雪に消える
前作『ぼくらの町ミステリーロード』はホラー仕立てでしたが、今回は本格ミステリです。引きこもりの天才少年と、顔はそっくりだが性格正反対というふたごの姉妹が探偵役で活躍します。
事件は一種の密室もので、プロの推理作家先生がたも挑んでいるジャンルにチャレンジしてみました。ほかにも学園ものやアクション的なシーンなどさまざまな要素を盛り込みました。お楽しみいただければ幸いです。
なお、一部過激なシーンもありますので、ご年齢にかかわらずデリケートなかたはご注意ください。
プロローグ 雪に消える
「あれ、麻由子じゃねえの?」
美瑠璃がシートから伸びあがるようにして声をあげた。美羅々は妹の肩ごしに窓の外を見やった。ふたりの母が運転する車はちょうど工事現場のかたわらを通りすぎるところだった。美羅々にも麻由子らしいうしろ姿が確認できた。
美瑠璃がハンドルをにぎる母の背中へ言葉を投げつけた。
「車とめろよ」
母は車をわきへ寄せながらつぶやいた。
「なんで、そんな乱暴な口きくのかしら」
美瑠璃はドアを開け、外へ飛び出していった。
つめたい外気が突風のように車内へ流れこみ、美羅々は肩をすくめた。同級生の姿を見かけたくらいででなぜ妹が顔色まで変えて飛び出したのか。ふつうなら大げさ過ぎる行動だろう。でも、美羅々には妹の気もちがよくわかる。麻由子についてはこの数週間、美羅々も気になっていたのだ。このままほうってはおけない気がして美瑠璃のあとを追い、車をおりた。
あたり一面ミルクをまきちらしたような雪だ。ショートブーツでふむとヒールがわずかめりこむほどの積雪だった。すでに日は暮れ、工事現場に人影はない。警告灯が点滅し、赤い光がときおり雪を染める。母が車を止めた場所から十数歩後戻りすると、高いへいがTの字に折れまがる袋小路になっていた。
美羅々は妹のあとを追いかけ、袋小路に足をふみ入れた。七、八メートル奥は行き止まりで、古びた小さな木のほこらがその場を守るように鎮座している。美羅々の目に立ちつくす妹の背中が映った。
麻由子はどこ? と美羅々は袋小路のあちこちに顔を向けたが、美瑠璃のほかにだれのすがたも見えない。
「麻由子、消えちゃった」
妹のつぶやきに視線を落として美羅々は息をのみこんだ。雪の上に淡いピンクのニットキャップ、同系色のマフラー、そしてショルダーバッグとそのなかみが散らばっている。キャップとマフラーはだれかにふみにじられでもしたようにぐしゃぐしゃに汚れていた。
美羅々はもういちどあたりを見まわした。目の前に電柱が一本。そこの街灯が袋小路をぼんやり照らしている。ほこらに突きあたるまでの両側は寺院の高いへいと、隣合う屋敷の和風のへいとで仕切られ、人が出入りできそうなようすはない。
「これって麻由子の足あとだよな」
美瑠璃に言われて足もとを見れば、たしかに美羅々たちのものとは異なる靴のあとが表の道路から点々とつづき、衣類が散らばるあたりでふっつりとぎれていた。そこから先はまっさらな雪ばかりで足あとが引き返したようすもない。へいは乗りこえるには高く、足あとのとぎれた位置からでは飛びつくのもむりに見えた。
「だれかに襲われたのかな」
美瑠璃の声はこの場の不可解な状況を理解しようといっしょうけんめいなものに聞こえた。 あたりのようすからは麻由子は何者かに連れさられたようにも見える。だけど、と美羅々は首をかしげざるを得なかった。美羅々たちがここへ駆けつけるまでのわずかな時間に、ふたりの目をのがれてどこかへいなくなるのはむずかしい。麻由子ひとりであろうとだれかといっしょであろうと美羅々たちの目につくことなく袋小路を脱出することなどできそうにない。
思いついて美羅々は古いほこらの前に立ってみた。ほこらはおとなの肩くらいの高さだが、とびらには錠がしっかりかけられ、うしろのへいとの間にも人の隠れられる余地はない。
美羅々は雪の夜の寒さとはべつな何かが背中を震わせるのを覚えた。ふと目が奇妙なものをとらえた。雪の中に黄色いものがなかばうずもれている。かがんでその正体をたしかめた。一個のレモンだった。手にとって見ると黄色い皮は氷のように冷えきり、表面にわずかかじり取られたようなあとがついている。
(これって麻由子が落としていったものなのだろうか)
美羅々にはなぜか冷えきったレモンが麻由子からのメッセージであるかのように思えた。
「あなたたち、どうしちゃったの?」
母は心配になってようすを見に来たらしい。ミンクのコートを肩に羽織り、身をすくめていた。
美羅々は道路のほうを見やった。道路の向こう側は一面の畑でそこはまったくの闇に閉ざされていた。
美瑠璃が最初に言った言葉は正しかった。
……麻由子、消えちゃった。
言葉通り、同級生で十五歳の麻由子はこの夜を境に美羅々たちの前から消えた。
路地裏の襲撃
あきらかにあとをつけられていた。スケートボードをしていた四人の少年たちはボードをわきにかかえ、美羅々のうしろを距離を置いて歩いてくる。美羅々は裏通りに入ってしまったことを後悔していた。
きょうの美羅々はハイネックのセーターに細いチェーンベルトとミニスカート、ポンチョを肩にかけ、キャスケットをかぶり足早に歩いていた。駅の裏にあたるこの界隈は表通りにはさまざまな店舗がひしめいているが、この路地裏は雑居ビルなどが無愛想な背中を見せるばかりで人通りもまばらだ。このずっと奥がアダルト向けの歓楽街になっていて、このあたりは本来なら女の子がひとりで歩ける場所ではない。
妹が仲間たちと入りびたっているというカフェを探し求めていた。六番街と呼ばれるこのあたりにその店はあると聞いてきたのだが。店を探すことに熱心なあまり警戒心がおろそかになっていたかもしれない。
「おねえちゃん、どこ行くの?」
少年のひとりがダッシュしてきて美羅々の前に立ちふさがった。大柄でニットキャップの下の顔は飢えた狼のように貪欲そうに見えた。
美羅々は顔をふせ、相手をよけて行き過ぎようとした。べつな少年が横からボードで走り出てきて行く手をさえぎる。さらにもうひとりが美羅々のわきでジグザグ走行を始めた。獲物をとらえ、いたぶることにかけては少年たちに連携ができているようだ。
「ねえ、どこ行くの、おしえてよ」
猫なで声を出され、しかたなく答えた。
「妹……を探してるんです」
歓声に似た声があがる。
美羅々は相手につけ入るすきを与えるまずい返答をしてしまったと悔やんだ。
「おねえちゃんの妹ならきっとかわいいよね」
「おれたち、探すの手伝っちゃうよ」
少年のひとりにひじをつかまれた。
美羅々は精一杯の勇気をふるい起こして声を出した。
「はなして……もらえますか」
美羅々をとらえた少年はハァッ? と大げさな身ぶりで聞こえないふりをし、顔を近づけてきた。たばことコロンと体臭とが入りまじる動物的なにおいがただよう。少年は自分の人さし指をなめるといきなり美羅々のほおにこすりつけてきた。生あたたかい唾液の感触に美羅々は思わず吐き気を覚えた。
「つばつけちゃった。この子はおれのもの」
「ばーか。みんなでなかよくわけるの」
高笑いが起きた。
美羅々は恐怖と屈辱にまみれながら腕をふりほどこうともがいた。が、少年の腕力にかなうはずもない。救いを求めてあたりを見まわす。ビル裏のかべとかべのすきまごしに表通りを行く人々の姿が見える。だが、その人たちの存在は絶望的なほど遠いものに感じられた。
「おれたち自由に使えるマンションの部屋あんの。そこへ行こうよ。いっしょに楽しく遊ぼうよ」
少年は強引に腕をからめると歩き出した。遠くから見れば美羅々は少年たちと友だちどうしに見えてしまうだろう。こうした手口になれているのはあきらかだ。何度もはなしてくれるよう哀願したが、返ってくるのは野卑な笑いと卑猥な言葉ばかりだった。 美羅々はいまほど自分自身をたよりなく非力なものに感じたことはなかった。抵抗のすべは何ひとつ思い浮かばず、だれか来てくれないかとおびえたまなざしをあたりに向けるばかりだ。いちどサラリーマン風の男性とすれちがったが、男性は少年たちのすさんだ視線をあびると顔をそむけ、足早に遠ざかって行った。
美羅々の心はしだいに絶望に閉ざされていった。
わたし、この男の子たちにめちゃくちゃにされてしまうのだろうか。
そのとき、心のいちばん深い場所から声が届いた。
お姉ちゃん。
妹。美瑠璃の声だ。ここ一年ほど妹からお姉ちゃんなどと呼ばれたことはない。でも、それはまぎれもなく美瑠璃の声だった。いまの状況も一瞬わすれ、ああ、わたしたちやっぱりどこかでつながっているんだ、とあたたかなものを感じた。
そのとき野獣の息づかいがした。
「もう、がまんできねえ。ここでやってやる。おまえら見はってろ」
美羅々は背中をビルの外壁に押しつけられ、パシリ役らしい少年がふたり路地の両サイドをふさぐ位置に立った。悲鳴をあげるひまもなく、美羅々は脂っこい手に口をふさがれていた。リーダー各らしい少年の手が美羅々の肌からストッキングと下着を引きはがそうとスカートの下でうごめいた。
美羅々のさけびはのどの奥へ押しもどされ、視界は涙でぼやけた。心の中まで土足でふみこまれたような屈辱を覚えた。
とつぜん、美羅々のからだをまさぐる手が動きを止めた。野太い怒号にまじり、かんだかい声がひびく。あとは肉を打つような音、何かが地面にたたきつけられる音を聞いた。
美羅々を裸にしようと必死だった少年は体勢を入れかえ、美羅々はうしろから首と腰を押さえつけられた。首に冷たくかたい金属の感触を感じる。
「来てみやがれ。この女、ぶっ殺すぞ」
美羅々はのどにあてられたものが刃物であることを知った。ふたりの少年が路上でうずくまり、残るひとりは顔面血まみれでかべに背を押しつけ震えている。
「美瑠璃!」
美羅々はとっさに呼びかけていた。そこに立っているのは美瑠璃にちがいなかった。スポーツ少年のように短く刈り込んだ髪と右の耳から下がる銀の十字架、鼻ピアス。くちびるはほとんど黒に近いパープルカラーに塗られ、大きめの皮ジャンパーから中のキャミソール、パンツにいたるまで黒一色で、片手に短かく切断した鉄パイプをさげている。
どす黒いファッションとメークが顔をすさんだものに見せてはいるが、美羅々と同じ顔を持つ一卵性双生児の妹にちがいなかった。美瑠璃の背後にはその仲間らしい三人の少年がひかえている。少年のひとりは右のこぶしにバンダナをきっちり巻きつけていた。
「この女、ぶっ殺すつってんだよ!」
美羅々は妹の目を見たが、そこに感情は読みとれなかった。
妹の口から投げやりな言葉が出た。
「やってみな」
美瑠璃は鉄パイプをだらりとさげたまま一歩ふみ出した。
黒いくちびるからもういちど言葉がもれた。
「やってみろつってんだよっ。その女の首をかき切ってみな」
(うそでしょ。美瑠璃、なんでそんなこと言うのよっ)
美羅々は声にならないさけびをあげていた。首すじを刃先がすべり、するどい痛みが走る。ほんとうにのどをかき切られるかもしれない。もしかしてこの瞬間に美瑠璃も同じ痛みを味わっているだろうか。
「おれ、マジだぜ。いいのかよっ」
耳もとで少年がわめいた。
美羅々はふと自分ののどから鮮血がほとばしる光景を想像した。
