五万人の呼越駅の駅舎は地下二階、地上五階のビルになっている。駅に突きあたるメインストリートから東西へそれぞれ一番街、二番街……と五番街まで番号を振られた通りがある。ただし四番街だけは不吉な四という数をさけて〝並木通り〟と呼ばれている。じっさいはどの通りにもケヤキが植えられ、並木道になっているのだが。
もうじき並木道はイルミネーションに彩られ、光のトンネルと化すだろう。
美羅々はこの街がすきだ。みんな東京、東京と騒ぐし、美羅々も母が健在のころにはしばしば新幹線に乗って都内までショッピングやレジャーに出かけたものだ。でも、いまはこの街にいるだけでじゅうぶん満ち足りた気分にさせられる。
雪はじきに降りやんだ。電車とバスを乗りついで、麻由子の家に向かった。見覚えのある家の間近に来たとき、ハッとして足を止めてしまった。門の前にバイクが止まっている。幸次が来ているらしい。店を飛び出したあとここへやって来たのか。
美羅々がどうしようか迷っていると、隣の家から犬のリードを引いて年配の主婦らしい人が出てきた。目が合ってしまったのでしかたなく会釈すると、主婦はメガネの奥の目をきらめかせて近づいてきた。
「あなた、この前もいらしてなかった?」
主婦は好奇心のかたまりらしい。さも大事なことのようにささやいた。
「いま、つばめが来てるのよ」
つばめ?
美羅々は思わず夢路の家の屋根や軒下を見やった。どこにもつばめなんか見えない。
美羅々の怪訝そうな表情を読み取ったらしく、主婦は声をひそめて言った。
「いまどきの若い人につばめなんて言ってもわかんないわよね。つばめってのはね、年下の愛人のことよ」
美羅々は詮索ずきに見えるこの主婦に、麻由子の父親についてきいてみようと思い立った。
「この家のおとうさんっていないんですか」
美羅々がすでに知っていることをわざときいてみると、主婦の目が輝いた。雑種らしい小柄な犬は荒い息づかいで見あげてくる。
美羅々はお愛想のつもりであごをなでてやった。
「最初のご主人とは離婚。二度めのだんなはゆくえふめい」
夢路が言ったとおりだ。
「ゆくえふめい?」
「そう。いつの間にかいなくなっちゃって。ここの奥さんってちょっと変わった人だから、いやけが差して家出しちゃったのかしら、なんて近所ではうわさしてたの。その直後からかしら、若い男の子が出入りするようになったのは」
麻由子の義父がいなくなったあとから、幸次とのつきあいが始まったのか。これって偶然だろうか。
主婦は美羅々の反応を楽しんでいるかのようだった。
「奥さんはそれから生活が派手になって、家を改装してきれいにしたり、観葉植物買い込んだりで独身生活楽しんでいるみたい」
美羅々は白い家をさりげなくふり返った。小じんまりした端正な家。そこに夢路という女のエゴや欲望が立ちこめている気がして、美羅々は不意にさむけをおぼえた。
犬がしびれを切らせたのか、飼い主の足に頭を押しつけ散歩をねだり始めた。主婦が去っていくと、玄関のドアが開くのが見えた。美羅々はあわてて向かいの電柱のかげに身を寄せた。
幸次が出てきた。顔色が悪く、思いつめた表情でいるのが気にかかる。バイクで走り去って行く幸次の背を見ながら電柱をはなれると、いきなり肩をつかまれた。ふり向くと夢路がいた。
「あなた、あたしのことスパイしてたのね」
スパイという言葉が現実ばなれしてユーモラスに聞こえた。
だが、夢路の顔は真剣だった。
「わたし、そんなことしてません。ただ、麻由子からその後、連絡とかなかったかなあ、って気になって来てみただけです」
「とりあえず、中へ入って」
この間と同じリビングへ通されるや、夢路はうす笑いを浮かべた。
「そんなにあの子のことが気になるの? じゃあ、ほんとうのこと教えてあげましょうか。麻由子ちゃんはね、わたしが食べちゃったの。ムシャムシャムシャってね。おいしかったわ」
美羅々はあきれて心の中だけでつぶやいた。
(なによ、それ? 自分の娘がゆくえふめいになっているのに、なんでそんなギャグ言えるわけ?)
「あなたもおいしそう。ねえ、かじらせて」
夢路は美羅々の手首をとらえた。少年に手をつかまれたときの恐怖がよみがえり、美羅々はあらがった。
「かじらせて、かじらせて」
夢路はとらえた美羅々の指を口にふくんだ。
「はなして!」
夢路の舌は貪欲に美羅々の指をしゃぶりまわし、このままではほんとうに指を食いちぎられてしまうのでは、という恐怖にとらわれた。思わずふりわまして手の甲が夢路のほおに当たった。
顔をはなした夢路は燃えるようなまなざしをぶつけてきた。
「あなた、わたしのことばかにしてるのね」
美羅々はリビングを飛び出し、玄関へ向かったが、夢路に先回りされてしまった。
とっさに取り出したスマホの短縮コールで美瑠璃を呼び出した。
『どうした、お姉ちゃん』
「いま、麻由子の家。来て、助けて」
いきなりタックルを食らわされ、美羅々はスマホをはじき落とされてしまった。床のスマホを夢路と奪い合った。だが、したたかな夢路はすばやく手を伸ばしスマホは彼女の手にとらえられた。
「返してください」
「なんで助けなんか呼んだのよ。ただふざけただけなのに」
美羅々はスマホを取り戻そうと腕を伸ばしたが、夢路は子どもが意地悪するようにスマホをこれ見よがしに頭の上にかざしながら逃げまわる。
「いまの子ってケータイ中毒なのね。おもしろいっ、いじわるしちゃおうっと」
夢路は階段を駆け上がる。追いかけながら、美羅々はこんなの馬鹿げてる、と思った。
なんで麻由子のおかあさんと鬼ごっこしなくちゃいけないのよっ。
夢路が二階のひと部屋へ走り込んだ。あとを追って飛び込んだ美羅々はハッとして足をとめた。そこは見覚えのある麻由子の部屋だった。やわらかなピンクのカーテンが初冬の日ざしをさえぎっている。
子どもっぽさの残る学習机には中学時代の教科書やノートがそのままになっていた。ファンだったアイドルユニットのポスターがかべに貼ってある。いまにも麻由子が中学の制服のままここへ帰ってきそうな気がして、美羅々には胸にせまるものがあった。動くこともできずひとり涙ぐんでいた。
ぜったい、麻由子に再会し、こんどこそは心を開き合って、彼女が抱える悩みの解決に協力してあげようと思った。その思いが美羅々を急に強くした。夢路を正面から見すえると行った。
「麻由子はこの家に帰ってくるのをこわがっていました。教えてください。あの子に何があったんですか」
夢路はくちびるをゆがめ、スマホを投げ返してきた。このとき夢路の顔がひどく老いてみにくく見えた。
「何不自由なく育ててあげたのに、夜中にほっつき歩いて補導されたり、あの子本人のせいよ。あたしは関係ないわ」
美羅々は引きさがらなかった。
「麻由子はいまこの街に戻って来ています」
「なんで、あんたにそんなことわかるのよ」
美羅々は夢路の問いを無視して言いきった。
「麻由子はだれかに復讐するために帰ってきたんです」
階下でチャイムが鳴った。夢路は動かない。その顔つきからある感情が読み取れた。それは〝おそれ〟だった。チャイムに対して、ではなく、美羅々の口から出た〝復讐〟という言葉に対するおそれだ、と美羅々は解釈した。
チャイムはドアをたたく音に変わり、やがて声がした。
「お姉ちゃん、いるのかよっ」
美瑠璃だ。それでも夢路は動かない。その口から声がもれた。
「復讐ですって? それはわたしに対してじゃないわよね。わたしは精一杯あの子を愛しててあげたんだから」
階段を駆け上がって来る足音。開け放たれたドアの向こうに美瑠璃が現れた。そのうしろに亮介の姿も見える。美羅々は亮介を見るなり、妹に助けを求めてしまった自分の弱さを恥じていた。
夢路はかれらの姿を目にとめると、頓狂な声を上げた。
「あら、思い出したわ。あなた、妹さんね。ずいぶん変わっちゃったのね。うしろのすてきな人はだれ? カレシ? イケ面ねえ。ねっ、わたしにも紹介して」
唐突な態度の変化だった。
美瑠璃は夢路を無視して美羅々にきいてきた。
「だいじょうぶかよ」
美羅々はうなずくほかない。
夢路が両手をポンと打った。
「そうだわ、せっかく若い人が集まってくれたんだから、これからみんなでお食事でもしましょうよ。お寿司でも取る? それともステーキを焼こうかしら? あっ、すき焼きとかどう? いっそピッツァでも頼む?」
