第8話 北上条家へ
茉莉は、これまで自分が住んでいる町を出たことはなかった。従って初めての遠出となる。しかし茉莉にとっては新たなる門出であっても、天気が祝福してくれることはないらしい。雨こそ降っていないが、どんよりと曇っている。見通しが悪い先行きを象徴しているかのようでもある。
茉莉は小さく苦笑した。
「では伊吹。私、北上条家で斎様にお仕えしに行ってくるわね」
「くぅん?」
出発の支度を終えた茉莉は、伊吹に朝のご飯を与えて頭を撫でた。
状況が分かっていないであろう伊吹は耳を倒し、尻尾をぱたぱたと揺らして大人しく茉莉に撫でられている。
「ごめんね、伊吹。あなたは連れて行けないの。斎様が快復されたら戻ってくるわ。それまで皆のことを守っていてね」
「くぅん」
もし快復されなければどうなるのだろう。いくら病床に就いているとはいえ、自分が妻では斎も不服だろう。――いや。今は看護することだけに集中しよう。
茉莉はぐっと気を引き締める。
「あなたのことは彩華に言っておくから大丈夫よ。元気でいるのよ? 皆と仲良くやってね。それから」
その時、苛立った様子で茉莉の名を呼ぶ彩華の声が聞こえてきた。
「ああ。もう行かなきゃ。じゃあ、行ってくるわね、伊吹」
茉莉はもうひと撫ですると、伊吹に別れを告げて玄関前へ行った。するとそこにいたのは彩華だけだった。
「――はい、これ。斎様の屋敷までの行き方と地図。お父様は電報を打つ準備をしているから見送りには来ないわ。連絡が届き次第、斎様のお母様から斎様のほうへ連絡を入れてくれる手筈となるそうよ。私の見送りはせめてもの餞別。感謝してよね」
「……ありがとう。彩華、一つだけお願いがあるの。伊吹のことをよろしくね」
「伊吹ぃ? ……はぁ。分かった分かった」
眉をひそめて面倒そうに答える彩華。
「くれぐれも伊吹のことをお願いね」
「分かったって言っているでしょ。――あ、そうだわ」
彩華はうんざりとしている様子だったが、何かを思い出したらしく表情を変えた。
「私からも一つだけお願いしておくわね。今回、斎様を負傷させたあやかしは、上位のあやかしよ。だから私は、霊力が低いお姉様が斎様を助けられるなんて微塵も期待していないわ。お姉様を宛がわれた斎様はお気の毒だけど、もう脱落したも同然よ。だから私は二番手の候補を紹介してもらうわね。そうして司令官の妻になったら、自由気ままに生きてやるの」
「彩華……」
「何、その顔。お姉様に説教される覚えはないわよ。まあ、でも万が一、斎様に回復の兆しが見られたらすぐに連絡してね。やっぱり司令官の座に一番近く、麗しいと言われる斎様がいいもの。連絡係ぐらいにしか役に立たないんだから、たとえ瘴気で倒れても、連絡だけは怠らずにしてきてよね」
笑顔を向けて告げるはなむけとしては、あまりにも無情な言葉だった。
黒川家を出発し、乗合自動車を乗り継いで北上条家の屋敷前までやって来た茉莉は、ただただ息を呑んだ。
一望できないほどの大きな屋敷の右隣に淡い栗色の洋館が建てられている。木目を消して色を統一する洋館は、深みのある褐色の屋敷と違って木の温もりは感じないが、横に長くどっしり構えて厳かさを感じる屋敷に対して、縦にすっくとそびえるその様は気品を感じさせる。
「とても……立派なお屋敷」
日本家屋に隣接する洋館は異質であり、奇妙でもあり、しかし和と洋が融合する時流を象徴していて心逸るような、とくとくといつもより強く胸が波打つような気持ちになる。
「いけない。ご挨拶しなければ」
気を取り直して表玄関へと向かい、何度か声をかけると、しばらくして中から若い男性がやって来た。
二十代ぐらいだろうか。物腰柔らかそうな美しい顔立ちの方である。しかし彼は茉莉を見るなり、不愉快そうに顔をしかめた。
「……ああ。またですか」
看病にと、多くの婚約者候補が押しかけてきては逃げ帰ったという話なので、いい加減うんざりしているのだろう。とはいえ、初見から辛辣な言動を受けた茉莉は少し戸惑ってしまう。
内心、及び腰になりながらも茉莉は自己紹介する。
「く、黒川家からやって参りました。茉莉と申します。このたびの斎様のご災禍、心よりお見舞い申し上げます」
「ありがとうございます。お見舞いの言葉は確かにお受け取りいたしました。それではどうぞ気をつけてお帰りください」
彼はそれだけ言うとすぐに身を翻す。
黒川家の人間が来るという電報は、まだ届いていないらしい。
「お、お待ちくださいませ!」
門前払いされそうになった茉莉は、慌てて彼の背中に声をかけた。
「わ、わたくしは斎様の妻として看護にやって参りました!」
「……は?」
引き留めるために咄嗟にそう言ってしまった茉莉だが、それが興味を引いて彼は振り返った。しかしその表情は先ほどに増して不愉快そうだ。目を細め、茉莉を鋭く睨みつけてくる。
「勝手に斎様の妻を騙らないでいただけますか。ここには何人もの婚約者候補の方が斎様の看護をしたいと押しかけてきましたが、あなたほど厚顔な方はいらっしゃらなかったですよ。しかも、あなたはこれまで訪れてきた婚約者候補の誰よりも霊力が低い。そんなあなたが、強い瘴気を放つ斎様の看護をできると言うのですか。勘違いも甚だしい!」
茉莉は、ぴしゃりと言われて思わず首をすくめた。
そもそも自分のような人間がこの格式ある屋敷の敷居をまたぐこと自体、不敬行為だったのかもしれない。
恥じ入りそうになったその時。
「千尋さん、何ですか! その物言いは!」
厳しい女性の声が茉莉の背後から聞こえた。
驚いて振り返ると、色とりどりな野菜を入れた籠を持った女性がそこにいた。三十歳手前くらいだろうか、快活そうな方だ。
その女性は申し訳なさそうに眉尻を落として会釈した。
「わたくし、こちらで女中頭を務めております、絹と申します。こちらの者が大変失礼な物言いをして、誠に申し訳ありません。普段はこうしてお客様を迎えることがない者なので、勝手が分からないのです。どうかお許しくださいませ」
「と、とんでもないことでございます。私は黒川茉莉と申します」
「まあ! 黒川家の。そうでございましたか。斎様の看護にいらしてくださったのですね」
「は――」
茉莉は、絹の優しい笑顔に頷こうとしたら。
「絹さん! この人は斎様の妻だと言って、家に入り込もうとした不届き者なんですよ!」
千尋と呼ばれた目の前の彼に遮られる。絹はやれやれといった風に、もう片方の手に持っていた一枚の紙を彼に差し出した。
「何ですか、これは」
「紗和様からです」
「紗和様? 斎様のお母様?」
電報が届いたらしい。
ほっとしていると、紙を受け取った千尋が訝しげに視線を落とした。
「クロカワケノ レイジョウガ イツキノツマ トシテ ハイル ヨシナニタノム。――は? は!?」
千尋は茉莉と電報を何度も見比べた。