(わたしののどが切り裂かれれば、同時に美瑠璃の肌からも血が流れ出るだろう。きっとそうなる。それがわたしたちなんだから)
目の前を黒いものが跳んだ。
美瑠璃がとびかかってきたのだ、と思った。だが、美瑠璃ではなかった。美羅々は手にバンダナを巻いた少年に抱きかかえられ、路面に転がっていた。少年は先に倒れこみ、美羅々の体をクッションのようにやわらかく受け止めてくれた。
美羅々は衣服ごしに少年の胸の鼓動と体温をしっかり感じ取った。自分はいま名も知らない相手にしっかり守られている。急に全身の力がぬけていく気がした。ようやく顔を上げて見ると、刃物をつきつけていた少年がうずくまり、美瑠璃の鉄パイプ攻撃をあびていた。
「美瑠璃、もうやめろ、それ以上やっちまうとやばいぞ」
美羅々を助けてくれた少年がさけぶ。言葉づかいと裏腹にやさしげな声をしていた。
美瑠璃は鉄パイプをふりかぶった手を止めた。打ちすえられた相手はうずくまったまま、けいれんしたようにうごめいている。
美瑠璃は吐き捨てるように言った。
「ムカつくんだよ、この豚野郎!」
美瑠璃がこちらをふり返った。暴力のくびきから解き放たれた瞳はどこか悲しげに映った。美瑠璃と少年の目とが合う。美羅々は直感でさとった。妹はいまあふれ出てくる感情を少年に精一杯受けとめてもらおうとしている。
みんなの視線が自分にそそがれる前に、と美羅々はいそいで乱れた衣服を整えた。
少年は美瑠璃から鉄パイプをもぎ取り、小柄な少年に手渡すと命じた。
「これ、捨ててこい。指紋消しとくの忘れんな」
夢の中の麻由子
Zの洗面所で美羅々は何度も顔を洗った。いくら洗ってもほおにこすりつけられた唾液がまだ残っている気がする。首の傷はさいわい浅かった。濡らしたハンカチをあてるとズキズキとしみて痛い。セーターにも血がこびりついている。
キャスケットは混乱の中で落としてきてしまったが、バッグはぶじだったのでコンパクトを取り出しメークを軽く直した。ショックからぬけきれない顔色の悪さを隠すつもりだった。
ノックもなしでドアが開き、入ってきた美瑠璃はドアによりかかると腕を組んだ。美羅々は鏡の中の妹と見つめ合う形になった。
「のんきにメーク直しなんかしてるんじゃねえよ。自分がどういう立場かわかってんの?」
美羅々はふり向くと、妹を見つめ返した。
「あなたを連れもどしに来たの。もうそろそろ、ふつうの生活に帰ったら? このままだと、まちがいなく退学処分になるわ」
美瑠璃はケッとつばを吐くまねをした。
「生活指導のハゲみてえな口きくな。知ってる? あいつ、この奥にあるヘルスの常連だって。いつも帽子とグラスつけて変装したつもりで来るんだから笑っちまうよな」
美羅々は姉らしい態度を取ろうと背筋をのばした。
「ふざけないで。みんな、美瑠璃のことを心配してるのよ」
「みんなってのは、あのクソおやじも入ってんだろ。おまえ、あいつの指図で来たわけ? そのせいで、もうちょっとでスケボーの豚どもにバージンささげるとこだったんだよ」
美瑠璃はかわいた笑いを上げたが、その声はどこかうつろで半分泣き声のようにも聞こえた。
美羅々は正攻法で説得するのはあきらめて、妹に会いに来たもうひとつの理由を告げた。
「わたし、麻由子の夢を最近よく見るの」
麻由子の名を出したのは効いたかもしれない。美瑠璃のほおが電流にでも会ったようにピクッとけいれんするのがわかった。
「あなたもきっと見てるでしょ、麻由子の夢」
美瑠璃は首を横にふったが、子どもがいやいやをするしぐさに似ていた。うそだとわかる。
美羅々はいま自分が主導権を握ったことを知った。幼いころのように。
「わたしたちって、よく同じ夢を見たじゃない。わたしがこわい夢を見た晩は必ずあなたもうなされてた。楽しい夢を見ればあなたもつぎの朝楽しそうに夢の話をしてくれた。最近のわたしの夢って、いつも雪の夜が舞台なの。わたしの前を行く麻由子の背中が見える。麻由子がわたしのほうをふり返ると、その顔は中学のときとちがって少しおとなになってる。麻由子はこわいようなうす笑いを浮かべてこうつぶやくの。『わたし、帰ってきたわ。みんなに復讐するために』って」
しゃべりおえて妹を見ると、その表情はこわばっていた。だが、口から出た言葉は強気だった。
「そんな作り話にハマリやしねえよ。それよりこのトイレ男女兼用なんだ。さっきから待ってるやつがいる。早く出ろよ」
Zは雑居ビルの一階にあるガレージを改装したカフェで、天井で回転する特大のウィンドファンがコーヒーとたばこのにおいがこもる店内の空気をかきまわしている。フロアの中央に大きな丸テーブルが置かれ、あとは両サイドのかべぎわにテーブルが四卓ずつの小さな店だ。美羅々は妹にうながされ丸テーブルのイスに腰をおろした。みんなの目にさらされると去ったはずの屈辱感にさいなまれ、うつむいてしまった。
「とりあえず、あたしの仲間たち。紹介だけしておくよ」
小柄な、どこかねずみを連想させるような顔つきの男の子がランプ。どうやら美瑠璃は仲間を本名では呼ばない主義らしい。そのとなりに顔だけ見ていると中年のおっさんみたいなのがドン。こっちは体が大きく、鼻の下とあごにひげが黒々のびている。どちらも十七歳の美羅々たちとじっさいの年は変わらないのかもしれない。
「ランプはいくらオイル差してもパッとしねえからランプ。ドンは顔だけ見てると三十歳にしか見えねえだろ。ほんとは十八なんだけどね。ドンはドン引きのドン。あと、そっちにいるのが亮介」
ひとりまともな名で呼ばれたのは美羅々を助けてくれた少年ではにかんだようにそっぽを向いている。美羅々は亮介の意外と華奢な横顔になぜか魅かれたが、すぐにかれが美瑠璃の恋人にちがいないと思った。
会話ははずまなかった。と、どこからかパトカーのサイレンが聞こえてきた。カウンターの中では美羅々たちと同じ年代くらいの少年がエプロン姿でサイフォンを不器用にあつかいコーヒーを作っている。横で口ひげをはやした中年のマスターがあれこれ指示を出している。
ドアベルがカランと鳴り、入ってきた人物を見るや、美瑠璃が顔をしかめるのがわかった。紺のパンツスーツ姿のやけに肩幅の広い女性だ。その女は美羅々たちがいるテーブルにまっすぐ近づいてきた。
「こんにちは」
美瑠璃とその仲間全員が女を無視した。いったいだれなんだろうと見つめ返す美羅々と女の目とが合った。女の髪はオールバックスタイルでどこかの歌劇団の男役みたいな雰囲気がある。
女は美瑠璃たちを見まわし言った。
「新しい仲間かい? こんなまじめそうな子を引っぱりこんじゃだめだよ。そういや、美瑠璃に顔が似てるよな。もしかして姉妹?」
美瑠璃が声を張り上げた。
「うっせえよ。よけいなお世話だよ。なんか用あんの?」
「じゃあ、はっきり言おう。この先の路地で傷害事件あったんだけど、あんたたちなんか知らない? スケボーの連中がボコられて、ひとりが骨折で重傷、三人が打撲で病院へ運ばれた。かれらの証言だと髪の短い女をふくむ少年グループのしわざらしいんだけどね」
女は警察の人にちがいない。
美羅々の心臓は高鳴っていた。さっきの事件は警察ざたになったんだ。もし、父親や学校に知られたらどうしよう。レイプ未遂事件に関わったことが知れれば、美羅々の自意識とプライドは耐えられそうにない。
美瑠璃の声がひびきわたった。
「知らねえよ。あたしたちずっとここにいたんだから。ねっ、マスター」
カウンターの中でマスターはこっくりうなずいた。
女性刑事は美羅々に向かい言った。
「あんた、首どうしたの? けが?」
美羅々は反射的に首すじに手をやった。精一杯のうそをついた。
「ちょっとおできがつぶれちゃって……」
女性刑事はみんなを見まわした。
「現場には血のついたナイフが落ちていた。あと女物のキャスケットがね。まあ、手がかりはあるからいずれやったやつらは割れるけどね」
そしてカウンターのほうをふり返る。
「言っときますけど、刑事犯をかばったら犯人隠匿罪ですよ。わかってますよね」
コーヒーを作っていた少年が牙をむくような顔つきをした。
「マスターはうそなんかついてねえよ。その人たちはずっとここにいたんだ」
刑事は肩をすくめ、またなんかあったら来るよ、と出て行った。
「いまのやつは少年係の刑事。副島貴子とかいうおばさんくさい名前。いつもあたしたちを追っかけまわしてる」
マスターが近づいてくると、ささやくような声で言った。
「おまえらをかばうのもこれが最後だ。もう、あほな暴れかたするのやめろ」
すんません、とあやまったのは亮介だった。素直な表情が美羅々には印象深かった。
レモン色の追想
美瑠璃が学校に現れるや、あたりは静まり返った。女子も男子もとまどいを浮かべ、顔を寄せ合い、小声でなにかささやき合っている。美瑠璃は紺のブレザーにチェックのスカートというお決まりの制服を身につけているものの、顔のメークと十字架つきのピアスはそのまんま、ニットキャップを目深にかぶり、異様なムードをただよわせていた。
美瑠璃は昨夜おそく二週間ぶりに帰宅したのだった。美羅々とクラスはちがうが、昼休みになると美瑠璃のほうから誘いに来た。
「いっしょにメシ食おう」
ふたりが通う剣橋学院は同じキャンパス内に高等部と大学部とがある。高等部にも食堂はあるが、女子生徒には大学部のカフェテリアのほうが人気が高い。かべが総ガラス張りでステンドグラスをほどこした明るいカフェテリアに入ると、男子大学生と女子高生のカップルが目立つ。一時期、高等部生徒のカフェテリア利用が禁止されたことがある。かっこいい男子大学生目当ての女子高生と、ナンパ目的の大学生とのカップリングがあまりに多く、学園内の風紀をみだすとされたからだ。さすがにこの禁止令はいまでは解除されているが。
チーズとベーコン入りのホットサンドをテイクアウトにしてもらい、自動販売機でドリンクを買って外へ出た。ふたりとも制服の上にコートを羽織ってきたので、陽だまりのベンチを選べば寒さはしのげそうだ。ベンチの背後にあるブロンズの胸像は美羅々たちのひいおじいさんで、学園の創立者である。
「おやじのやつ、ゆうべあたしになんて言ったと思う? あたしのこの頭、もう少し女の子らしくなるよう努力しろだって。バッカじゃねえの。努力ってどうすりゃいいんだよ。育毛剤でもつけろってか」
美羅々は思わず吹き出しそうになった。
「ほんとはあたしも麻由子の夢見たんだよ」
美羅々はサンドイッチをほおばりつつ妹を見た。きみょうなことに気づいた。美瑠璃の首に救急ばんそうこうが貼られている。美羅々は思わず自分ののどへ手をやった。襲われたとき傷ついたのと同じ箇所だ。
「首どうしたの?」
「ああ、これ? なんだかかゆくなってさ、爪でかきむしったら血が出ちまった」
幼いころのできごとが美羅々の脳裏をよぎった。
まだ小学校低学年のころ。真夏の午後。庭にビニールプールを出して姉妹は水遊びしていた。おそろいのフリルつき水着を着て。水遊びの最中、美羅々はふしぎな思いにとらわれた。美瑠璃とわたし。そっくりの顔をして、身長も体重もほとんど同じ。手足の長さもおへその形も、おなかの肉のつきぐあいまで。
妹はわたしのようでわたしではない。わたしも妹のようで妹ではない。わたしたちってひとつのものなの? それともまったくべつの人? そのことをたしかめてみたくなった。