「いいえ。帰ります」
美羅々は美瑠璃に寄り添って部屋を出た。
うしろから夢路の声が追いかけてくる。
「美羅々ちゃん、お願い、わたしのこときらいにならないでね」
美羅々たちは連れだって外へ出た。
「なんか、あのオバはん、頭ん中ぶちキレてねえ?」
美羅々はさりげなく亮介のほうを見たが、亮介は近くに止めたバイクに寄りかかったきり、そっぽを向いていた。美瑠璃はかれとふたり乗りしてここへ駆けつけてくれたらしい。
「やっぱ、麻由子が家出した原因はあのオバはんって気する。あんなのといっしょにいたら、だれだって、うざったくなる」
美瑠璃はそう言うなり亮介をふり返った。
「わりい。あたし、お姉ちゃんといっしょに帰るから。あたしのメットは預かっておいて」
亮介は無表情にうなずくと、バイクにまたがり走り去っていった。ふたりの間にどことなくすきま風のようなものを美羅々は感じ取った。その理由は自分とのことだろうか、と美羅々はやましい思いにとらわれた。
「亮介さんとはうまくいってるの?」
「あんまし」
「わたしのせい?」
「かもな」
そう答えて美瑠璃は笑った。
「ほんとはお姉ちゃんのせいじゃないよ。あいつ、あたしにいやけ差してきてるのかもしれねえ。なんとなくわかるんだ。いまのあたしたちって中途半端な関係だし。あいつって、親に反抗はしてるけど、根はけっこうマジなやつだから」
美羅々のスマホが着信した。美乃地からだ。
『だいじな話がある。すぐ家に戻れる?』
美羅々は得た情報をかんたんに伝えてから 美瑠璃とバスで家に帰った。
美乃地は上半身Tシャツ一枚で部屋で腕立て伏せをしているところだった。美羅々は兄のうすい背中を見るうちにその上にドスンと飛び乗ってやりたくなった。
なんだろう、この思い。
もしかして、わたしってSだったりして……新たな自分を発見した気分だ。
「やった。五回できたぞ」
「そりゃおめでと。つぎは土俵入りめざしてがんばれよな」
美瑠璃のいやみをスル―して美乃地は言った。
「この事件、もはや、そう呼んでもいいと思うけど、今後重大なものに発展する可能性ありだと思う。消えた内縁の夫。家の改装。その改装を請けおった業者を突きとめられないかなあ」
「改装工事が麻由子と関係あんの?」
美乃地の顔にかげが差したように見えた。
「痕跡を隠すために室内を模様替えした可能性がある」
「痕跡って、なんの?」
「殺人。たとえば、血の痕とか」
「そんなのおかしいだろ」と美瑠璃が声を上げた。
「血のつながらないおやじがいなくなったのは麻由子が消えたあとだろ。殺人とかあったとしても麻由子とは関係ないだろ」
「おれは麻由子が犯人だなんて言ってない。ただ、同じ家の中で娘とその義父があいついで失踪したのが偶然のできごとだとは思えないんだ」
「で、だいじな話ってのはそれだけ?」
美瑠璃の問いに美乃地は立ち上がった。
「リビングへ来てくれ」
リビングのドアを開ける前に美乃地はシーッとひとさし指をくちびるに当てた。何をしようとしているのか美羅々にはわからない。室内へ入ると、美乃地はソファの前にかがみ込み、何か引っぱり出した。ちょっと古い型の携帯電話だった。短いワイヤがつながれ、その先にマッチ箱大のケースのようなものがついている。
声を出すなと指示されているので美羅々も美瑠璃も押し黙ったまま兄の手もとを見ていた。
美乃地はほほ笑んだ。
「いまは着信してないから声を出してもだいじょうぶだよ」
「それってなんなの?」
「携帯を利用した盗聴器だ。自動着信機能を使って人がキ―タッチしなくても通話状態にできるんだ。携帯につないだ高性能マイクがこっちの音声を拾い、携帯を通して向こうに聞こえるという仕組み。ソファの裏に粘着テープで貼りつけてあった。きょう見つけたんだ」
「なんで、そんなものうちにあるわけ?」
美乃地は肩をすくめた。
「こっちがききたいよ。だけど、この家のだれかがこんなものしかけるわけがない。最近よその人でここへ入った人はいないかな」
美羅々はすぐ水島津紀子を思い浮かべた。
お酒に酔った父をここへ運びこんだとき、美羅々がキッチンへ水を取りに行った時間があった。あのときに津紀子がしかけた?
美羅々はそのことと、副島から聞いたフォーチュンハウスと津紀子との関係についても伝えた。
「お姉ちゃん、そんなだいじなことなんで黙ってたんだよ」
「ごめん。副島さんとの約束だったから」
「お姉ちゃん、副島モードにはまってるぞ」
美乃地の手の中で携帯のディスプレーが点滅した。着信音は鳴らない。サイレントマナーモードに設定してあるのだろう。当然のことながら発信者は非通知だ。
美乃地は妹たちに目くばせし、わざとらしくしゃべり始めた。
「水島さんっておやじの愛人なんじゃないのかな」
美乃地は片手をぐるぐる回し、なにか話せと合図を送ってくる。
美羅々は思考をめぐらせ、津紀子がいまモニターしているのなら、相手をかく乱するようなことをしゃべってやろうと思い立った。
「愛人だったらいやだな。あの人って警察からもマークされてるし」
「へー、そうなんだあ」
「ヌウと関係あるかもしれないって。刑事さんが言ってたもん」
「じゃ、もうすぐやばいことになるんじゃねえの」
携帯は切れた。美乃地はソファの下に盗聴器を戻した。
「充電切れする間にこれをしかけたやつはもう一度この部屋へ来ると思う。それを待とう」
美瑠璃のスマホが歌い出した。美瑠璃は不審そうにディスプレーを見ている。
「こっちも非通知だ」
スマホを耳にあて、美瑠璃の顔色が変わるのがわかった。
「えっ、あんた麻由子? マジで? ほんとに麻由子なのかよっ」
美瑠璃が通話しながらこちらを見た。目が血走っているのがわかった。
麻由子からのメッセージ
美瑠璃は一点を見つめ、耳に神経を集中させているようすだ。かたわらの美羅々にはとても長い時間に感じられたが、じっさいの通話は一分ほどだったにちがいない。電話が切れたあとの美瑠璃は幽霊にでも出会ったような顔をしていた。
「あしたの午後六時に天神台公園で待ってるって」
「ほんとうに麻由子だったの? だれかが麻由子のふりしてたとか?」
美瑠璃は首をかしげた。
「声だけならなんとも言えねえ。でも、いまの季節ならハチはいないわね、って笑ってた。あのできごとを知ってるなら麻由子にまちがいねえよ」
美羅々の中で記憶がよみがえる。
あれは小学六年の夏休み。姉妹と麻由子の三人はバスに乗って市内の天神台公園に遊びに行った。公園は近世の城あとを整備したもので石垣にかこわれた丘の上にある。女の髪がからみあうようによく茂った森にかこまれ、頂には展望台や芝生、ブランコやすべり台などの遊具も備わっている。
三人は微妙な時期に差しかかっていた。心の七割が女の子で、二割がおとなの女で、残り一割が男の子だった。おしゃれをして街を歩いてアイスを食べる、そんな一日のすごしかたもあったはずだ。でも、その日、三人の少女はしめし合わせたように洗いざらしのTシャツにデニムパンツ、素足にスニーカーといういでたちで公園にやって来たのだった。
もしかしたらその日は〝男の子〟の心がまさっていたのかもしれない。三人は鬼ごっこをして遊んだ。 思春期間近の女の子が鬼ごっこ? と、あとから思えば美羅々は笑ってしまうが、あの日の三人にとってはそれが自然だったのだ。
夏の日差しは彼女たちのためにあるかのようだった。白いTシャツが光をはね返し、おたがいの姿がまばゆいほどだった。三人は声を上げて走りまわり、小学生最後の夏休みを満喫していた。 彼女たちは本能的に気づいていた。自分たちの中で砂時計の砂がさらさら落ちていき、子ども時代がもう残り少なくなっていることを。
はしゃぐうちにとつぜん麻由子が凍りついて動かなくなった。
「どうしたの!」
麻由子は泣き出しそうな顔で自分の肩を見やっている。おとなの親指ほどもあるハチが麻由子の肩にとまっていた。スズメバチだとひとめでわかった。美羅々はかぶっていた帽子を手に追い払おうとした。それを止めたのは美瑠璃だった。
「だめ! そんなことしたらお姉ちゃんまで刺されちゃう」
