母さんの味
自分はふつうの家庭に育ったと思う。
父さんはサラリーマン、母さんは専業主婦。それに、子供が俺と妹二人に弟一人。合計六人が、父さんがローンで買った一戸建てに暮らしていた。
父さんは工場勤務の管理職で、朝早くに家を出て、夜も遅くに帰ってきた。自分の家なのに、家にいる時間は、家族で一番、短いようだった。
反対に、母さんは一日の大半を(休日は殆ど一日中)家で過ごしていた割に、家の掃除や洗濯などは、けっこういい加減だった。いつも、家事をするのと買い物に行く以外の時間の殆どを、リビングのソファで横になって、TVを見て過ごしていた。
「お母さんが何でもしてやりすぎると、かえって子供はダメになるのよ。私は手を出したいけれど、子供の成長のために、あえて我慢しているのよ」
それが母さんの言い分だった。本当にそう思っているのかどうかは、怪しいものだったけれど。
そんな、傍から見ると怠け者のような母さんだったが、料理は意外に手がこんでいた。野菜炒めとか煮物はそれほどでもなかったけれど、たまに出してくるトンカツやハンバーグは絶品だった。特に、俺は母さん手作りのトンカツが大好物だった。小学校の頃から、いつも変わらぬその味が、俺の中で、最も印象に残っているお袋の味であった。
それから月日は流れ、俺は社会人になり、一人暮らしをすることになった。
父さんも母さんも、別に家にいてもいいと言ってくれたが(生活費を入れるなら、という条件付きだったが)、一人暮らしに憧れていた俺は、家を出て、自立することを決めたのであった。
一人暮らしを始めると、親の大変さがよくわかった。朝は寝坊が出来ないし、昼飯も自分で用意しなければならない。仕事に疲れて帰ってきても、そこから夕食の準備が待っている。部屋の掃除と洗濯も小まめにしなければ、狭いアパートはすぐに汚れ物でいっぱいになってしまう。仕事と家事を両方こなさなければならなくなると、いい加減だと思っていた母さんの仕事ぶりも、あれはあれで有り難いことだったのだなぁ、と、今さらながらしみじみと思うのであった。
特に、三度の食事を毎回どうするのか、というのが悩みだった。いつも同じメニューだと飽きるし、栄養も偏る。働き始めたばかりの給料で外食ばかり、というわけにもいかなかった。近所のスーパーに行って、献立を何にするのかと頭を使っていると、毎日ご飯を作ってくれた母さんの苦労が、少しは解るような気がした。
そんなある日のことだった。俺は、たまには買い物をする場所を変えようと思って、いつもとは違うスーパーに行った。そこは、実家の近所にもあったスーパーのチェーン店であり、見慣れた赤と緑の看板を目にすると、別の店であるにも関わらず、懐かしさがこみ上げて来た。
懐かしさのついでに、久しぶりにトンカツが食べたくなった俺は、総菜コーナーで、トンカツを買うことにした。
「うちのお総菜は、全部、同じレシピで作っているんだ。だから、全国、どの店でも、同じ味がするんだ。しかも、創業以来、変えたことのない、変わらぬ伝統の味なんだよ」
店員の話を適当に聞き流し、俺は買い物を済ませて、家に帰った。
買ってきたトンカツを皿に盛ってみると、その匂いが、母さんが作ってくれたトンカツのことを鮮明に思い出させた。家を出て、まだ数か月だけれど、もうかなり昔のことのように思えた。そして、不意に、数々の思い出が胸に去来して来た。その思い出の中心にあるのは、何と言っても、あの母さんの味であった。きっと、あれを越える味には、一生、出会えないのだろうな、と、思いながら、俺は、買って来たトンカツを、一口、かじった。
口の中いっぱいに、"変わらぬ伝統の味"が広がった。
「あ、母さんの味だ……」
〈終〉