美羅々は衝動的に妹のおなかの肉を力まかせにつねっていた。美瑠璃ははげしく泣き出した。つねったところはあざになった。でも、美羅々はちっとも痛くなかった。ああ、やっぱりちがうんだ。わたしと妹は別人なんだ、そう思った。
だけど、それはまちがっていた。だって、つぎの朝見たら、美羅々のおなかには美瑠璃のと同じあざができていたから。寝ているあいだにかきむしったのが原因かもしれないが、あざの位置はまったくいっしょで、わたしたちはやっぱりひとつなんだ、その思いを強くした。
「麻由子の消えた場所へ行ってみようよ」
美瑠璃は紙パックのカフェオレを飲みおえ、そうつぶやいた。
「麻由子が消えたことって、あたしにも責任あるんだ」
「どういうこと?」
美瑠璃がこちらを向いた。なんだかつらそうな表情になっている。
「麻由子って、自分のおやじとうまくいってなかったんだって。お姉ちゃんも知ってるだろ。あの子のおやじってほんとの父親じゃあないって」
美羅々はうなずくと食べかけのホットサンドをかたわらに置いた。もう食べる気がしなかった。美瑠璃は頂上が白くそまりかけた遠くの山々を見ているのか、さだまらない視線をして言った。
「あの雪がふった日。麻由子からあたしにメールが来たんだ。夕方六時半にあの袋小路へ来てほしいって。何がなんだかよくわからなくて、メールできき返したんだけど、ともかくお姉ちゃんとふたりで来てほしいって、そう書いてきた」
そうだったのか。ふだんは母親といっしょに歩きたがらない美瑠璃があの日にかぎって、買い物に出かける母についていくと言い出したのにはそんなわけがあったのか。
美羅々はあの日のことを鮮明に思い出した。美瑠璃はデパートで新品のブーツをねだったり、帰りにパーラーでスイ―ツを食べたがったりと、小さな子のようにわがままを言っていた。あれは麻由子に会うための時間かせぎだったのか。帰りに母にあのルートを走るよう言い張ったのも美瑠璃だ。
「なぜ、いままでそのことだまってたの?」
美羅々がなじるように言うと、美瑠璃は紙パックをにぎりつぶした。
「お姉ちゃんにまで責任おわせたくなかったんだよ。あたし、あれ以来、麻由子がいなくなったのは自分のせいじゃないかってずっと思ってきた。あたし、苦しくてしかたなかったんだ」
美羅々はふと妹を抱きしめたくなった。そのとき、雪の中にポツンと残されたレモンがあざやかなビジョンとなりよみがえった。あれはいったいなんだったんだろう。もし、麻由子が自分の意思でいなくなったのだとしても、目の前で消えてしまったなぞは解けない。
ふと人の気配がして顔を上げると、にやけた顔つきの男子大学生がふたり立っている。ひとりが話しかけてきた。
「ねえねえ、授業おわったらさ、いっしょにカラオケとか行かない?」
美瑠璃が上目づかいににらみ返すと、大学生はふてくされたような笑いを浮かべ行ってしまった。
ふたりは放課後、以前通っていた公立中学校の正門前にいた。ここをスタートしてあの路地まで麻由子の足どりをたどってみるつもりなのだ。美羅々たちは母の車で送りむかえされることが多かったが、麻由子はバス通学していたはずだ。バス亭まで歩くとちゅう、さびれた雰囲気のくだもの屋さんがあることに気づいた。中学に通っていたころはここに店がることさえ意識したことはない。あのレモンとこのくだもの屋さんをと結びつけて考えるのは容易だ。
美羅々は店をのぞきこんでみた。エプロンをつけたおじいさんが売り場にみかんをならべている。かたすみのレモンのかごをちらっと見やって美羅々はこんちには、と声をかけ、たずねた。
「あの、二年前のことなんですけど……」
たずねながらちょっとはずかしくなった。二年も前の冬にここでレモンを買った女の子はいませんでしたか、なんて質問がばかげていると思われそうだから。
意外な答えが来た。
「ああ、いたよ。ゆくえふめいになった女の子だろ。警察も聞き込みに来たからおぼえてる。レモン一個だけ買ってコートのポケットへ入れて帰ったんだ」
「その子に変わったようすはなかったですか」
店主はみかんをならべる手を止め、しばらく考えていたがこう言った。
「レモンを買ったあと、そこに立って学校のほうをじっと見ていたな」
美羅々はふり返った。校門から生徒たちがぞろぞろと出てくる。
(あの日の麻由子の気もちになりきってみよう。あの子がどんな思いで自分の学校を見ていたのか)
美瑠璃の声がした。
「さよならって言ってたんだな、きっと」
ああ、美瑠璃もいまわたしと同じこと考えていたんだ、とわかった。
バスに乗り、あの路地に近いバス停で下車した。このあたりは市街地をはなれ、畑や住宅が点在するさびしい場所だ。袋小路はあのころと変わりなかった。ちがうのは近くにコンビニができたことくらいだ。
ふたりは行き止まりの路地に足をふみ入れた。寺院の長いへいがそこだけ意味もなく路地を作り、ほこらを残してあるのがふしぎだ。
「ここってさ、あのほこらをこわすとたたりがあるから、このまま路地にしてあるんだってよ」
美瑠璃が古い言い伝えを知っているのは意外だった。
「Zで会ったろ、ランプってやつ。あいつ、都市伝説とか怪談話とかすきでさ、あいつから聞いたんだよ」
美羅々はあの夜のことをけんめいに思い出しながら、人目につかずにここから麻由子が消える方法があるかどうか推理をめぐらせてみた。寺院のコンクリートべいは身長一六四センチの美羅々よりはるかに高く、小柄だった麻由子に乗りこえるのはむずかしかっただろう。
そのへいと接してとなりにあるお屋敷の日本風な板べいがつづく。時代劇に出てきそうな屋根を乗せた長いへいでここも乗りこえるのはむりに見えた。何よりも降り積もった雪の上に麻由子が路地を出て行く足あとはなかったのだ。
わからない。麻由子はどうして消えてしまったのか。
ほこらのたたり?
まさか、そんなこと現実にあるはずがない。美羅々はスマホを取り出すとあたりの風景を写しはじめた。
「画像撮ってどうすんの?」
「お兄ちゃんに見せる。むかしからミステリずきだったから、なんかヒントくれるかも」
美瑠璃はいやみな口調で言い返してきた。
「お兄ちゃん? あいつまだ生存してたの?」
美乃地の推理
家政婦のみささんが用意していた晩ごはんは和食だった。美羅々たちの母は昨年の春、膵臓ガンで他界した。ガンと診断されたときすでに転移が進んでおり、半年に満たない闘病生活で母は逝ってしまった。それは姉妹にとって麻由子の失踪につづく衝撃だった。
剣橋家では母がいなくなってからは家事全般をみささんに頼り切っている。
「なんか、この魚食ってると口ん中じゅうトゲ刺さりそうな気する」
美瑠璃がサバのみそ煮をはしでつつきながらつぶやいた。
食事のあと、ふたりは二階の美乃地の部屋の前に立った。ドアの前に食べ終えた食器とともにメモがそえられていた。豆つぶを散らしたように幼い筆跡でこう書いてある。
みささんへ
ぼくはおさかながにがてです
こんどからお肉ばかりにしてください
美瑠璃は目から涙さえにじませ、笑いころげていた。
「あいつ、小学生かよ」
あまえんぼうだった長男の美乃地は、母の死がよほどショックだったようで、それ以来高校も休学してしまい、部屋に閉じこもりがちの生活を送っている。年はいま十九歳。このままでは学校も除籍処分になるおそれがある。
美羅々はドアごしに声をかけた。
「お兄ちゃんに相談があるの。さっき話した麻由子のことなんだけど」
美羅々はメールを通して兄に相談を持ちかけておいたのだ。
中から返事はない。
ふたりは顔を見合わせた。
こんどはドアをノックしてみた。室内をのそのそ動きまわる気配と、ぶつぶつとつぶやく声がした。
美羅々は、中にいるのが兄ではなく、正体不明の野生動物であるような気がしてきた。
ドアが細めに開いた。美羅々は美瑠璃としめし合わせ、引きはがすような勢いでむりやりドアを開けた。
「何すんだよっ」
美乃地の声がひびきわたる。思ったよりも力強い声だ。
(お兄ちゃん、けっこう元気いいじゃない)
美羅々はいくぶん安心した。
美乃地はパーカーのポケットに両手をつっこむと一八五センチの長身をおりまげイスにすわりこんだ。 めったに陽にあたらないせいか肌は陶器のようにほの白く、のびた髪が顔にたれさがっている。ラウンドメタルのめがねの奥のまなざしは美羅々たち妹にどこか似ていた。
美羅々はスマホのディスプレイを美乃地の前にかざした。
「これが麻由子の消えた現場。お兄ちゃんの推理を聞かせて」
かべ一面の書棚を埋めつくす何百冊というミステリ小説や犯罪心理学、法医学や鑑識学といったジャンルの本を見やりながら美羅々は言った。
美瑠璃がかべを指さしプッと吹いた。見ると、紙が貼られ、サインペンでこう書いてある。
あしたのためのトレーニングメニュー
腕立て伏せ 3回 年内目標 7回
腹筋運動 18回 年内目標30回
スクワット15回 年内目標25回
「腕立て伏せ3回ってのがかわいいよな」
美乃地はイスごとくるりと反転し、机の上のデスクトップパソコンに向き合った。ディスプレイに表示されたデータを低い声で読み上げる。
「都筑麻由子失踪当日の天候。地方気象台の記録によれば、十五時ごろより降り始めた雪は十七時半過ぎに止み、呼越市内の積雪五センチ。北北西の風風速八メートル。美羅々たちが麻由子を目撃したのが午後……」
「六時半ごろ」
美羅々が当時の状況をくわしく話した。
美乃地がこちらに向き直り、やや軽蔑的なまなざしできいてきた。
「で、何がなぞなわけ?」
美瑠璃が腕組みして言い返した。
「その言いかた、なんかイラつくんだけど」
「べつにおまえたちをバカにしてるわけじゃあない。ただ、ずいぶんかんたんなトリックに引っかかったなとは思うけどね」
こんどは美羅々がむきになって言い返すばんだった。
「じゃあ、お兄ちゃんは麻由子がどうやってわたしたちの前から消えたのかわかるわけ?」
美乃地はうなずくと、クローゼットから、自分のニットキャップとマフラーを持ち出し、美羅々に向かって投げてきた。反射的に受け止め、姉妹は顔を見合わせた。
「ふたりとも庭へ出て。麻由子が消えた方法を検証してみよう。おれ、電話で指示出すから」
「お兄ちゃんは来ないわけ?」
「おれ、免疫力落ちてるから寒いところへ出たくないんだ」
勝手なやつ、とぶつくさ言いながら美瑠璃は美羅々についてきた。剣橋家の広い庭は家からもれる光でぼんやりと明るい。美羅々のスマホが着信した。美乃地の姿が二階のガラスごしに見える。ふたりの動きをそこからモニタリングする気らしい。スマホから声がした。
『ポーチの柱を袋小路の電柱だと思って。そこを基準に帽子とマフラを置け』
美羅々は記憶をたぐり、言われた通りのことをした。足もとに兄のニット帽とマフラー。でも、バッグがない。
「お兄ちゃん、ショルダーバッグがないわ」
『バッグなしでもトリックは成立するからだいじょうぶだ。こんどは麻由子の足あとがとぎれた位置に立つんだ。おまえがあの晩の麻由子になれ』
美羅々はマフラーから一メートルほどはなれた位置に立った。美瑠璃は腕を組み、見守っている。
『そのままふみきりなしでマフラーの上まで跳んでみて』
えっ、跳ぶの?