麻由子の顔には恐怖があふれている。スズメバチはこの場の支配者になったように麻由子の肩に君臨していた。緑多い呼越市では夏から秋にかけてスズメバチの被害が増え、死者が出ることさえある。美羅々たちもその凶暴さと毒性の強さを知っていた。
美瑠璃は冷静だった。茂みから小枝を拾い上げ、かんでいたガムをその先にからめた。ついでミニリュックからおやつのキャンディをつまみ出し、ひとしゃぶりするとガムへ貼りつけた。キャンディつきの枝をゆっくり麻由子の肩へ近づける。キャンディのあまい香りにさそわれたのかハチは不意に飛び立ち枝の先にとまった。美瑠璃はハチつきの枝を地面に下ろし、三人はそろりそろりとその場をはなれた……。
このできごとは三人のほかにだれも知らないはず。と、いうことは電話をかけてきたのは麻由子本人にまちがいない。
「あたしたちふたりだけで来てほしいって」
美乃地の表情が真剣なものに変わった。
「危険だな」
美瑠璃が突っかかるような口調で言い返した。
「もしかしてまた、あたしたちをビビらせようとしてる?」
メガネの奥で美乃地の目が細まる。
「麻由子はなぜきょうになって連絡を取ってきたのだろう。もっと早くおまえたちと話そうと思えばできたのに。何かたくらんでいることはたしかだ」
復讐。美羅々はこの言葉を思い出した。彼女はわたしたちに復讐するつもりなのか。いったいわたしや美瑠璃があの子に何をしたというのだろう。
「あたしは行くよ。麻由子は悪いことなんかできる子じゃあない。会って、あの子に何が起きたのか聞き出してやる」
美羅々は妹の言葉に勇気を得た。
「わたしも行くわ、ぜったい」
美乃地は落ち着きはらった口調で言った。
「もし麻由子に会うつもりなら、警察へ連絡しておくのがいいかもしれない。捜索願の出ている子が戻って来たなら、警察も動いてくれるだろう」
「あたしはいやだ。麻由子はこのことはあたしたち以外には話さないでって言ったんだ。警察なんか呼んだら、あの子を裏切ることになっちまう」
闇の中の麻由子
天神台公園へ向かうバスの中で、美羅々は昨夜のことを思い出していた。夢路の家で内装工事を請け負った業者を突きとめたのだ。三人で手分けし、ネットとタウンページを活用し、市内の業者の一覧を作った。七十件近くあった。あとはかったぱしから電話をかけ、おととしの冬に都筑さんという家の改装工事をしたことはないかとたずねまくった。なんでそんなことをきいてくるのかという突っこみには、「都筑さんからいい業者さんがいると聞いた。でも、都筑さんはもうひっこしてしまったのでどこの業者さんかわからないので」と調子よく答えておいた。
「こんな電話かったるくてうざい」
始めて十五分で美瑠璃は音を上げたが、一時間後、美羅々はそれらしい業者に当たった。人のよさそうな男の声が答えてくれた。おととしの十二月ごろ、三日間かけて都筑さんの家のリビングでクロスとフローリングの張り替え工事をしたという。クロス一面に茶色いしみが飛び散り、フローリングの目地にも赤黒いよごれがたくさん付着していたという。
夢路はコーヒーポットをひっくり返してしまったのだと説明したらしい。業者は声をひそめて、なんだか血のようで気味わるかったと語った。
美乃地の予想は当たってしまったのだろうか。ぬぐいきれないほどの血痕がもし残されていたとすれば惨劇があったと想像してもあながち不自然ではない。
公園下でバスを降りた。約束の時刻までまだ三十分あった。あたりはもう暗い。巨大な石垣にかこわれた小高い丘の上までなだらかな坂を歩いた。S字を描く坂道はところどころ街灯はあるもののまわりの森は暗黒そのもので、ほの白く浮かび上がる道は異世界に通じているかのように見えた。
美瑠璃がいっしょでなければこわくてひとりでは歩けないだろうと思った。
息が白い。あの夏の日、三人は大声ではしゃぎながらこの坂を上った。何を話したんだっけ? と美羅々は記憶をたぐり寄せた。たぶん、学校でちょっと気になる男の子のことや、先生のかげ口、すきな音楽、話題の映画、中学でやってみたい部活、行ってみたい国、脈絡もなく話題は変わっていき、だれがどんなテーマを切りだそうとも、みんな一瞬で会話に入りこむことができた。
いまは寒い十二月初旬の夕暮れ。麻由子はもう来ているのだろうか。彼女がすでにどこかにひそんで美羅々たちを見つめているような気がした。
しばらく行くと、ステンレスの車止めが行く手をふさぎ、街灯にぼんやり照らされた公園内は深い海の底に沈んだかのように見えた。コンクリートの展望台がある。上がれば夜景を楽しむこともできるだろうが、ふたりはかべを背に麻由子を待った。どちらも無言だった。
美羅々は恐れていた。友だちに会えるという期待はうすれていき、いま待ちうける相手が異次元から来る怪物であるかのように思えてきた。
美瑠璃の手もとが明るくなった。スマホのディスプレーで時刻をたしかめたようだ。
「あと五分だよ」
もしかして美瑠璃への電話はハチの件を知っただれかのいたずらで、麻由子は現れないのでは、美羅々はそんなことを思い、同時にそれを望んでいる自分を知った。このまま何も起こらなければいい。そうすればこわい思いをしなくともすむかもしれない。いつの間にか臆病な風が胸の中を吹きぬけていった。
突然、カンカンカンッと鉄の階段を下りてくる足音が響いた。ふたりははじかれたようにかべぎわをはなれ、降りてくる人影を見守った。影のような人物はゆったりした足取りで地上に降り立った。
ふたりは瞳をこらし、相手の正体をたしかめようとした。
頭が大きく見えるのはつば広の帽子をかぶっているからだとわかった。街灯の明かりに半面が浮かび上がる。幽霊のような姿と記憶の中の麻由子とを重ね合わせるのにしばらく時間を必要とした。
美羅々の視界で黒い幽霊はようやく麻由子のかたちを取り戻した。
麻由子は黒いコートに帽子もストッキングもブーツもすべて黒づくめに装っていた。
美瑠璃がするどい声を出した。
「勝手にいなくなりやがって、いままでどこにいたわけ?」
麻由子がほほ笑むのがわかった。美羅々はその笑みの寒々とした美しさに背中が震える気がした。
麻由子の微笑は仮面のそれだった。作られた感情を張りつかせた心を持たない面。
この二年間で麻由子は美羅々たちの年齢を飛び越えてはるか先へ行ってしまったかのようだ。
麻由子のくちびるがうごめいた。
「おひさしぶり」
美瑠璃は怒りをこめた声で言い返した。
「なにがおひさしぶりだよ。ババアみてえなあいさつするんじゃねえ。あたしたちをだますようなまねして、どうしていなくなっちまったんだよ」
麻由子はそれには答えず、闇の奥を見つめるまなざしになってつぶやいた。
「楽しかったよね。ここで遊んだときのことおぼえてる?」
装った仮面のすきまにかつての麻由子の面影がのぞいた。
「あの日、スズメバチがとってもこわかった。あなたたちがわたしを助けようといっしょうけんめいになってくれた。うれしかった」
美羅々の脳裏に車のリアウィンドウごしに見た麻由子の顔がフラッシュバックした。あのとき麻由子に何が起きていたのか、知らなくちゃいけない。
美羅々は一歩進み出た。
「教えて、麻由子。あなたの家で何が起きたの? なぜ、とつぜんいなくなったりしたの? この二年間どこにいたの?」
美羅々は麻由子のまなざしに射すくめられた。悲しすぎる目だ、と感じた。だがそのまなざしに浮かんだ感情はすぐ仮面の中へと引きこもってしまった。
麻由子が踵を返した。
美羅々は思わずさけんでいた。
「待って。行っちゃだめ!」
ここで麻由子を失えばこんどこそ永遠に会えなくなってしまう、そう直感した。
美羅々は必死の思いで言った。
「あなたはまたわたしたちの前から消えてしまうつもりでしょ。そしてこんどは二度と帰ってこない。もうそんなまねはさせないわ」
美瑠璃が麻由子の行く手をはばんで前に回り込んだ。
「うちへ来いよ。またむかしみたいに部屋でおしゃべりしよう」
だが、麻由子の声は氷よりもなお冷やかに響いた。
「もうおそいの、すべてが」
美瑠璃の口調がけわしくなった。
「お姉ちゃんの言うとおり、おまえ、また消えちまうつもりだろっ。またあたしたちを最後の目撃者にするのかよっ」
そのあとに麻由子の口から出た言葉を美羅々は信じられなかった。
「あなたがた、かんちがいしないで。わたしがいまでもあなたたちのことすきだと思ってるの?」
美羅々は返す言葉を思いつけずに立ちつくしていた。
美瑠璃が詰め寄った。
「ふざけんなよっ。さんざん心配かけといて、いまさら友だちじゃないってかっ?」
麻由子の手がコートの合わせ目にすべり込むのが見えた。なにか凶器を取り出すしぐさにも映り、美羅々はハッとなった。だが、麻由子が手にしたのは大判の白い事務用封筒だった。
「この中に」
と、麻由子は封筒を高くかざし、軽く振ってみせた。
「わたしのすべてが記してあるの」
麻由子は封筒を足もとへ落とすと、美瑠璃を押しのけ歩きだした。コートのすそがひるがえり闇にまぎれた。美羅々はとっさに封筒を拾い上げていた。
「待ちな」
美瑠璃があとを追い走った。
美羅々が封筒の中をのぞこうと気を取られた瞬間、悲鳴を聞いた。顔を上げると、うずくまる美瑠璃の背中が見えた。何が起きたのかわからず、目を泳がせた。遠ざかる麻由子のうしろ姿。地面に崩れ落ちた美瑠璃のかたわらに人影が見えた。ニット帽を目深にかぶり、白いマスクとゴーグルをつけた人物が美瑠璃を見下ろしている。顔はわからないが男であるのはたしかだ。
妹が危害をくわえられた。そう判断した美羅々は一瞬足がすくんでしまった。暗い色のトレーナーを身につけた相手はそう大柄ではないが、まがまがしさを漂わせ、美瑠璃にとどめを刺そうとしているかに見えた。
「やめてっ」
美羅々にはさけぶことしかできなかった。
声を聞いて、男はこちらをふり返ることさえなく走り去って行った。
美羅々はうずくまったままの妹のもとへ駆け寄った。そのとたん目と鼻とのどがトゲのたばで突かれたような痛みに襲われ、咳こみ、涙が流れ出た。鼻は強い刺激臭をかぎとっている。
それでもなんとか美瑠璃の背中へ声をかけた。妹は苦しげなうめきを上げながら、地面をかきむしっている。美羅々自身も感覚器官の痛みと悪心とで倒れそうだったが、どうにか手探りでポケットのスマホを探り当てた。
涙と鼻水があふれ、のどは痛み、呼吸さえ困難に感じられる。必死に指先でディスプレーをなで、電話で救いを求めようとした。
「お姉ちゃん……苦し……いよ」
美瑠璃の声を聞き流し、電話に出た相手に助けを求めた。だれに通じたのかも曖昧だった。
『何があった? いま、どこにいるんだ?』
聞こえてきたのは副島の声だった。
悲しい貯金箱
美羅々は目の前の副島を見あげた。副島が手配してくれた救急車で搬送された病院の救急病棟にいまいる。廊下のソファに腰を下ろす美羅々を見る副島の目はするどかった。
「おまえ、なにか隠してるだろ? こんな寒い晩に夜景を見に公園へ行ったって? 説得力ないな。ほんとうの目的はなに?」
美羅々たちを襲った凶器は護身用の催涙スプレーらしい。美羅々は空気中に残留しているガスを吸っただけなので軽い被害ですんだが、まともにガスを浴びた美瑠璃はまだ処置室のベッドに横たわったままでいる。医師の話では、しばらく休めば回復するし後遺症も残らないだろうということだ。
「妹さんはまだゼエゼエ言って苦しんでいる。これは凶悪な傷害事件だ。現場じゃ鑑識が動いたし、公園の周辺に緊急配備かけて、数十人の警官が出動した。ただのお遊びやいたずらでした、じゃすまない事件なんだよっ。わかる?」
きつく言われ、美羅々は涙ぐんでしまった。それでも麻由子に会ったことだけはだれにも話すまいと心に決めていた。
女性看護師が処置室から顔をのぞかせた。
「お姉さん。妹さんが会いたがっていますが」
副島が行け、というふうにあごをしゃくった。処置室に入ると、美瑠璃は目の上にタオルをのせ、ベッドに寝ていた。
美羅々は妹の手を握りしめた。
「お姉……ぢゃん、麻由子の……麻由子のごど……言っだら……だめだよ」
美瑠璃の声はかすれている。のどがだいぶつらいようだ。
美羅々は妹の手にほおをこすりつけた。冷たい手だった。この手を温めてあげるのが自分の役目だと思った。両手でしっかり包みこんであげた。
「……麻由子は……悪いごど……でぎる子じゃ……ない。きょうの麻由子は……きっど、つらいごとあり過ぎて……疲れでいだんだよ」
「わかった、もう何もしゃべらないで」
副島のもとへ戻るまでの数歩の間に決心していた。妹は苦痛の中でもなお麻由子をかばおうとしている。その気持ちをふみにじったのは麻由子のほうだ。今夜のできごとをぜったい許せないと思った。すべてを明らかにし、麻由子に償うべきは償ってもらう。そのうえで友だちとしての関係を一から築き直す。それがベストだと考えた。だけど、その前にあの封筒のなかみをたしかめておきたい。
美羅々は副島の前に立った。
「ごめんなさい。ほんとうのことをすべて話します。その前にちょっとお手洗いに行かせてください」
副島はうなずいた。美羅々はコートを抱えてトイレの個室へ入った。封筒は細く丸めコートの内ポケットへ隠してあった。仕切りのかべに寄りかかり、中をあらためた。レポート用紙一枚だけで、麻由子の直筆だった。見覚えのあるていねいな文字が並んでいる。
それは一遍の詩のように読めた。そういえば、中学時代の麻由子がときどき詩を作っていると話したことがある。読ませて、と言ったら、うまく書けたらね、と笑っていたっけ。
あたしはピンクの悲しい貯金箱
お愛想笑いでうっすら開いたくちびるへ
コインがいちまい差しこまれる
悲しくつめたい音を立て
コインはあたしの中へと落ちていく
コインいちまいぶん
おまえはおれのものだよと
さかさにされてゆすられる
そのたびごとに
コインの悲しい音がする
ようやくひとりになったあと
あたしは自分をゆすってみた
やっぱり
悲しい音がした
暗い詩だ、と思う。
麻由子は自分自身の中に悲しい音を聞いたのだろうか。わたしのすべてが記してある、とあの子は言った。麻由子の中には悲しいコインがいっぱい詰まっているのか。それが姿を消していた二年の間の蓄積だというのか。
美羅々は詩を封筒へ戻し、再びポケットへ隠した。これだけは副島にも見せないでおこうと考えた。
ふと、亮介にも美瑠璃のことを伝えておくべきだと考えた。美羅々はややためらったのち、亮介に電話したが相手は出なかった。心の底でホッとしている自分がいた。
副島のところへ戻ったとき、ギクリとした。水島津紀子が立っていたのだ。と、いうことは父も来ているのだろう。清太郎には警察の人が連絡を取ってくれたらしい。
津紀子は美羅々を見ると、姉妹を案じる言葉を口にした。けれど、どこかそらぞらしく聞こえてならなかった。副島はこの女性こそがヌウの部屋を借りている人物だと気づいただろうか。
「約束どおり、すべて話してもらうよ」
美羅々は副島に目配せし、ロビーまで引っぱっていった。小声であの女が水島津紀子であることを伝えると、副島はちらっと救急病棟のほうを見やってつぶやいた。
「あのメガネはダミーだな。ただのおしゃれなのか、それとも素顔を隠したいのか、どっちかだろう」
美羅々は麻由子と出会ったことや、夢路の家の改装工事のことなどをすべて話した。
「血の痕に見えた? 業者はそう言ったんだね?」
美羅々は聞かれるまま、その業者名も教えた。
人の気配にふり返ると、津紀子がいた。
「お父さまがお呼びよ」
清太郎はソファに背中を丸めて座り込んでいる。まるで老人のように見え、美羅々は罪悪感にとらわれた。
「気分はどうだ」
父の声は思ったより穏やかで、いっそきびしく叱られるほうが楽なのに、と感じた。
「なぜ、こんなことが起きたのか、今夜は聞かないことにする。落ち着いたら話してくれ。おまえたちが何を考え、何をしようとしていたのか、わたしには知る権利……いや」
そこまで言って父は言いなおした。
「義務がある」
「はい」
いままで遠いところにいた父がこれまでの距離を飛び越え、いっきにこっちへやって来ようとしている。そのことに美羅々はとまどいを覚えていた。
スマホが着信した。発信者をたしかめて美羅々の心はコトッと鳴った。「友だちから」とだけ告げて、その場をはなれた。亮介の背後はにぎやかそうで、ときおり声がかき消されながらも美羅々の言うことにあいづちを打ってくれた。いまバイト中なのでタイミングを見て抜け出すという。亮介の冷静さを感じた。