美羅々は窓を見上げた。ケータイ片手に美乃地は早く跳べとばかりにあいている手をぐるぐるまわした。そういえば美乃地はなぜかいまだに携帯派なのだ。
スマホからは『ホップ!』とさけぶ声。
美羅々は跳んだ。両足はマフラーをふみはずすことなく着地した。
『こんどはマフラーの上から帽子に向かって片足で跳ぶんだ。ふみはずさないようにな』
帽子はななめうしろの位置にある。だが、距離は近いので運動があまり得意でない美羅々にもなんとかなりそうだ。
『ステップ!』
美乃地の声とともに跳んだ。一瞬バランスをくずしそうになったが、帽子の上に立つことができた。
『そこからポーチの柱までどれくらいある?』
「一・五メートルくらいかな」
『柱のうしろまで跳べそうか』
「たぶん」
『よし。これでラストだ。ジャンプ!』
美羅々は跳ねた。
『美羅々。おまえはいまあの袋小路の電柱のかげにいる。そこへ美瑠璃がかけつけてくる』
美羅々は妹を見た。美瑠璃はくちびるをむすんで立ちつくしている。
『ふたごの姉妹は遺留品に気を取られている。そのすきに麻由子はへいぎわをもういちど跳ぶ。外の道路までわずかの距離。車のわだちをふめば足あとは残らない』
美羅々は白い息を吐きながら夜空を仰いだ。今夜は星も見えないくもりぞら。
これがあの夜のできごとだったのだろうか。たしかに麻由子の帽子やマフラーはふみにじられたように汚れていた。それはこういう使われ方をしたからだったのか。帽子もマフラーも足あとを隠すためのふみ台代わりだった。
あのときすぐそばに麻由子がひそんでいただなんて……。
再び美乃地の声。
『麻由子は道路をよこぎると、工事現場に隠れたんだ。現場には安全用のフェンスや立て看板があったんだろ? 女の子ひとりくらい隠れられるスペースはあったはずだ。寒いのさえがまんすればね。あとはおまえたちが去るのをじっと待っていればいい』
いきなり美瑠璃にスマホをひったくられた。美瑠璃は怒ったような声で言葉をぶつけていた。
「麻由子は自分の意思でいなくなったわけ? じゃあ、なんであたしたちを呼びよせたりしたんだよ。あたしたちは目撃者として利用されたわけ?」
美羅々はスマホに耳を寄せた。美瑠璃がディスプレイをまさぐり音量を上げた。美乃地の声が流れてきた。
『はっきり言えばそういうことだ』
「だったら、あたしひとりでもよかったじゃないか。なんでお姉ちゃんもいっしょじゃなきゃいけなかったの?」
『それはおまえたちがふたごだからだ』
「はぁ? 意味わかんねえ」
『目撃者がひとりだけではミステリアスな事件の信憑性がうすれる。か、と言って目撃者が多すぎればトリックを見やぶられるおそれがある。おまえたちふたりはいつもシンクロしてただろ?』
シンクロナイズ。そう。ふたりでひとり。美羅々がかぜをひけば美瑠璃もかぜをひき、同じころになおる。美瑠璃が時計を見ると美羅々も時計を見ている。美羅々がごはんを食べ終わると同じ瞬間に美瑠璃も食べおわっている。美瑠璃がコミック雑誌を手に取ると、美羅々もコミックが読みたくなる。ふしぎだけどほんとうにそうだった。いまではそのシンクロニズムもだいぶくずれてきているが。
『このトリックをうまく成立させるためには、ふたりの目撃者が同時に同じ方向を向き、同じものを見てくれるということが必要だった。それによって死角が生まれる。麻由子って頭いい子だね。おまえたちふたりの特性をうまく利用したんだ』
美瑠璃が言い返した。
「だけどさ、もしあたしたちに見つかちゃったら麻由子はどうするつもりだったんだろ」
『笑ってごまかせばいい』
「ふざけんな」
『ふざけてなんかいない。もし、失敗しても、友だちどうしなんだから、ただのいたずらってことですませて、べつな機会を待てばいい。麻由子にとってリスクはほとんどなかったはずだ』
美羅々は力のぬける思いになった。なんで、麻由子はこんなトリックを用いてまで、わたしたちの前から消えなければいけなかったのだろう。
美羅々の気もちを察したように美乃地の声がした。
『麻由子がなぜ人間消失事件をでっちあげたのか、そこに失踪の動機がひそんでいると思うんだ。あと、残されていたレモンが何を意味するのか、それもなぞだね。いまのおれに言えるのはそこまでだ。早く家に入れよ。かぜひくぞ』
美瑠璃が大きなくしゃみをした。とたんに美羅々も鼻の奥が冷気にくすぐられ、がまんできなくなった。ふたりはくしゃみでシンクロした。
自殺志願者
美羅々が起きるとすでに美瑠璃の姿は家のどこにも見えなかった。部屋のベッドには寝た形跡もなく、真夜中にうちを抜け出したのは明らかだ。キッチンではみささんが朝食のしたくに取り掛かっている。みささんも美瑠璃を見かけてないという。父の清太郎もゆうべは外泊したらしい。母がなくなって以来、父の帰らぬ夜がふえた気がする。美乃地は部屋から出ようとしないし、美羅々はひとりこの家に取り残されたような気分でいた。
「ごみバケツの中に美羅々さんの下着が捨ててありましたけど、よろしいんですか」
見つからないよう黒いポリ袋に隠して捨てたのに。美羅々はうろたえぎみに答えた。
「あっ、いいんです。汚れちゃったんで」
「わたしがきれいに洗っておきますよ」
「いいんです、いいんです」
美羅々は逃げるようにキッチンを離れた。
「若い人はもったいないことをなさるのねえ」
みささんのため息が追いかけてきた。
捨てた下着やストッキングは襲われたとき身に着けていた物だ。あの少年たちの手がふれたと考えるだけで二度と肌につける気になれない。
朝から美羅々の心は沈みこんだ。朝食もそこそこに家を出た。
学校へ着いてからも美瑠璃のことが気にかかる。メールや電話を何度も発信したけどいまだ返答がない。美瑠璃が学校に姿を現したのは二時限めの授業が終わったころだった。
美羅々は妹を階段の踊り場へ引っぱって行った。美瑠璃は悪びれたそぶりも見せず、ブレザーのポケットに手を突っ込んだまま言った。
「亮介のとこにいたんだ。やっぱ、だめだよ。あいつの顔見ないで過ごすなんてあたしにはできねえ」
美羅々は何も言い返すことができなかった。妹は大切な人を心の中にしっかり抱えこんでいる。そう思うと、ねたみに似た感情とかすかなさびしさがこみ上げてくるのをおさえきれなかった。
「ゆうべ、おやじを見たよ。秘書の女といっしょだった」
美羅々は長身で美貌の女性秘書を思い出した。いまに始まったことではない。父の女性関係には母も生前頭を悩ましていたはずだ。
それでも、父親を一応はかばってみせるのが自分の役目である気がして、こう言った。
「秘書の人といっしょならべつにふしぎないんじゃない?」
「夜の十二時過ぎになかよくホテルの前でタクシー降りてもふしぎじゃねえの? おやじ、きのう家に帰らなかっただろ」
美羅々は不機嫌だった。父も美瑠璃も自分勝手ばかりしている。わたしひとりまじめしてるなんてばからしい。
そのときあたりが騒がしくなった。とどろくような足音を立てて生徒たちが廊下を走って行く。階段を駆け下りてくる集団もいた。ふたりはいまの会話のなりゆきも忘れてあたりを見まわしていた。
「何があったんだよ」
美瑠璃がひとりの女子生徒をつかまえてたずねた。
「屋上に自殺しそうな子がいるの」
すでに三時限めの授業が始まる時間だが、みんなそれどころではないらしい。教室へ戻りなさい、と叫ぶ女性教諭の声が聞こえたが言うことをきく者はいない。美羅々たちもいつしか生徒たちの流れに巻き込まれていた。コの字型に折れ曲がる校舎の中庭に生徒ばかりでなく教職員たちも集まっていた。
窓にも鈴なりに顔がのぞき、一様に向かいの校舎の屋上を見やっている。三階建て校舎の屋上にひとりの女子生徒がいた。すでにフェンスを越えて、外側の四十センチほどしかない張り出し部分に立ちつくしている。美羅々のいる場所から表情まではうかがえないが、飛び降りようかどうしようか迷っている様子がうかがえる。
「あれってD組のあいつじゃん。ちんころブス」
近くにいた一年生らしい男子生徒がそうつぶやいた。どうやら屋上の子は一年の女子らしい。あちこちで携帯やスマホのカメラを向けて撮影する生徒たちの姿が目につく。飛び下りろ、飛び下りろ、という男子たちの声が上がる。教師の制止にも混乱はおさまることがない。
美羅々はその光景が不快だった。とつぜん、美瑠璃がまわりの生徒を突き飛ばすように走り出した。つぎの瞬間に美羅々も駆け出していた。ふたりは中庭を横切り、向かいの校舎へ飛び込んだ。 階段を駆け上がる。美瑠璃が屋上の少女を救う気でいるのはあきらかだ。
「助けられる自信ある?」
「わかんねえ。だけど、下で騒いでるやつら見てたら、だんだんムカついてきて、なんかしなきゃ気がすまないんだ」
「わたしも同じ気持ち」
三階までいっきに駆け上がり、屋上へ出た。すでに男性教諭が三人で説得にあたっている。ひとりが美羅々たちをふり返ると、一瞬とまどった表情を見せた。いつものことだ。こんな非常時でも〈理事長の娘〉というレッテルがまわりに人間を左右するのだ。だが、その教諭は威厳を取り戻そうとするかのように大声を出した。
「あぶないから教室へ帰りなさい!」
美瑠璃がそれを無視して進み出た。美羅々は遅れまいとあとにつづく。女子生徒はこちらに背中を向けていた。屋上にはかなたの山なみから風が吹きつけ、ひどく寒い。山々の頂はクリームでもトッピングしたように白く染まっている。
女子生徒の右手はつめたい手すりをしっかりつかみ、その腕がかすかにふるえているのを美羅々は見のがさなかった。
美瑠璃と美羅々は同じ歩調で少女に向かって進んだ。
「寒くねえの?」
美瑠璃の問いかけに少女がふり向く。
「あんた、一年生だろ。名前はなんて言うの」
少女は血の気のないくちびるを動かした。
美瑠璃が耳もとへ手をあてさけぶ。
「えっ、聞こえねえ」
きき返しながらさらに一歩出る。
「やじまなつこ」
「なつこってどんな字書くの?」
「あーっ、夏冬の夏です」
「ふーん。もしかして小さいころなっちゃんとか呼ばれてなかった?」
「呼ばれてました」
無意味な会話だけど美瑠璃の考えは美羅々にもわかる。相手の気をそらして、すきを突きとらえるつもりだろう。美羅々はそのときに自分が果たすべき役割について思いえがいた。
「で、なっちゃんはそこで何してるわけ?」
「飛び下りるの」
「飛び下りてどうすんの?」
「死ぬの」
「死んでどうすんの?」
夏子は黙り込んだ。
美瑠璃はポケットからガムを取り出し口にほうりこんだ。
「なんで死にたいの?」
「復讐したいの」
「だれに?」
「あたしをいじめる人たちに」
美瑠璃は口をくちゃくちゃ鳴らしつつ、気のないそぶりで言った。
「死んだって復讐になんかならねえよ」
風にみだれた髪が夏子の顔をおおい、幽霊のように見えた。幽霊の声がこう答えた。
「死ねば復讐になるの。ヌウのカードにそう告げられたから」
「ヌウのカード? なにそれ?」
「タロット占いのヌウ。あたしにはソードの10とチャリオットのカードがさかさまに出たの。ヌウはいのちと引きかえの復讐があたしの運命だって告げてくれた」
美羅々はヌウのうわさだけは聞いたことがある。最近この町のどこかにオープンしたフォーチュンハウスの占い師で、よく当たる上に熱心に悩みごとの相談にも乗ってくれる、と。
「へえ、タロットか。おもしろそう。ところでさ、ガム食う? 口ん中すっきりするよ」
美瑠璃はガムのパッケージを夏子に差し出した。夏子はためらっていたが、やがておそるおそる手を伸ばした。夏子の指がガムにふれた。その瞬間に美瑠璃は夏子の手首をとらえた。夏子は悲鳴に似た声を上げて身をよじる。美羅々は妹に加勢し、夏子のブレザーのえりをつかんだ。男性教諭たちも駆け寄り、夏子は手すりの内側へと引きずり戻された。