電話を終えて戻ると、美瑠璃が看護師につきそわれ出てきたところだった。顔色はさえないが足取りはしっかりしていて、美羅々は少しほっとした。刑事課の男性刑事が待ちかまえていて、あらためていろいろな質問を受けた。少年係の副島は直接はこの事件の担当にならないようだ。
「タクシーを呼んでおきました」
津紀子の声にみなはそれぞれの思いを抱えて帰りじたくに取りかかった。男性刑事からはあす保護者同伴で署へ来るよう言われた。
津紀子もいっしょにタクシーで帰宅した。
「わたくし、今夜はこちらへずっとおりましょうか。何かお役に立てれば」
美羅々は盗聴器の件を思い出し、油断できない、と感じた。
今夜はまだだれも夕食を口にしていないことがわかった。みささんはすでに帰ったが天ぷらをあげておいてくれたので、美羅々はひとりぶんを取り分けごはんをそえて美乃地の部屋へ運んでいった。
「大変だったらしいな」
美羅々はため息まじりに答えた。
「お兄ちゃんの言った通りになっちゃった。油断してたわ。それよりおなかすいてるでしょ?」
「いや。おれはいつも乾パンとミネラルウォーターを部屋に備蓄してるからそれでしのいでた」
大地震が来たわけじゃあるまいし、と、あきれながらも、今夜のできごとをくわしく伝えた。麻由子の詩も見せた。食べ終えた美乃地は眠たげな目で詩を読んでいたが、やがて目をこすりながら言った。
「おとながこの詩を読めば、たぶん〝売春〟とかそういうものを連想すると思うけど、おれはもっとはば広い解釈をするね」
お金で買われた自分。美羅々も美乃地が言ったようなことを連想し、麻由子がそんなまねするはずない、と必死に打ち消していたのだ。
「たとえば、コインをお金じゃなく、優しさとか愛情に置きかえてもこの詩は成り立つ。もちろんその優しさや愛が見せかけのものだと仮定してね」
見せかけだけの優しさ? 愛情?
「ただし、じつはこの詩にはさほど重要な役割はないというのがおれの推理。大事なのはこっちの封筒のほうだろう」
はあ? お兄ちゃんはまた変なことを言う、と思った。何の変哲もないA三判の白い封筒。これになんの意味があるというのだろう。
「レポート用紙一枚入れるには大きすぎると思わないか、この封筒」
たしかにそうだけど。でも、なんだか兄の言うことに反論してみたくなった。
「たまたま大きな封筒しかなかったとか?」
「ちがうな。今回のことはあきらかに計画的だ。この封筒だって前もって用意されたものにちがいない」
「何が言いたいわけ?」
「この詩が麻由子の気持ちを表現したものであることに変わりはない。だけど、おれの考えでは詩そのものよりも、封筒を手に持つという行為に重要な役目があったってことだ」
美乃地はテレビのナレーションのように少しおおげさな口調で言った。
「暗い公園。おまえたちを襲った犯人は闇にひそんでいる。麻由子が手にした封筒の白さは遠くからでも目立つ。もしかして封筒を振るなりして合図を送ったんじゃないのか」
思い出した。あのとき麻由子は封筒を高くかざし、軽く振ってみせた。あれが襲撃犯への合図だった?
「ってことは、麻由子の指示でわたしたち、襲われたってこと?」
美乃地は肩を落とした。わたしたちってそんなに憎まれていたのだろうか。麻由子の心がわからなくなってきた。
妹の思いを察したのか、美乃地はなぐさめるように言った。
「おれは麻由子に会ったことないから想像でしか言えないけど、彼女はできればおまえたちを襲わせたくなかったのだと思う。はじめから危害をくわえるつもりなら合図はいらないはずだから。美瑠璃がむりに彼女を引き止めようとした、だから麻由子は逃げるためにしかたなく襲撃の合図を出したんじゃないのかな。そういう場合を想定して仲間と合図を決めておいたんだと思うよ」
美乃地は静かに告げた。
「さっき言ったことと矛盾するけど、詩の内容が無意味ってわけではない。麻由子の思いが素直に表れていて、そこに一連の事件の動機がひそんでいるのだと思う」
美羅々は詩を封筒に戻した。
「ありがとう、お兄ちゃん」
美乃地は声をひそめた。
「ところでさ、おやじの秘書っていま下に来てるの?」
美羅々がうなずくと、美乃地は顔を寄せてささやいた。
「彼女に要注意だよ」
そのときノックの音がして、津紀子が顔をのぞかせた。まるで、美羅々たちの会話を察知したようなタイミングだった。
「下でみなさんに夕食めしあがっていただこうと思いまして。失礼ながら勝手にキッチン使わせていただきました。お料理を一品ふやしてみたの」
美乃地はさりげなく津紀子を見ていたが、不意に思い出したように美羅々に言った。
「そう言えば、美羅々あての電話が家電にあったって、みささんが帰るとき言ってたよ。メモを置いておいたってさ」
階下へ降りると津紀子がエプロンをつけこの家の主婦のようにふるまっていた。どこから見つけたのかかつて母が使っていたエプロンで美羅々は不愉快になった。
野菜入りのオムレツができあがっている。美瑠璃はまだ気分が悪いと言って部屋へ引きこもってしまい、父が津紀子の給仕でひとり食事をしていた。美羅々も食べる気になれず、電話のところにあったメモを手にした。
うそ。電話は都筑夢路さんというかたから、となっていた。フルネームをわざわざ告げるなんてあの人らしい。大事な用があるので折り返し電話がほしい、となっていた。携帯の番号もひかえてある。
美羅々は自室へ戻ると夢路に電話を入れた。
『このあいだは取り乱してしまってごめんなさい。わたし、秘密を心にしまっておくことが苦しくなってきたの。麻由子のことをぜんぶ教えてあげるから、会ってくれる?』
不安はあるが断るべき理由はない。
美羅々は承諾した。
『日にちはこちらからまた電話するわ』
一方的に向こうからガチャンと切れた。電話はかけたほうが先に切るのがエチケットだ、と美羅々は教わったことがあるのだが。相手が夢路ではいまさら腹も立たない。
父と津紀子が何か言い合っている。来客用の和室に泊まればいいと言う父に対し、津紀子はリビングのソファで寝るからかまわないと譲らなかった。
一見どうでもいいことのようだが美羅々にはリビングをひとりで使いたがる津紀子の意図が白々しいほどよくわかった。結局、津紀子の主張通りになり、父の指図で美羅々は自分のトレーナーをパジャマ代わりに貸すことになった。長身の津紀子に美羅々のトレーナーは短かすぎた。
父も自室へ引き上げており、美羅々は津紀子とふたりリビングに取り残された。
美羅々は思い切ってきいてみた。
「水島さんはタロット占いとかに興味あるんですか」
津紀子は計算づくのおとなの笑みを浮かべていた。
「さあ、雑誌の星占いとかは見ることあるけど」
「水島さんの部屋でフォーチュンハウスが開かれているんでしょ?」
津紀子はじっと正面を見つめている。美羅々の中でフラッシュバックするものがあった。ヌウといっしょにいた背の高い女。あれはもしかして……。
津紀子はとぼけるだろう、と思っていたが意外だった。
「ばれちゃった? わたしの友人が占い師で昼間だけ数時間部屋を貸してくれって頼まれちゃったの。なかのいい人だから断りきれなくて。でも、部屋の又貸しは契約違反だから内緒にしておいてくれる?」
言葉とは裏腹に少しも下手に出ていないようすがうかがえた。むしろ、美羅々の反応を楽しんでいるそぶりが見える。
美羅々はらだちが募り、自制心を失いつつあった。
とうとうきいてしまった。
「都筑麻由子って知ってますよね」
津紀子は首をかしげた。
「麻由子はわたしたちの親友でした。なぜ、ヌウになってこの街へ戻って来たのか、それを知りたいんです」
「わたしには何のことかわからないわ」
「うそ。じゃあ、なぜ、うちに盗聴器なんか仕かけたんですか」
「なんのこと?」
美羅々は津紀子に視線を注いだまま片手でソファの下をまさぐった。
ない。いくら探しても、携帯電話もコードも見つからない。先回りして片づけられたか。
ぼうぜんと立ちつくす美羅々は津紀子の両手にほおをはさまれた。
「かわいそうに。こわい目にあって疲れてるのね。早くお休みなさい」
津紀子の顔は見せかけの優しさを張りつかせた仮面に見えた。
いまの麻由子と同じタイプの顔をしている……。
あなたはほんとうはなにものなの?
美羅々は心の中で問いかけた。
夢路消失
うすい墨汁を溶いたような雲がたちこめている。朝からきげんの悪い空だった。キーンと神経にさわるような寒さの中で実況見分が行われた。父の許可を得て学校は欠席した。天神台公園で警察官立ち会いのもと、美羅々たちは昨夜歩いたコースを再現し、襲われた位置や犯人の逃走方向などを確認していった。
きょうは副島の姿はない。父の清太郎はコートのえりに首をうずめ、はなれた場所で娘たちを見守っていた。警察署に戻り、正式な被害届の記入などをすませて、お昼前に解放された。
「どこかで食事でもしていこう」
父は不自然に明るい口調で言った。それなりに気をつかっているのが感じられた。美瑠璃は無言だが表情は穏やかだ。昨夜遅く亮介が見舞いにやって来た。美羅々は父に見つからぬようそっと彼を妹の部屋へ通し、亮介は明け方帰って行った。美羅々は眠れなかった。事件の興奮ばかりでなく、亮介と美瑠璃とが同じ家の中でふたり過ごしていることを考えると、どうにも落ち着けなかったのだ。
父娘は近くのファミリーレストランで食事をした。父娘三人の食卓なんて何カ月ぶりだろう。食後のコーヒーが出るころ、美羅々は思い切って津紀子がどういう人か、父にたずねてみた。
「今年の春、東京で学校経営者の会合が開かれたんだ。わたしと親しいある学校の理事長から、呼越市での就職を希望している有能な女性がいると聞いた。ちょうどそれまでの秘書が退職する予定だったから、さっそくその女性に会ってみたら、しっかりした人物だったので、こちらへ履歴書を送ってもらい、採用を決めたんだ」
父の声は重苦しかった。警察もすでにヌウと津紀子の関わりはある程度つかんでいる。父も否応なしに巻き込まれることになるだろう。
「呼越市で就職希望って、なんか理由があったの?」
「水島くん本人は東京生まれなんだが、ご両親が呼越市出身でね、その両親を三年前にあいついでなくしたらしい。東京でひとりぼっちというものさびしいらしくて、こちらなら親類もいるということで、呼越での生活を望んでいたんだ」
話ができすぎの気がした。美羅々は津紀子の怜悧そうな美貌を思い浮かべた。都会でのひとり暮らしをさびしがるような女性には見えない。
「前は何をしていた人なの?」
「ずいぶん熱心に知りたがるんだな」
父は苦笑まじりに答えた。
「履歴書によると外資系商社に勤務していたらしい。短大を出てヨーロッパでの留学経験もあるそうだ」
美瑠璃が音を立ててコーヒーをすすり、つぶやいた。
「結局、おやじが気に入った女だから秘書にしたってことだろ」
そして美羅々のほうを向いて言った。
「お姉ちゃん、はっきり言っちゃいなよ。あの女が麻由子を使ってなんか悪いことしようとたくらんでるって。盗聴器のことだってあるだろ」
父の視線を浴びて、美羅々はしかたなく兄が推理した内容を伝えた。
清太郎は苦い表情を見せたが、わざとらしく微笑んだ。
「美乃地のやつ、部屋に閉じこもってミステリ小説の読み過ぎだ。水島くんが占い師に部屋を貸したとしても、あくまで不動産会社との契約上の問題だ。われわれがとやかく言う筋合いはない。それにその占い師だってべつに犯罪をしでかしたわけではなかろう。水島くんのことをどうこう言うのは誹謗中傷になる。一応、本人に注意だけはしておくがね」
父はどこまでも津紀子をかばうつもりらしい。
窓の外を見ると雪が舞っている。今年二度めの雪だが、きょうの寒さを考えるとこんどは積もるかもしれない。美羅々のスマホが着信した。夢路からだ。「友だち」とつぶやいてから、レストランのエントランスで電話を受けた。
『今夜七時に市営体育館の正面に来てちょうだい。妹さんもいっしょにね。そこで何もかも話すから』
市営体育館? なぜ、そんな場所で? 夢路の考えはやっぱりわからない。
外は本格的な雪になりつつある。
似ている。麻由子が消えた日の天候に。そしてこんどもまた美瑠璃とふたり呼び出された。また何か起きるのだろうか。行くべきかどうかためらった。だが、夢路が麻由子失踪の秘密を握る人物であるのはまちがいない。
夢路がすべてを話す気になったのは大きなチャンスだ。気まぐれなあの人のことだから、これを逃したら二度と話は聞けないかもしれない。行こう、と決心した。わたしたちは二年前ほどの子どもではない。夢路が何かたくらんでいるとしてもむざむざだまされはしない。そう自負を抱いて、イエスの返答をした。
テーブルに戻ると、父も美瑠璃もたがいにそっぽを向き、窓の外で降りしきる雪をながめていた。
帰宅するや、父は美瑠璃を問い詰めた。
「おまえは学校に戻る意思はないのか」
「ないよ」
美瑠璃はきっぱりと言ってのけた。
「あたし、結婚するんだ」
父ばかりか、美羅々までもが妹の顔をまじまじ見つめてしまった。
清太郎はくぐもった声を出した。
「おまえは自分の人生をまじめに考えているのか」
「もち、マジだよ。結婚してふたりで三十歳までに店を持つ。居酒屋かカフェを開くんだ。それまではあたしがキャバ嬢でもなんでもやって金をかせぐ」
父の口から深いため息がもれた。親子の会話はこれで終了してしまった。
美羅々は妹とふたりきりになると、きいてみた。
「さっきのこと本気なの?」
「なに? キャバ嬢になるってこと?」
「ちがう。結婚のことよ」
美瑠璃の瞳が悲しげに曇った。
「あたしは本気。でも向こうがどう思ってんのかはわかんない」
亮介と約束ができていたわけではないと知り、美羅々は安堵している自分を見た。
わたし、やっぱりふたりに嫉妬している……。
もうこの件は頭から追いはらうことにし、夢路からの電話内容を伝えた。
「マジかよ。でも、あのオバはん、なんかたくらんでる気する。また、お兄ちゃんに相談してみっか」
部屋で話を聞くなり、美乃地はコピー用紙にシャーペンで言葉を書きつらねていった。
麻由子。レモン。ヌウ。紅蝙蝠。復讐。
悲しい貯金箱。夢路。消えた義父。内装工事。クロスの血痕(?)