間奏
「あなたはカードを隠していたのね」と、紅蝙蝠は言った。
「はい」と、ヌウは悪びれたそぶりも見せずに答える。
「カップの3が最後に出たのですが、チャリオットとすり替えました」
「いけないわね。なぜ、そのようなまねを?」
「人がカードに現れた運命にさからえるかどうかためしてみたかったのです」
「結局あの少女はふたごの姉妹に助けられたわ。それはそれで幸運なことでした」
紅蝙蝠が怒っているわけでないことを知り、ヌウの心はやすらいだ。
「ただし、あなたがカードを操作し、人の運命を変えられるたと考えるとすればそれは思い上がりというもの。もしかしてあなたは自身の復讐者としての運命を厭うているのではないですか。だから、カードの啓示をためすようなまねをしたのでしょう」
ヌウは図星を指された気がして顔を赤らめた。そしてこうきき返した。
「ふたごの姉妹はわたくしの友人でした。これは偶然でしょうか」
「この世界に偶然など存在しません」
「では、わたくしがこれからしなければならないこともすべて必然なのでしょうか」
「然り」と、紅蝙蝠は答えた。
「ヌウとはいにしえの言の葉で沼を意味します。あなたはよどんだ水の底に暗い重いものを秘めて生きるよう運命づけられているのです。見つめねばなりません。自身の沼の底を」
「はい」
開いた扉
美羅々はひとり麻由子の母を訪れた。麻由子の家は白い一軒家だ。車庫にモスグリーンのコンパクトカーが置いてある。後部座席では大きなテディベアが空を見つめていた。都筑という表札が出ている。
チャイムに応えて母親の夢路が現れたとたん、原色の風が巻き起こったような気がした。夢路の肉体を包む純白のブラウスはフリルつきで胸もとが大きく開き、谷間に金のペンダントが輝いている。ブラウスのすそを短くしぼり、おへそが丸見えだ。美羅々の母とそう変りない年齢のはずだから四十歳をいくつか過ぎているにちがいないが、むき出しのウェストラインは美羅々でさえうらやましく思うほど形よくくびれている。小柄な人だがタイトなデニムパンツに包まれた下半身は全身をバランスよく見せていた。
「ええと、たしかふたごのお嬢ちゃんよね。あなたはどちらだったかしら。妹さん?」
「姉です。美羅々です」
夢路は美羅々の手を取らんばかりにして屋内へみちびいた。通されたリビングルームは暖房の効き過ぎなのかムゥッとするほど暑い。観葉植物を植えた大きなプランターがいくつもならび、まるで温室の中にいるようだ。夢路は美羅々には紅茶を、自分にはトマトジュースを運んできた。
「最近、麻由子さんの夢をよく見るんです」
美羅々がそう切り出すと、夢路はグラスを手にしばらく放心したような表情を見せた。
美羅々は内心で首をかしげていた。麻由子のおかあさんってこんな感じの人だったっけ? むかしとは印象にへだたりがある。
「あの子はね、生きてるのよ、ここにいるの」
夢路は自分の胸を指さした。
「わたしの胸の中で十五歳のまま生きてるの。ねえ、すばらしいと思わない? 麻由子ちゃんは永遠に女の子のまま、わたしといっしょに生きているのよ」
はあ、と曖昧な返答をもらして美羅々はとまどっていた。なんだか、この人のしゃべってることって微妙に常識からずれている気がする。自分の娘が失踪したきり帰ってこないのに心配じゃないのだろうか。
「麻由子さんには家出するような理由があったんでしょうか」
そうきいて、失敗したと思った。夢路の顔色が変わったのだ。整った顔立ちだけに怒りをあらわにした夢路はおそろしかった。
「家出ですって? あなた何を言ってるの。あの子はしあわせに暮らしていたのよ。わたしはあの子になんでもしてあげた。わたしの夫も血はつながっていないけど麻由子を実の娘みたいにかわいがってくれた。あの子に家出する理由なんかなかったのよ。麻由子はね、誘拐されたの。世間には悪い人がたくさんいる。きっと麻由子があまりにかわいかったからねらわれたんだわ。わたし、警察に何度もそう訴えたの。でも、真剣に聞いてくれなかった」
夢路は涙ぐみ、肩をふるわせた。
美羅々はいっそ美乃地が解明してくれたトリックを説明してみせようかと考えたが、とても受け入れてもらえそうにないのでやめた。夢路はいまや両手で顔をおおい泣いている。
美羅々はどうしていいのかわからず、この場を逃げ出したくなった。ごめんなさい、と小さくつぶやいてソファから腰を浮かした。
「わたし、帰ります。おじゃましました」
「待って! 行かないで!」
美羅々は両肩をはげしくつかまれ、ソファへ押し戻された。夢路は美羅々の前にひざまづくとキスでもするかのように顔を近づけてきた。
「ごめんね、感情的になっちゃって。あなたを見てたら、麻由子ちゃんのこと思い出しちゃって。だけど、あなたもすごくきれいでかわいいわ。とても美しい肌してるのね。さわってもいい?」
美羅々の意思など無視して毒々しくマニキュアをほどこした夢路の長い指先がほおや首すじをなで回した。美羅々の中で少年たちに襲われたときの感覚がよみがえった。夢路の指が蜘蛛の脚のように肌をはい回る。美羅々は嫌悪感にとらわれ、相手を突き飛ばそうとしていた。
そのとき、リビングのドアが開いた。美羅々は入口に現れた顔を見て驚いた。Zでバーテン見習いをしている少年だった。たしか幸次といったはずだ。
夢路が声を張り上げた。
「あなた、何してるの。なんで、勝手に入ってきたの。黙って上がり込むなんてどろぼうよっ。どろぼう!」
幸次の顔は何の感情もしめさなかった。自分はあたりまえに入って来ただけとでも言いたげだ。
夢路はかれを追いたてるようにリビングを出て行った。美羅々はことのなりゆきにしばらくぼうぜんとしていたが、やがて自分も足音をしのばせ、部屋を出た。
夢路の声がする。かべに身を寄せ、廊下のほうをのぞき見ると、夢路は幸次の首に両腕をからめ、あまえるようにその顔を見つめている。小柄な幸次は夢路との身長差は少ない。
「ごめんね、さっきはひどいこと言ってしまって。でも、来客中だからしかたなかったの。あとで電話するから」
ふたりがくちびるを重ねるのを見とどけて、美羅々はそっとリビングへ戻った。いま見た光景の意味を考えた。夢路の側からすれば不倫ということになるのだろうか。幸次とはいつごろから親しくなったのだろう。このことが麻由子の失踪と関係あるのだろうか。美羅々の中ではうまくまとまりがつかなかった。
しばらくして夢路がトレイにチーズケーキを乗せて戻ってきた。
「さっきの男の子、しょっちゅう来るの。わたしがやさしくしてあげたら、若い子ってすぐ調子に乗っちゃうのね。わたしのことママだと思っているのかしら。あまえてくるのよ」
美羅々の目にはむしろ夢路のほうが年下の幸次にあまえているように見えたのだが。
「わたし、とってもつらいの。最初の夫、麻由子のほんとうの父親なんだけど、あの子が八歳のときにわかれたの。まじめだけど陰気でつまらない人だった。わたしにはふさわしくなかったのね。二番目の夫は楽しい人だった。麻由子のこともうんとかわいがってくれた。でも、あの子がいなくなってからなんだかしっくりいかなくなって、結局この人も出ていってしまったの。わたしって以前は保険の仕事をしていたのよ。ずっと営業のトップを走りつづけて、小さな家一軒くらいキャッシュで変えるくらいの年収はあったわ。だけどそのぶん麻由子ちゃんにはなにもしてあげられなかった。かわいそうにあの子」
さっきは、麻由子になんでもしてあげたってしゃべったのに。この人は自分が言ってることの矛盾に気づいていないのだろうか、と美羅々は思った。
「もし、わたしが死んだら、あなた、麻由子の代わりに泣いてくれる?」
美羅々はそれから一時間近く支離滅裂なおしゃべりを一方的に聞かされ、ようやく家を出られたときはほっとした。バス停まで歩きながら、麻由子の家庭環境に思いをめぐらせた。そこに失踪の理由がひそんでいる気がする。麻由子が消えたあと、その義理の父親もいなくなった……。ふたつのできごとに関連性はあるのだろうか。
背後からエンジン音が近づいてくる。ふり返ると、かたわらをいったん通り過ぎた小型バイクが行く手をさえぎるように止まった。美羅々は本能的に身がまえた。ヘルメットを取ると先ほど見た顔がある。
幸次はバイクにまたがったまま、きいてきた。
「あんた、あの家の人と知り合いなの?」
「麻由子とは友だちだったの」
幸次はしばらく考え込んでいたが、こう言った。
「おれとあの家で会ったってこと、だれにも言わないでほしいんだ。とくにZのおやじには」
「わたし、そんなにおしゃべりじゃないから心配しないで。でも、なんで内緒に? 年上の女性とつきあったってべつに悪いことじゃないでしょ」
幸次はとてもつらそうな顔になった。
「Zのおやじがうるさいんだよ。おふくろみたいな年の女とつきあってるなんて知れたら、おれ、しばかれちまう。内緒にしてくれれば、おれ、あんたのことも黙っててやっからよ」
「わたしのこと?」
「あんた、レイプされそうになったこと、親や学校に内緒にしてんだろ? おれもそのことだれにも言わないからよ」
それじゃ、まるで脅迫だわ、と美羅々はなかばあきれ、なかばおそろしく感じた。
走り去っていく幸次のバイクを見つめていると、スマホにメールが着信した。美瑠璃からだ。ヌウのフォーチュンハウスへ行くことにしたからつきあえという。
(美瑠璃ったら、占いに頼って麻由子を探しだすつもりなのかな)
いぶかしく思いながらも指定された待ち合わせ場所へおもむいた。フォーチュンハウスはにぎやかな場所にあるものと思い込んでいたけど、待ち合わせの駅は在来線で三つ目の郊外にあった。乗降客の少ない駅前で待っていたのは美瑠璃と夏子のふたりだった。
「こいつにつきあっていっしょにメシ食ったり、カラオケ行ったり、ディスコ行ったりでくたびれた」
美瑠璃はぼやいたが夏子はにこにこ顔だ。
「あたし、決めたんです。美瑠璃先輩のどれいになるって」
「ど、どれい?」
美羅々はあきれ返ってしまったが、すぐ肝心なことに話題を切りかえた。
「で、なぜフォーチュンハウスに?」
美瑠璃は投げやりに答えた。
「こいつがさ、ヌウの占いはぜったい当たるから、麻由子がいまどこにいるか占ってもらえってうるせえんだよ」
夏子ははしゃいだ口調で言った。
「先輩たちの友だちの居場所、きっとわかりますよ」
ヌウの館
フォーチュンハウスへ向かって歩きながら、美羅々は夢路に会ってきたとこを伝えた。
「麻由子のおふくろってそんなに変な人だったっけ?」
幸次のことを話そうかどうかまよった。かれとの約束がある。それにいまは夏子がいる。美瑠璃とふたりきりのときに教えようと考えた。
ヌウのフォーチュンハウスはマンションの一室にあるらしい。五階建てのチョコレ―ト色のマンションでは玄関前に十数人の少女たちがたむろしている。いずれも中学生か高校生くらいの年代だが中にはまだ小学生っぽい子もいた。このあたりは静かな住宅街なので彼女たちの存在は浮いて見える。玄関はオートロック式で、占いに来た客は順番にひと組ずつ中へみちびかれるらしい。
「申し込みのときに電話かメアドを教えておいて、自分の番が来ると案内が来るんです。先輩たちのことあたしが申し込んでおきましたから」
美瑠璃はうんざりした顔つきで少女たちをながめ回した。
「ガキばっかじゃんか。ほんとにこんな占いあてになるのかよ」
ほかの少女たちはあきらかに美瑠璃をその外見でこわがっているらしい。おびえた目で遠ざかる子もいた。車が一台やってきて、マンション手前で止まった。
「なんだ、あんたらも占いか」
車を降りてきたのは副島だ。副島はおしゃべりしている女の子たちに向かい言った。