幸次。津紀子。美羅々。美瑠璃。
「これらのキーワードがすべて一本の線でつながるようなストーリーを考えつけば、つぎに起こることが予測できるんだけどな」
「なんで、わたしと美瑠璃までキーワードに入ってるの?」
「一連のできごと、いや、もう事件と呼んでもいいだろう。事件のストーリーを組み立てた人間の頭には、おまえたちふたりが最初から登場人物として組み込まれているってことさ」
美羅々は兄の話がよく理解できなかった。
「だれかストーリーを考えてる人がいるってわけ?」
美乃地は深刻な面持ちでうなずいた。
「今夜、夢路さんの呼び出しを受けたのも、夢路さん以外のだれかが考えたストーリーの一部なのかもしれない」
美羅々はこみあげてくる不安をおさえ、きき返した。
「夢路さんもだれかにあやつられてるってこと?」
「たぶん。本人は意識してないかもしれないけどね」
「今夜、わたしたちが夢路さんと会ったら何が起きると思う?」
美乃地は窓を見やった。ガラスに雪が吹きつけ、真っ白だ。
「麻由子が消えた日が雪。そしてきょうも雪だ。天候もストーリー構成要素のひとつだという気がしてならないな」
お兄ちゃんはわたしと同じこと考えてる。だ、とすればこの予感は当たっちゃうかも。
美瑠璃がいらだった声を上げた。
「むずかしいことばっかしゃべってねえで、あたしたちがどうすればいいのかアドバイスしろよな」
「判断はむずかしい。今夜はやめたほうがいいかもしれない」
美瑠璃はきつく言い返した。
「いやだ。ここまで関わっちまった以上、とことんやってやる」
「だったら、きのうみたいな危険がないよう万全の対策を立ててから動かないと」
美瑠璃は思いついたように言った。
「亮介たちに頼もう。あたしとお姉ちゃんをそっとガードしてもらえばいい。あいつ、今夜はバイト休みのはずだから」
ふたりの会話を聞くうちに美羅々の中で何かがふつふつ煮詰まりつつあった。
「お兄ちゃん」
美羅々は兄の目を見すえた。
「だれが作ったか知らないけど、わたし、このストーリーをつぶしたい。このままだと悲しい結末をむかえそうな気がするの。わたし、このストーリーを書き変えてハッピーエンドに持っていきたい」
美乃地はめずらしいものを見る目つきで妹を見た。
「おまえがジャンヌ・ダルクに見えてきたぞ。いや、バイオハザードのアリスかな。アドバイスをひとつ。なにかが起きたら、このストーリーは自分にどんな役を振ってきたのか考えるんだ。そして与えられた役とはちがうことをやってやれ。他人が仕組んだストーリーをぶっこわして自分のものに書き直すにはそれしかない」
「わかったわ」
夕暮れが近づき、雪はますます強まりつつあった。美羅々は出かける時刻までひとりでいるのが不安で妹の部屋をのぞいてみた。美瑠璃はTシャツ一枚になりベッドの上で腹筋運動をやっていた。あおむけのまま息をはずませ言った。
「亮介たちにサポートを頼んでおいた。近くにいて、なにかあればあいつらが飛び出してきてくれるから」
美羅々はいくらか心強い思いになった。ふたりは寒さに対し完全防備の服装でバスに乗った。バスは十五分遅れでやって来た。ふつうなら市営体育館まで二十分あれば着くが、道路が渋滞し、四十五分かかった。体育館前に着いたのはぎりぎり七時五分前だ。
体育館と同じ敷地内にはグラウンドやテニスコートもあるがこの天候で利用できるはずもなく、人の姿はほとんどない。体育館の前は広い駐車場になっているが、車もまばらだ。夢路らしき姿も見えない。
エントランスの前でふたりは待った。雪は、降るというよりは、落ちてくるといった勢いになっている。夢路はどこから現れるだろう。向こうで指定した場所なのだから彼女のほうで見つけてくれるとは思うのだが。
美瑠璃は亮介たちの姿を探し求めているようだ。
「まったくよ、あいつらどこにいるんだよ」
もしかして夢路は雪をさけて体育館内にいるのかも、と背後をふり返ってみた。ガラスドアごしのロビーにバドミントンや卓球のラケットを手にした人たちの姿が見えるが、夢路はいない。
美瑠璃はスマホに向かい、声をとがらせていた。
「まだ途中? ざけんなって。うん、こっちもまだ来てねえ。ああ、なんかあったら時間かせぎしておくよ」
雪がほおに当たると痛いくらい冷たい。
「あいつらさ、ドンのおやじの古い車借りて合流して来るんだとよ。でも渋滞で進めねえらしい」
七時はとっくに過ぎた。夢路はどうしたのだろう。気まぐれな人だからこの雪にいやけが差してしまったのか。そう思ったとき、ヘッドライトがまっすぐこちらへ向かって来るのが見えた。車は体育館に頭を向けたまま美羅々たちの前で止まった。見覚えのあるコンパクトカーで、夢路が運転席から降りてきた。白いファーコートにロングブーツ姿だ。
「ごめんなさいね。わたし、家にバッグわすれてきちゃったの。すぐ取ってくるから、もうしばらく待ってくださらない?」
美羅々は美瑠璃と顔を見合わせた亮介たちが遅れているいま、かえって都合がいいかもしれない。
「いいですよ」
美羅々が答えると、夢路は大げさに手を合わせておがむポーズを取り、車へ戻っていった。乗り込むときにも手を振ってみせた。
「むだにテンション高いよな、あのオバはん」
夢路の車はUターンするとゆっくり走り去って行く。降りしきる雪の中で赤いテールランプを美羅々は目で追いかけていた。何十メートルか行って、車は再度Uターンしまたこちらへ引き返してくる。
美羅々たちに言い忘れたことでもあるのだろうか。なんか変だ。車の動きが奇妙だった。ヘッドライトが左右に頼りなくゆれる。スピードは遅いものの、止まる気配もなく進んでくる。
「変よ、夢路さんの運転」
「まさか、飲酒運転じゃねえよな」
ヘッドライトが間近にせまってくる。
「やべえ、このままじゃぶつかるよ」
ふたりはエントランスの階段上までにげた。
車は階段の上り口にバンパーをこすりつけ、止まった。ライトだけがぎらぎらこちらをにらんでいる。
美羅々は美瑠璃とともにおそるおそる車に近づいた。
「マジかよ。お姉ちゃん、だれも乗ってないよ」
運転席に夢路の姿はない。窓の雪をこすり、中をのぞき込んでみたが、うしろの席にも人はいない。シートで大きなクマのぬいぐるみが空を見つめている。
「どうして、どうしてだれも乗ってないんだよ」
美瑠璃の声を聞き流しつつ、美羅々は運転席のドアに手をかけた。ロックはされていない。エンジンはかかったままだ。せまい車内に人が隠れる余地はない。車は美羅々たちの目の前で走り出してから一度も止まることなくUターンしてここへ戻り階段にぶつかった。
夢路は走行中にとび降りた?