「あんたたちさ、こんなとこで集まってんじゃないよ。通行のじゃまだし、近所からもうるさいって苦情来てんだから」
わたしたち何も悪いことしてませーん、とだれかが声を上げた。
「まったくよ、悪ガキ多いから、こっちは日曜でも仕事しなきゃなんねえんだよ」
副島はぶつくさ言いながら美羅々たちに向き直る。姉妹の肩にそれぞれ腕を回し、耳もとでささやくようにきいてきた。
「あんたちの学校でさ、自殺未遂あったってほんとなの?」
夏子が顔をそむけ、美羅々たちも口をつぐんだ。夏子の自殺未遂事件は生徒のプライバシーと学校のイメージ保護という名目で警察や教育委員会へは通報されず、生徒たちにも口外が禁じられている。だが、ネットに事件を投稿する者などもいてうわさはすでに広まっていた。
美瑠璃は副島の腕をふりほどいて言い返した。
「いったい何がききたいわけ?」
「青少年に狂言自殺だの復讐だのをそそのかす占い集団がいるっていま問題になってんだよ」
美羅々は美瑠璃と顔を見合わせた。夢に出てきた麻由子のせりふを思い出す。
……わたし、帰ってきたわ。みんなに復讐するために。
「あんたちさ、占い受けたらさ、情報ちょうだいよ。占い師がどんな人で、何をしゃべったか、謝礼金はいくら取られて、脅迫めいた言動や、物を売りつけられたり、宗教団体に勧誘されたりしなかったかどうかを」
「チクレってか」と、美瑠璃が口をとがらせた。
副島はふたりに顔を寄せた。
「協力しろよ。その代わりなかよくしてあげるからさ」
美羅々はふと考え直した。麻由子失踪の真実を突きとめ、彼女の居場所を探すには警察に助けてもらうのがいちばんいい。そのためにも副島に協力しておくのが有利かもしれない。
美羅々は思い切って言った。
「言われた通りにすれば、わたしたちの頼みも聞いてもらえますか」
副島は姉妹を見くらべて、楽しそうに笑った。
「こっちのお嬢ちゃんのほうが話せるね。うちに取引持ちかけてくるなんていい度胸してるよ。で、そっちの頼みってのは?」
二年前の麻由子失踪事件をもう一度捜査してほしい、と伝えた。
「ああ、そんな事案があった気がする。あたしは当時、担当じゃなかったからくわしくは知らないけど。わかった。刑事課にきいてみるよ」
副島は美羅々と電話番号とアドレスを交換した。もらった名刺のすみに副島個人の携帯番号も走り書きしてくれた。
副島が去った直後、美瑠璃のスマホが着信を告げた。
「なんだ、非通知だ」
副島がいる間は知らんぷりしていた夏子が声を上げた。
「あ、それ、たぶんヌウからです」
はい、とか、ああ、とか無愛想な返答をして美瑠璃は電話を切った。
「お姉ちゃんとふたりで上がって来てって。夏子は来なくてもいいのか」
「ヌウはよけいな人がいっしょに来るのをきらうんです。先輩たちふたりでどうぞ。ルームナンバーは305ですから」
玄関前のパネルのキ―をタッチするとすぐドアが開いた。ほかの女の子からブーイングの声が上がる。
美瑠璃がつぶやいた。
「おかしいな。あたしたちより先に来てる子いっぱいいるのに。なんであたしたちだけ優先?」
エレベーターを使い305号室の前に立った。ドアにはフォーチュンハウスであることをしめす看板などはいっさいない。インターホンに女の声が答えドアが開いた。中はうす暗い。足をふみ入れた先はせまい廊下だ。作りつけの棚にともる古びたランプがなんとなくあやしいムードを作り出している。美羅々はランプという男の子を連想してしまい、ちょっとだけほおをゆるめた。
「つきあたりのドアを開けなさい」
声が命じた。
客に命令すんなよな、と美瑠璃がつぶやく。奥の室内は四方のかべがすべて黒い幕でおおわれ、部屋全体を穴蔵のように見せかけている。小さな丸テーブルがある。卓上のスモールランプがはなつほのかな明かりの中に異様な人物の姿が浮かび上がっていた。イスラム教徒の女性がまとうような黒いチャドルを身につけ、鼻から下はヴェールで隠されている。まるで影法師のようだ。かろうじてうかがえる目もとも濃いメークのため人形じみて生きた人間に見えない。
「おかけなさい」
ヴェールごしの声はくぐもり、女性であること以外は年齢さえわからない。テーブルをはさんでイスはひとつしかない。美瑠璃があごで座れという仕草をしたので、美羅々が腰かけ、美瑠璃がそのうしろに立った。
数十センチの距離ででヌウの目を見つめた。チャドルとメークがエキゾチックに見せかけているが、それはふつうの日本女性の目にちがいない。美羅々はあることに思い当った。
この目もとに見覚えがある……。
「あんたがヌウさん?」
うしろから美瑠璃が無遠慮な声をかけた。するとべつな場所からヌウとはべつな女の声がした。
「あなたがたは問われる立場です。質問はつつしんでください」
「で、あなたがたが知りたいことは?」
ヌウの問いかけに美羅々は答えた。
「ゆくえふめいになっている友だちがいます。その子がいまどこにいるのか、どうしているのか、それを知りたいんです」
きかれるままに麻由子の氏名と生年月日を伝えた。
ヌウはしばらく目を閉じ精神統一のような真似をしてから無言でカードのたばを取り出した。シャッフルののち引きぬいた一枚をテーブルに置く。
「これがお友だちを象徴するカードです」
美羅々の心に何かが引っかかってくる。ヌウのこの声って……。
「ペンタクルの5.孤独と欠乏を表すカード。このかたは決して幸運な星の下には生まれておりません」
残りのカードのたばが美羅々のほうへ押し出された。
「何度もシャッフルしてください。そのうちにあなたの心の中でひらめきが生まれます。その時点でシャッフルをやめ、カードで三つの山を作ってください」
ヌウのしゃべりかたには感情がなく、まるで機械が話しているようだった。だが、先ほど感じた思いは美羅々の中で強まっていった。美瑠璃はどう思っているか気になるが、いまはたしかめるすべがない。
言われたとおりシャッフルをくりかえす。ときおりヌウの目をうかがう。ヴェールごしにのぞく目は美羅々の手もとへ向いたまま微動だにしない。
ふしぎな感覚にとらわれた。指がカードを切るのではなく、カードのほうが美羅々の指先をあやつっているような感覚。まるである一枚のカードが自分のことを探り当ててほしいと願っているような。
美羅々の頭の中は明りが消えたようにスッと暗くなっていく。とつぜん、フラッシュをたいたようなひらめきが浮かんだ。美羅々の指がピタと止まる。カードのたばを三等分し、それぞれをテーブルに置いた。
ヌウの手が再びそれらをひとつにたばね、いちばん上のカードを引くと、先ほどヌウ自身が引いたペンタクルの5を重ねた。二枚め、三枚めとつぎつぎカードを引いていき、上下左右にならべ、合計六枚のカードを用いて十字の形が築かれた。十字の真横にさらに四枚のカードが一列ならぶ。ヌウは四枚のカードを順にめくっていき、絵柄をあらわにすると一枚一枚ていねいに見ていった。
美羅々の中に生じたひらめき。それはひとりの人物の名だった。彼女は心の中でヌウに呼びかけた。
(あなたはいま自分自身の運命を読み取ろうとしているのね、麻由子)
ヌウが吐く息の音がした。それは絶望を表すため息のようにも聞こえた。
ヌウの口から声がもれる。
「この四枚がお友だちの運命をしめしています」
一瞬の沈黙を置いて告げた。
「一枚めはソードの3。悲しみ。愛する人とのわかれ。癒されない傷」
うしろで美瑠璃がごくりとつばをのむ音がした。
ランプの炎がゆれ、卓上で影が踊る。
「二枚めは死神。破壊と再生。このかたは新たな人格に生まれ変わりました。でも、それはさらなる不幸と破滅へ向かう人格です」
死神のカードには騎士のコスチュームをした骸骨が馬に乗る姿が描かれている。
「三枚め。太陽のカードがさかさまに現れました。信頼への裏切り。たいせつな目的の喪失」
擬人化された太陽はユーモラスでありながらどこかぶきみだ。再びヌウは沈黙した。
美羅々は確信が強まっていくのを感じた。ヌウのヴェールを引きはがしてやりた衝動に駆られた。
「最後のカード。これこそがこのかたのたどり着く人生の結末を表します。悪魔のカードが出ました」
カードには山羊のように長い角とあごひげを持つ悪魔が松明を手に君臨し、その足もとでは裸の男女が鎖につながれている。
「この世でかなわぬ夢。失われた希望。それらは黒い神秘の力を借りて実現するでしょう。ただし暗黒の世界で。鎖につながれた女性はあなたがたのお友だちを、男性はそのお友だちを愛する人をしめします」
ヌウが顔を上げた。その瞳はランプの光にきらめき、濡れているようにも見えた。
「あなたがたのお友だちは意外に身近な場所にいます。しかし、暗黒のヴェールに隠れ、だれもその姿を見ることはできないでしょう。カードが告げたことは以上でおしまいです」
美羅々はこらえきれず、声を出していた。
「もう演技はやめて。あなたが麻由子なんでしょ? 顔を見せて」
ヌウの瞳はたじろがない。
美羅々はさらに問いかけた。
「まさか、たった二年でわたしたちのこと忘れてしまったわけじゃないでしょ」
すぐ近くからべつな声がした。
「これで終わりです。お帰りなさい」
衣ずれとともに芳香をただよわせヌウが立ちあがる。美羅々よりも大きく見える。
あれ? と思った。麻由子ならもっと小柄なはずなのに。
美瑠璃が耳もとでささやいた。
「うしろにもうひとりいる」
美羅々がふり返ると、部屋のすみに立つ黒いシルエットが目についた。ヌウ同様チャドルを身につけ、顔半分をおおい隠している。長身でヌウとは異なる威厳がある。
美瑠璃が相手をあざけるような口調できいた。
「鑑定料とかいらねえの?」
黒い長身が答える。
「心づかいは無用です。つぎの依頼人が待っています。早くお帰りなさい」
美羅々は夢中でうったえていた。
「わたしたち、真剣に友だちを探しているんです。でも、いま見つけました」
美羅々がヌウのいた場所を見やるとそこはランプの明かりが差すほかは何もなかった。
「ヌウというかたがわたしたちの友だち、麻由子です。そうなんでしょ、麻由子」
美羅々のさけびに答えはない。
長身のチャドルがひややかな声で告げた。
「あなたがしゃべっているようなことを世迷いごとと言います。出て行きなさい」
美羅々は美瑠璃にたずねた。
「美瑠璃はどう思う? あれは麻由子の目だった。そう思わない?」
美瑠璃もとまどっているようだ。
「ああ。たしかに言われてみればそんな気もするけど」
美羅々は頭をかかえたい思いになった。
すべてわたしの思いすごし?
麻由子のことばかり考えてるから見あやまったのかな。いいえ、そんなはずない。わたしの直感があれは麻由子だって告げている。
「いいかげんになさらないと業務妨害で警察を呼びますよ」
その言葉に美瑠璃が突っかかっていった。
「警察だって? おもしれえ。呼べよ、早く。どうせならご指名かけてみな。呼越中央警察署少年係の副島巡査長を呼べって。なんなら、あたしが電話してやろうか」
ヴェールごしに笑いがもれた。
「しかたのないお嬢さまたちね。ヌウ。出てきなさい。顔を見せてあげたらいかが?」
黒い幕のすきまからチャドル姿が現れた。
美羅々たちの前でヌウはヴェールをゆっくりと剥いだ。
そこに見えたのは濃いメークをほどこした少女の顔だった。だが、麻由子とはまったく別人だ。
わたしのかんちがいだったのか。
美羅々は打ちのめされた思いで相手の顔を見つめ返し、あらためてふしぎな思いにとらわれた。
濃いラインとシャドーにふちどられた目とルージュを塗ったまっかなくちびる。
麻由子ではないものの、この顔にもどこか見おぼえがある。
この人はだれ? わたしが会ったことある人?
美羅々の思いを断ち切るように再びヴェールが顔をおおい、相手は黒い幕の中へ消えてしまった。
勝ちほこったような声がした。
「わかったかしら。さっさと出て行きなさい」
ふたりがすごすごマンションから出て来ると、夏子が走り寄って来た。
「先輩、お疲れさまですっ。どうぞ」
夏子はふたりにドリンクを差し出してきた。
美乃地の予告
「じゃあ、美羅々はヌウが麻由子だっていう確信があるんだな」
美乃地は出前のカツ丼を食べ終えると言った。
日曜日はみささんが休みで、夕食はだいたいデリバリーですませるか、ときおり美羅々が勇気をふるい起こして作るカレーかシチューと決まっているのだ。
「だから、ちょっとショックだったの。ヴェールを取ったらまったく別人だったから。なんだかだまされた気分」
「だまされたんだよ」
美乃地はわりばしにそえてあるつまようじを使いながらあっさり言ってのけた。
美羅々はしゃくにさわったのでわざと言ってやった。
「お兄ちゃんって、おやじくさい」
美乃地はようじで歯をほじくりながら説明してくれた。
「美羅々が言うとおりにヌウと麻由子が同一人物だったとして入れ替わりはじゅうぶん可能だよ。暗い部屋。顔を隠すチャドルにヴェール。麻由子が別人とすり替わるチャンスはあったはずだ」
「でも、ヌウは立ち上がったとき、わたしより背が高かった。麻由子は小柄だったのに」
「二年の間に背が伸びたか、あるいはチャドルの下にハイヒールをはいていたのかもしれない」
「それじゃ、まるで麻由子はわたしたちに会うのを予期していたみたいね。それもタロットのお告げだったのかな」
美乃地は首を横にふった。
「いいや。お告げでも偶然でもない。すべて仕組まれたことだろう。そもそもなんでおまえたちはヌウのところへ出かけて行ったんだ?」
「夏子さんが……」
「そう。夏子という女の子をうまく使ったんだ、きっと」
ぽっちゃりしてどこかポワンとしたいじめられっ子の顔が思い浮かんだ。あの子がヌウの手先?
美乃地の声にわれに返った。
「麻由子の母親、夢路さんだっけ? ひじょうに興味深いキャラクターだ」
「なに、お兄ちゃんって年上の女性が好みなの?」
「ばか。そういう意味じゃない。麻由子失踪の背景には母親が大きく関係してるかもしれないってことだ」
美羅々は夢路の姿を思いうかべた。
季節はずれに咲いた南国の花みたいな人。美しい反面グロテスクで、デリケートそうでどこかずれていて。あんなお母さんと暮らしていたらしんどいこともあっただろうと思う。でも、母親とうまくいってなかったとはいえ、人間消失トリックまで用いて家出する必要があったのだろうか。
「ヌウがもし麻由子だとすれば、彼女はおまえたちの前で二度消えてみせたことになる。三度めもありえるかも。いや、つぎに消えるのは麻由子とはかぎらないな」
美羅々は兄の思わせぶりな言いかたが気に食わなかった。突っかかるような口調になっていた。
「また、だれかが失踪するってわけ?」
「もう失踪してるかもしれない。たとえば麻由子の義理のお父さんとか」
「なんですって。だって、夢路さんの相手はわかれて出て行ったのよ。失踪とはちがうわ」
美乃地は人さし指で自分のこめかみをぐりぐりつついていた。
「どうも、しっくりこないんだ。夢路さんの証言が。麻由子の失踪が原因でわかれたなんて、なんか変だよ」
美羅々はここで初めて夢路の家で幸次に出くわしたことを伝えた。
「その幸次って子、年はいくつ?」
「うーん、わたしたちとたぶん同じだと思う」
「て、ことは麻由子とも同じ年。中学はちがうんだろ?」
「うん。Zで会ったのが初めてだから。たぶんよその中学出身」
美乃地はメガネをはずし、眠そうに両目をこすった。えさを食べ終わった動物という感じだ。
「ねえ、わたし、これからどうすればいいと思う?」
「麻由子の失踪前後にその家で何が起きたか調べること。あと、ヌウの動きからもしばらく目をはなさないほうがいいかもな。フォーチュンハウスの前に見張りでもつけりゃいいんだろうけど、そこまではおまえたちじゃむりだろうしな」
美羅々は副島のことを思い出していた。そういえば、ヌウのもとを出てからまだあの人に連絡を取っていなかった。
美瑠璃は兄の部屋を出ると副島の携帯あてに電話を入れてみた。副島はまだ警察署内にいるらしかった。フォーチュンハウスで見聞きしたことを伝えたが、ヌウが麻由子かもしれないということは内緒にしておいた。
「麻由子のことは副島さんのほうで調べ直してくれるんですよね」
『もうやってるよ。失踪当時の担当刑事はすでに転属しちまっていないけど、資料を閲覧していま調べ直してるところ』
後日の連絡を約束して電話を終えた。
美羅々は自室のベッドに寝ころがり、天井を見つめた。さまざまな思いがわいてくる。麻由子のことはもちろん、夢路、美瑠璃、幸次、そして……亮介のこと。
再来週には期末試験も始まるし、髪をかきむしりたいような気分になってくる。この家で自分はひとりぽっち、という思いが強まる。美瑠璃はヌウのもとを出たあと、亮介のところへ直行してしまった。美乃地はそのアドバイスはあてにできても、心を通わせ合うところまでいかないし。
父親は娘たちをほとんど顧みず、学校で心を打ちあけられる友も少ない。それは必ずしも美羅々本人に原因があるわけではない。やはり理事長の娘というレッテルがクラスメートとの間にバリアを築いているのだ。どことなく媚びてくる者、反感をあらわにしてくる者、よそよそしい者とさまざまだけど、美羅々が友だち関係に一歩ふみこもうとすれば、みんな一歩引いてしまうのだ。理事長の娘であることの重荷を感じずにはいられない。
つくづく剣橋学院ではなく、よその高校へ行けばよかったと思う。美羅々の中学時代の成績ならもっと上のランクの高校へ進むこともできたのだ。それでも剣橋の家に生まれたからには曾祖父の築いた学院で学ぶべしという方針がこの家では暗黙の了解になっていた。
剣橋学院は、名前のゴロ合わせで〈剣ブリッジ学院〉などと呼ばれることがある。もちろん英国の名門大学とはくらべものにならないのを承知の上での揶揄だ。
なんでわたしがこんなに疎外感をいだかなくちゃいけないんだろう。勉強をきちんとやり、家事の手伝いもこなし、妹のことをいつも気にかけ……なのに好き勝手ばかりしている美瑠璃にはちゃんと恋人や心の通じ合う仲間がいる。
世間はフェアではない、と、すねてみたくなる。やりきれない気分の中で亮介の顔をまた思い浮かべた。ワルにはちがいなけど、もの静かでかよわい印象さえ受けたのが意外で、美瑠璃の話だとボクシングが強いということさえ信じられない。
思い立って美瑠璃あてにメールを入れておいた。美乃地から聞いた人間入れ替えトリックについて、副島と電話で話したことも伝えた。返信はなかった。
ヌウの占いの言葉。あれは麻由子が自分の思いや境遇をありあり語ったものでないかと思う。小中学時代の麻由子を思い出す。やや丸顔で、ほおがふっくらピンク色にそまったベイビーフェイスで、よく「赤ちゃん、赤ちゃん」とみんなにからかわれていた。そんなときはプッとほっぺたをふくらませて文字通り赤ちゃんになってしまい、美羅々たちは友だちというよりは妹みたいな感覚でかわいがっていた記憶がある。
この家には何度も泊りがけで遊びに来た。来客用の和室にふとんを敷きつめ、美瑠璃と三人、修学旅行気分で夜中まで騒ぎ、母にしかられたこともあったっけ。そんな麻由子の表情が沈みがちになったのは中三の一学期からだ。
そういえば、と美羅々は気になるできごとを思い出した。あれは何度めに泊まりに来たときのことだろう。麻由子もまじえて夕ごはんを食べていると、麻由子の家から電話が入った。母が出て麻由子に代わり、ダイニングに戻ってきたとき麻由子の顔は青かった。
「お義父さんがおこってるから……早く帰ってきなさいって」
そう言うなりその場へしゃがみこんで泣き出した。
帰りたくない、帰るのいやだ、と幼児がだだをこねるように泣きやまなかった。
美瑠璃が母に麻由子を帰さないよう抗議したが、美羅々と母は麻由子をなだめて帰るよううながした。母が車で麻由子を送っていった。外へ出て見送る美羅々たちを麻由子はリアウィンドウごしに何度となくふり返っていた。子犬が見知らぬ家にもらわれていく、そんな光景を見る思いになったのを美羅々はおぼえている。
近ごろになって思い当る。麻由子は美羅々たちとわかれるのがいやだったというよりも、家に帰ることそのものをおそれていたのではなかったか、と。いまでも、なぜあのとき美瑠璃といっしょに母を説きふせ、麻由子の帰宅を止めなかったのかと悔やむことがある。母に食ってかかった美瑠璃のほうが正しかったのだ、きっと。
夏休み直前から麻由子は変わった。服装や髪形がみだれることはなかったものの、欠席や遅刻がめだって増えていった。よその中学の男子といっしょに深夜の繁華街で補導されたといううわさも伝わってきた。美羅々たちと顔を会わせても言葉少なで笑顔も見せなくなっていた。
美羅々も気にはかけていたけど、高校受験がせまりつつあった。剣橋学院へ行くか、べつな学校をめざすか、自分でも悩みをかかえていたこともあり、麻由子と心を開いて話す機会は失われた。
そして呼越市に初雪が降ったあの夜をむかえたのだ。
美羅々はスマホに手をのばした。
数回の呼び出し音ののち副島の声が答えた。
『いまコンビニで買い物中。なんか言い忘れ?』
「麻由子の義理のお父さん、それからほんとうのお父さん、このふたりがいまどこにいるか調べられますか」
『捜査資料に当たればわかるはず。いまはむりだけど。あー、からあげ弁当先に買われちまった。でも、義理の父親ってのはまだあの家にいるんだろ』
美羅々は夢路から聞いたことを伝えた。
副島が言い返す。
『わかれたってのは、麻由子が消えたあとの話でしょ。あ、ポテサラ買おう。いや、こっちの話』
美羅々は決心して打ち明けた。
「ヌウは麻由子かもしれないんです」
『あんた、そのことに自信ある?』
美羅々はきっぱり、はい、と答えた。
『よし、わかった。ヌウの正体はともかく、あやしい占い師であるのはたしかだね。こっちでもいろいろ調べてみるよ』
副島が請け負ってくれたことでホッとして、思わず軽口をたたいていた。
「今夜のメニューは何ですか」
『カルビ焼き肉弁当にポテサラと春巻、ドリンクはコカコーラ。こんな食生活つづけてたらそのうちメタボになっちまうな。また連絡するからさ。ちゃんと学校の勉強もするんだよ』
電話のあと、心にあたたかなものが残っていることに気づいた。副島さんをすきになっていた。コンビニで夕食を調達するくらいだから独身にちがいないが、恋人はいるのだろうか。副島のことをいろいろ考えると楽しくなってくる。そういう人がひとりでもいるというのはすばらしいことだ、と自分でも思う。
美羅々は体がひどくだるかった。襲われた経験以来、眠るのがこわい。夢にあの少年たちが現れそうな不安にとらわれ夜中に目がさめてしまうこともある。
階下でチャイムの音がした。父ならキーを持っているはず。いぶかしく思いながら玄関へ出た。ポーチに見覚えのある女性がいた。父の秘書水島津紀子だ。津紀子にささえられ、父の清太郎がおぼつかない足どりで立っている。ハイヒールをはいた津紀子の身長は長身の父とほぼ同じくらいだ。父のブランド物スーツにはいくつものしわが寄り、だらしなく見えた。
「ごめんなさい。キ―が見つからなかったもので」
津紀子はわびながら父が靴をぬぐのを手伝い、バランスをくずした清太郎は津紀子ともつれあうように上り口に手をついてしまった。
美羅々はひどく汚らしい光景を見た気がして、手さえ貸さずに立ちつくしていた。
「寝室までお運びすればいいかしら」
美羅々の返事も待たず、津紀子はヒールをぬいだ。
清太郎がどんよりにごったまなざしを向けてくる。
「おお、美瑠璃はどうした。あいつをここへ連れてこい」
美羅々は無言でリビングのドアを開け、父を運びこむよう津紀子にしめした。清太郎の体はソファに沈んだ。
「理事長は忘年会でちょっとお酒をめしあがり過ぎてしまわれたみたいで。わたしがついていながら申し訳ありません」
なぜこの人があやまる必要あるのだろう。
美羅々は、媚びてくるような、それでいてあつかましいような津紀子の態度が不快だった。
「お父さまにお水いただけるかしら」
美羅々がキッチンから運んだグラスの水をのどを鳴らして飲みほす父。こぼれた水がシャツとネクタイを濡らした。美羅々は目をそむけたい気分になってきた。
清太郎は充血した目を向けてきた。
「美瑠璃はどうにかならんかねえ」
ふだんなら五十三歳という年齢より若く見える父がこのときひどく老いた顔になった。
「理事会でもあいつの素行が問題になっている。このままだとおれの権限でもかばいきれなくなる。いっそ、休学させて海外へでもやってしまおうか。おまえはどう思う」
美羅々は脂の浮いた父の顔から目をそらして答えた。
「わたし、美瑠璃と話してみるから、もう少し待って」
いきなり父に手を握られた。べとべと脂ぎって熱い父の手。襲われたときの少年の手を思い出してしまい、そっと振りほどいた。父もあの少年たちと牡という点では同類なのだ、とこのとき感じた。
「美乃地はあのざまだし、あてにできるのは美羅々だけだよ。じいさんの代から守ってきた学園だ。将来は婿でも取って、おまえが学院最初の女性理事長になってくれよな」
いやよ、と言い返してやりたい。が、無言で父を見下ろしていた。
こんな様子を津紀子に見られてしまったかと思えば屈辱だった。
「お嬢さんもたいへんね。お父さまの世話まで焼かせられて」
笑いをふくんだ津紀子の声を聞いたとき、ふいに既視感に襲われた。津紀子の顔を見る。いまの声をどこかで聞いた気がする。わたし、この人にこれまで会ったことあるっけ?