でも、ヒールの高いブーツをはいた夢路にスタントマンみたいなまねができただろうか。たとえ、やったとしても足をくじいてしまうのが落ちだ。
駐車場のどこかに夢路が倒れていないか、と美羅々は瞳をこらした。ところどころ街灯がともっているが、いまは雪にさえぎられよく見えない。
このとき美乃地の言葉を思い出した。
(与えられた役とはちがうことをやってやれ……)
ここで与えられたわたしの役ってなに? 夢路さん消失の目撃者? ただ驚き、とまどうだけの女の子? だとしたら、そんなの拒否してやる。このストーリーを書き直してやる。
美羅々は車内を観察した。運転者のいない車がどうやってここまで走ってこられたのだろう。美羅々に運転の知識は皆無だが、運転席床のレバーがギアだということくらいはわかる。〝N〟というポジションに入っている。運転席のシートに指先でふれてみた。ぬくもりがある。だれかが座っていたことはたしかだ。
「なんだ? 事故か」
男の声がした。ジャージ姿で体育館に来ているスポーツ関係者らしい。美羅々はその人にきいてみた。
「このNってどういう意味ですか」
「はあ? そりゃニュートラルだ」
「って、なんですか?」
男は車内をのぞき込みながら答えた。
「エンジンの力がタイヤに伝わらない状態ってこと」
「それで車が走るんですか?」
男はめんどうくさそうに言った。
「それまで動いてた車なら、惰性でしばらくは走るよ」
美羅々はドアを開けると運転席のシートに腰かけてみた。車のまわりに人が集まり始めている。美瑠璃はどこかへ電話をかけている。亮介と連絡を取っているのかもしれない。
考えてみる。男の人から教えられた通り人が乗っていなくても惰性でしばらくは走れるかもしれない。 だけど夢路はまちがいなくこの車に乗ったのだ。しかもこの先でUターンまでした。無人の車が惰性でUターンまでできるかどうか運転を知らなくともそれくらいわかる。
床のペダルに足を伸ばしてみる。美羅々の身長ではひざが伸びず、ややきつい感じ。小柄な夢路ならちょうどいいポジションだったかもしれない。
「お姉ちゃん、どうしたんだよ」
窓の外から声をかけられた。美瑠璃の頭や肩は白く染まっている。
この雪。またしても雪の中で人が消えた。
気づくと美瑠璃の横に亮介やランプやドンの顔が見えた。彼らもようやく着いたらしい。
美羅々は車を出た。
「みんなでオバはん探すの手伝ってくんない?」
美瑠璃が仲間たちに言った。だが、美羅々には夢路がまだこの駐車場内にいるとは思えなかった。
「オバはんってどんな人っすか?」
ランプの問いに美瑠璃は答えた。
「白いファーコートにブーツのちょっとケバいオバはんだよ。顔は亮介が知ってる」
全員で手分けして広い駐車場を見てまわった。美羅々のそばにはいつの間にかランプがいた。駐車中の車があれば窓の雪をこすり落として中をのぞき込んだ。
「いないっすね。美羅々さん、寒くないっすか」
ランプが何かと話しかけてくるがいっさい無視して美羅々は雪に閉ざされたような空間を見つめた。これでは足跡だってどこにも残らない。文字通り夢路さんは消えてしまったのだ。
美羅々たちが体育館の前に戻ったころにパトカーが到着した。集まった人のだれかが事故と思い通報したらしい。
美羅々は副島に電話をかけた。
『とりあえず、かけつけた警官に事情をくわしく伝えておいて。あたしも行ってみるから』
美羅々たちは警官から容疑者なみにきびしく質問ぜめにされた。へきえきしているところへ副島が車で現れた。
「あたしたちってなんか悪いことしたわけ?」
美瑠璃が八つ当たりぎみに口をとがらせると、副島は当然と言わんばかりに答える。
「あんたらって見てるだけであやしいもん。人間見た目が大事だよ。あたしはそれでだいぶ得してきたけど」
「つまんねえギャグやめな。よけい寒くなる」
「ところで、だれか夢路さんの携帯鳴らしてみた?」
副島に言われ、そうだった、とさっそく呼びだしてみた。お決まりのメッセージが流れるだけで通じない。電源を切ってあるか、電波の届かない場所にいるかのどちらかだ。
「きょう、占いの部屋へ捜査員が事情を聞きに行った。あんたたちへの傷害事件のことでね」
副島は寒そうに肩をブルッと一度ゆさぶった。
「ドアは閉ざされ、占いやってたような形跡はなかった。それで刑事は部屋の借り主の勤務先まで行って話を聞いた」
警察の人が津紀子に会った……。
「その人物は部屋のキ―を友人に貸しただけでほかのことは知らないっと言い張った。その友人の名前はどうしても明かさない。こっちも容疑かためてるわけじゃないから、それ以上はどうにもならなかったけどね」
美羅々は麻由子の協力者のことを考えた。彼女をサポートしている男性。麻由子のためなら何でもやるような人物。恋人かもしれない。
ふと、思いついてきいてみた。
「麻由子は中学時代に男の子といっしょに補導されたことがあるって聞きましたけど、その男の子がどこのだれだかわかりますか」
「調べればわかるけど、一般人に教えるわけにはいかないね」
「それなら、せめて、その男の子がいまどこで何をしている子なのか警察のほうで確認してもらえませんか」
「捜査を指示してくれるなんてありがたいね」
ジョークともいやみとも取れる言葉を口にしながらも、うなずいてくれた。
「お姉ちゃん、何を思いついたんだよ。男の子がどうしたって?」
「わたしたちを襲った男って、もしかして麻由子とむかしからの知り合いなんじゃないかなって思ったの」
美瑠璃が顔を寄せてきた。まつげにまで雪がついている。
「麻由子にカレシがいるってこと?」
美羅々はうなずいた。
「わたしの想像だけど、幸次くんかもしれない」
「なんでだよっ。幸次は夢路さんとつきあってんだろ。母親とふたまたかけてるってことかよっ」
美羅々はちょっと顔をしかめた。
「そういういやらしい話かどうかはわからないけど、なんだかあのときの犯人ってかれじゃないかなって気がするんだ」
美瑠璃がスマホを手にした。
「Zのおやじに幸次のアリバイをたしかめる」
美羅々の前に温かい缶コーヒーが差し出された。ランプからだ。美羅々のぶんだけだった。あからさまな好意をしめされ、美羅々は逆にツンとしたそぶりでそっけなく、ありがとう、と言った。
「やばいよ、お姉ちゃん。幸次のやつ、風邪ひいたってきのうからずっと休んでんだって。で、おやじがあいつのアパートへ見舞いに行ってみたらるすで、連絡もつかないんだってさ。おやじも心配してる」
美羅々は副島をふり返った。
副島はわかったという風にあごを動かした。
「あとでZに寄って、話を聞いてみるよ」
少年の過去
Zの店内は重く沈んでいた。
美羅々はみんなといつもの丸テーブルに着き、沈黙にひたっていた。
おやじはドアの外に〈CLOSED〉のプレートを下げると、テーブルにピッツァ、フライドポテト、人数ぶんのソフトドリンクを運んできた。
「あたしたち、こんなにオーダーしてないよ」
美瑠璃が不審そうに言うと、おやじはうなずいた。
「これはぜんぶ、おれのおごりだ。その代り、ここでいっしょに飲ませてくれ」
おやじはビールのグラスを手にしていた。
「幸次くんのことを聞かせてください」
美羅々の言葉におやじはコクッとあごを動かした。
「おれは十年前まですごいバカをやってた。行きずりの男相手にけんかしてボコボコにやり過ぎちまったことがあってな。傷害致死で二年の実刑くらった。ある日、刑務所に面会が来た。若い母親と小学生の息子だった。おれが殺っちまった相手の家族だ。母親はおれに恨みごとをいろいろ言ってきたが、男の子はおれの顔をただじっと見てるだけだった。にらむでもなく、泣くでもなく、ただ何かを心に刻みこもうとしているみたいにな。面会時間は十分かそこいらだったけど、おれには十年の懲役くらうより長く感じられた」
「その子が幸次くんだったんですか」
おやじはグラスの中のあわだつ液体をただ見つめていた。
「出所してから、その子に会いに行った。何度もな。初めて口をきいてくれるようになるまで半年かかった。でも、そのうちな、おれが父親を殺した男だってことを承知の上で、おれに懐くようになってくれた。あいつの母親は再婚したんだけど、新しい父親になじめなかったみたいだ」
亮介は自分のことを言われているように下を向いて聞いていた。
美羅々は亮介からおやじへと視線を戻した。
美瑠璃がピッツァをほおばりながらきいた。
「それで幸次の面倒を見るようになったってか?」
「おれも引け目があるから、あいつをあまやかし過ぎちまったのかもしれない。中二のとき、車の運転してみたいなんて言いやがるから山のキャンプ場へ連れてって運転させたりとかな。それでも素直に育ってるとは思ってたんだ。ところが中三の秋くらいからやつは急にワルを始めた。恐喝に車の窃盗だ。ぜんぶ、おれのせいだ」
美羅々は思い切ってきいてみた。
「幸次くんは女の子といっしょに補導されたことはありませんでしたか」
おやじはナプキンで鼻をかんだ。
「そんなこともあったな」
美羅々は自分がいま事件の核心へ近づいている気がした。
「その女の子の名前は都筑麻由子って言いませんでしたか」
美瑠璃が不意に背中をたたかれたような顔つきをした。
「幸次と電話はつながらないのかよ」
「ああ。たぶん電源が切ってあるんだろう。いまどきの子がケータイの電源切っておくなんてのは世間を捨てたのと同じことだ。心配だな」
おやじはビールを苦そうに飲んでつぶやいた。
「あいつの母親にも連絡してみたが、幸次の居場所に心当たりはないってことだ。もう、やつのことは警察に頼んで探してもらうしかない」
おやじの言葉を聞いて亮介が初めて口を開いた。
「待ってくれ。幸次はまだ悪いことをしたわけじゃないだろう。警察に届けるのはもう少し待ってくれないか」
美羅々は意外なものを見る思いになった。亮介にそこまでホットな心があるとは思っていなかったのだ。おやじは目を閉じている。
「おれたちが手分けして幸次を探し出す。うまく見つかるかどうかはわからないけど、やれるだけのことはやる。警察にまかせるのはその結果を見てからにしてくれないか」
おやじはまぶたを開いた。目が赤くなっている。
「わかった。もし、幸次を見つけたらここへ引っぱってきてくれ。言うことをきかなかったら、おれからだと言って一発ひっぱたいておいてくれ」
次回はいよいよ最終回です。
十二月初めの投稿を予定しております。
美羅々に大きな危機のせまるクライマックス。
そのあとさらに起こる第三の密室失踪事件。
すべてのナゾは解けるのか。
ご期待ください。