黒いプラスチックフレームの中の目は知的でちょっと皮肉めいた色をたたえている。
津紀子はコートを抱え、会釈すると出て行った。美羅々は父をふり返った。苦しげな寝息を立てている。ひとりで寝室まで運ぶのはむりだ。暖房を強めにし、父の体に毛布だけかけてリビングを出た。部屋に戻ると美瑠璃からメールが着信していた。
(副島ってたぶんレズだよ。お姉ちゃん、ねらわれてるかもしれない。気をつけな)
ただそれだけの内容だった。
消えた男
呼越中央警察署のロビーは混み合っていた。
美羅々は総合案内窓口で、もらった名刺を見ながら生活安全課少年係の副島に会いたい旨を伝えた。しばらく待つよう言われ、手持ちぶさたにあたりを見まわした。ロビーのすみに車やバイクの運転免許更新窓口があり、そこが特に人が多い。ふとその中におぼえのある顔を見出し、心臓が高鳴った。ほおに大きな絆創膏を貼り、手首に包帯を巻いた少年がだらしなく足を広げ、待合用のソファに腰かけている。美羅々を襲った少年たちのひとりにちがいない。
美羅々は少年のほうへ背中を向けた。ここは警察署だ。何も起こるはずがない。そう自分に言い聞かせても、こみあげる恐怖心をおさえることができない。足が小きざみに震え、目にうっすら涙さえにじんでくる。
とつぜん、肩をたたかれ、ビクッとふり向くと、副島だった。
「どうしたの? 顔色悪いよ」
〈市民相談室〉というプレートがかかる小部屋に案内された。スチールデスクとイスのほかには何もなく窓には鉄格子。これだけなら刑事ドラマに出てくる取調室そのものだが、窓べに置かれたポインセチアの鉢が空気をいくらかやわらげている。
副島は手帳を取り出すと、麻由子失踪当時の家庭環境について教えてくれた。だが、その前に釘を刺すことを忘れなかった。
「捜査上知り得たことを許可なく一般市民にもらすのは本来なら規律違反だからね。そのつもりで聞いてよ」
美羅々はうなずいた。
「麻由子ちゃんのほんとうのお父さん、池上昌司さんは麻由子ちゃんが小学四年生のとき、妻の夢路さんと離婚してその後東京で暮らしている。麻由子ちゃんの捜索願が出されたあと、捜査員が池上さんのもとへ電話を入れたけど、麻由子ちゃんは池上さんのところへは顔を見せていないし、電話もなかったという」
麻由子が家出したのだとすれば、いちばん先に頼っていくのはやはり実のお父さんだろう。だが、そこへ姿を見せていないとすればまだ中学三年だった彼女はどこでどうやって過ごしたのだろう。美羅々は麻由子の身の上を考え、暗澹とした思いになった。
「麻由子ちゃんが失踪するまでいっしょに暮らした義理のお父さんは勝又行男さん。義理とは言っても、夢路さんとは婚姻届は出してなかったらしい。よく聞くでしょ、内縁の夫ってやつ」
正式な夫婦でない夫婦。麻由子とは親子ではない親子。麻由子はそんな家庭で暮らしていた。
車に乗せられリアウィンドウごしにこちらをふり返る麻由子の顔をまた思い出してしまう。何度も美羅々たちをふり返るあの表情。あれはわたしたちに救いを求めているようにも見えた。家に帰ることが嫌どころではない、恐れていたのだ、きっと。
「どうしたの、ボーっとして」
いまの記憶を副島に話すべきかどうか迷った。伝えておこう、と判断した。
美羅々の話を聞くや、副島はしばらく手帳に視線を落としていた。やがて顔を上げたとき副島の目はするどく光っていた。切れの長い眼窩の中で黒曜石のような瞳があざやかだ。美羅々は一瞬すべてを忘れ、その瞳に見入っていた。
「いまの話、二年前には警察にしゃべった?」
美羅々は首を横に振った。あのときはそれが重要なことだと思わなかった。麻由子はわたしたちといるのが楽しいから帰るのをいやがったのだ、そう考えていたのだ。
副島は手帳に何か書きつけてつぶやいた。
「そして、内縁の夫はいまあの家にいない……」
美羅々は美乃地が解明した麻由子の消失トリックについてもしゃべってみた。
副島はあまり関心なさそうだった。
「あたしもミステリー物とかすきだから、密室のなぞとか言ってさわいでみたいんだけど、現実の捜査ってのはさ、あの失踪に事件性があったかどうかってのが第一なんで、なぞ解きは二の次なの。当時、捜査員が現場に出向いたときにはあたりの雪はふみ荒らされて足跡は取れないし、遺留品の帽子やマフラーはあんたたちが勝手に持ち帰ってるしで、初動捜査がやりにくかったみたいだよ」
美羅々は責められているようでうつむいてしまった。
「警察が当時気にかけたのはさ、麻由子ちゃんの足取りがまったくつかめなかったことなんだよ。失踪当日の放課後、遅くまで図書室に残っていた姿が教員に目撃されている。そのあと失踪現場近くまでバスに乗ったのも乗務員の証言がある。バスの中でレモンをだいじそうにほおに当てる姿がミラーごしに見えて運転手の記憶に残ったみたいだ」
レモン。美乃地でさえ、まだ解明できないレモンのなぞ。あの子がレモンずきだったなんて話は聞いたことない。
「レモンのことはともかく、失踪後、麻由子ちゃんらしき女の子を乗せたバスもタクシーも見つかっていない。最寄りの駅でも目撃情報ゼロ。だれかの車に乗った可能性は高いけど、特定できていない」
麻由子に車の運転ができたはずはない。だとすれば自分の足でどこかまで歩いたということか。あの夜はとても寒かった。帽子やマフラーまでぬぎ捨てて暗夜を行く麻由子を想像すると胸をしめつけられそうになってくる。
「義父の勝又という人は当初疑われたらしい」
美羅々は副島の言葉に耳をそばだてた。
「勝又さんが麻由子ちゃんとは血のつながらない関係ということで、彼女の失踪にかかわっているのでは、と当時の捜査員は考えた」
副島は再び手帳に目を落とした。
「勝又さんは健康器具販売会社の営業マンだった。歩合制の給料で収入は安定していなかったようだ。近所の評判もあまりよくない人だった。ごみや吸いがらをよその庭へ投げ捨てたり、夜中によっぱらって騒いだりでトラブルもあったみたい。だけど、麻由子ちゃん失踪当夜は遅くまで営業先にいたというアリバイがあった。結局、失踪に事件性を見出せる根拠がなくて、捜査規模も縮小していったというわけ」
ところで、と副島は話題を変えた。
「例の占い師なんだけどさ。あのマンションの管理会社へ行って、フォーチュンハウスが入ってる部屋の契約者を調べてみたんだ」
副島は身を乗り出した。
「これ、あんたにしゃべっていいかどうかわかんないけど、秘密は守れる?」
「はい」
「部屋の賃貸契約者はある女性だ。名前は明かせないけど、職業は学校職員。契約時の連帯保証人はその学校の理事長になってた」
副島は意味ありげなまなざしを向けてきた。
美羅々は胸をトンッと突かれた思いでいた。学校職員。理事長。副島が把握した氏名は容易に想像できた。
「その理事長ってわたしの父ですか」
副島は肯定も否定もしなかった。
「その学校職員の女性って、理事長の秘書をしている人ですか」
「庶務課職員となっている」
美羅々ははっきりきいてみた。
「水島津紀子という人ですか」
副島はうんともいいえとも答えない。答えないことで逆に答は明らかだ。
「紅蝙蝠って聞いたことある?」
「いいえ」
「占い集団〈紅蝙蝠〉。東京を中心に四年くらい前からタロット占いのコーナーをいくつも開設している。ネット上でも占いや悩み事相談を受けつけ、若い女性メインに人気を集めている。この占い集団の詳細は不明だけど、最近になってあちこちで問題が出始めているんだ。紅蝙蝠で占いやアドバイスを受けた女子中高生の中から自殺未遂や家庭内暴力、家出をする子が増えている。いまのところ占いやアドバイスの内容が問題行動に直結していると断定はできないけど、なんらかの影響をおよぼしていることは考えられる」
「ヌウは紅蝙蝠のメンバーなんですか」
「そう。少女たちの間に問題が広がって、教育機関や警察が動きを見せると、紅蝙蝠という名をつかうのを控えるようになったようだ。ヌウという占い師の個人名を前面に出して活動するようになった」
美羅々の脳裏でチャドルからのぞく目がフラッシュバックした。ヌウが麻由子であると美羅々は確信している。では、水島津紀子と麻由子の間にどんな関係があるのだろう。副島から津紀子に関してきかれたが、あまりくわしいことを美羅々は知らない。今年の春から父の下で働くようになった新しい秘書ということだけだ。
副島は手帳を閉じ、美羅々を安心させるかのように言った。
「賃貸契約書に名があるとはいってもまだ犯罪をしたわけじゃないから、あまり心配しなくていいよ」
「わかりました」
わかれぎわ、副島が美羅々の肩に軽く手を置いた。ぬくもりが衣服ごしに伝わってくる。
頼りになる先輩に出会えた気分だ。
ロビーに先ほどの少年の姿はなかった。警察署を出て市営地下鉄の駅めざして歩いた。しばらくしてうしろで呼びとめる声がした。いやな予感をおぼえてふり返ると少年がいた。ポケットに片手をつっこみ、威嚇するような上目づかいでこちらをにらんでいる。
「どっかで見た女だって思ってたんだよ」
美羅々は両ひざが震えてくるのを感じた。
少年が近づいてくる。
美羅々はおびえた視線をあたりに泳がせた。車道に車の流れは絶えることはなく、歩道には人通りもある。走って引き返せば警察署があり、そこには副島もいる。だいじょうぶだ、と自分に言いきかせても震えは止まらない。
「おめえ、調子こいてんじゃねえよ」
第三者の目で見れば少年の態度は幼稚な虚勢に過ぎなかった。
だが、恐怖にとらわれた美羅々には少年の姿が暴力の化身であるかのように映った。
「おれのこの傷どうしてくれんだよ」
美羅々は何か言い返そうにも声が出てこない。
少年が歯をむきだした。かわいてひびわれたくちびるからのぞく歯は黄ばんで、よごれた便器を連想させた。
「こんど会ったらよ、仲間集めて、おめえのことボロボロんなるまで輪姦してやっからな」
少年は足もとへつばを吐き捨てると去って行った。その猫背で貧弱な背中を見ているうちに、恐怖の底からふつふつわきあがるべつな感情があった。
それは〝怒り〟だった。自分を傷つけ、ふみにじろうとする者への怒り。
負けたくない、と思った。
負けたくない。
強くなりたい。
わたし、強くなりたい。
あんなやつらに負けたくない。
ぜったい強くなりたい。
あいつらなんかやっつけてやりたい。
美羅々はいつしかこぶしを握りしめていた。
つぎの回では第二の密室失踪事件が起こります。ストーリーはさらに意外なほうへ展開していきます。ご期待ください。