第55話 幸せな未来に向かって
「やっと我が家に帰ってきたという感じだな」
昼間は斎の快気祝いで屋敷中、盛り上がっていたので、茉莉と斎は夜になってようやく落ち着いて話せるようになった。
「はい」
茉莉は素直に頷くことができた。
これまでは仮初の妻として、一時だけ身を置く立場で自分の家とは到底思えなかったが、今はここが我が家だと思えるようになった。
それは茉莉や伊吹たちを歓迎してくれる家の人たち、そして茉莉を妻として迎えてくれた斎のおかげだ。
「ありがとうございます、斎様」
「何がだ? 感謝の言葉なら私のほうがするべきだが」
「色々です。斎様からたくさんのものを頂きました」
自分の心まで温まる人の温もり。家族として認められる気恥ずかしい感情。ほっとできる自分の居場所。――何よりも自分を道具としてではなく、一人の人間として求め、愛してくれた喜び。
気持ちのすべてを表現することはできない。けれど、言葉で表現できなくても、名の付けられない感情だとしても、自分の胸に熱く満ちるものが、守るべき大事なものであることだけは分かる。
茉莉は、そっと自分の胸に手を置いた。
「そうか。私も君からたくさんの気持ちをもらった。……茉莉、ありがとう」
斎は浮かべていた笑顔をふっと消して真剣な表情になる。
「愛している、茉莉」
「私も斎様を心よりお慕いしております」
そうして斎は茉莉に顔を近づけると唇を重ねた。優しい口づけを繰り返し、互いの呼吸が乱れてきた頃、名残惜しそうに離される。
唇からは瞬く間に熱が消え去り、茉莉は寂しさを覚えた。
「茉莉、もっと君のことを知りたい。教えてくれるか?」
「……はい」
斎の低く切なげな声で術でもかかったように、茉莉は夢心地で頷く。すると、彼は茉莉を抱き上げて寝室へと向かった。
すでに用意されていた布団に優しく下ろした斎は、背後を振り返った。
「伊吹。明日、私の霊気をやるから黄金を頼む」
「ワゥンッ」
伊吹は、一緒になって寝室に来ていた黄金の首をくわえると、居室へと運ぼうとする。
「ココギュアンッ! ココンッ! ココンッ、ココッ……キュゥゥン」
黄金はバタバタと抵抗するものの、伊吹の力には敵わず、最後は力なく項垂れて運ばれていった。
斎は襖を閉めると部屋に結界を張る。
「あ、あの。斎様? 対人用の結界も張っておられませんか? そ、それも特別強力な」
振り返った斎は唇を横に薄く引いた。
「茉莉の目はよく見えることだな。しかも防音性だ」
「ぼ、防お――ん!?」
斎は口づけで、逃げ腰になっていた茉莉の言葉と抵抗を奪う。
唇からは彼の荒々しい熱が伝わってきた。
「相変わらず、茉莉の香りは私を酔わせるな……」
斎はかすれ声でふっと笑う。
彼の熾烈な情欲の香りは茉莉の思考をも溶かし、わずかに離された唇から消えゆく熱に焦燥感を覚えさせた。
茉莉は無意識に腕を伸ばし、自分のほうから彼の熱を迎えに行く。
「っ!」
茉莉が唇を離すと、斎は奥底に獰猛さを潜ませた熱情的な目で茉莉を見つめた。
「本当に君は私を煽るのが上手だな」
「知りっ、ません。私でもこんな自分は……」
茉莉は乱れた息で必死に首を振る。
「そうか。では、君さえも知らない素顔を私にもっと見せてくれ」
斎に愛おしげに見つめられて、茉莉は幸せで胸が一杯になる。
いつまでもこの幸福感に浸っていたい。そんな飽くなき欲望は知らなかった。
彼の愛を独り占めしたい。そんな卑しい欲望は知らなかった。
「斎様……。私の欲望の核はきっと歪で、濁った色をしています」
「いいや。きっと珠玉のように気高く――艶めかしい核のはずだ」
斎は小さく笑うと、茉莉の呼吸を奪うような激しく熱い口づけで、茉莉の心と体を暴いていく。
自分のすべてを晒されることは、酷く恐ろしいことのはずだ。それなのに、彼の熱であぶり出される茉莉の心と体は悦びで満たされている。
自分のすべてを暴かれたい。そんな慎みのない欲望は知らなかった。
優しい温もりよりも、凶暴な熱さに包まれたい。そんな淫らな欲望は知らなかった。
茉莉は自分のことを知らなかった。斎のことを知らなかった。
斎がそんな茉莉の浅ましい欲望を満たしてくれることを。それが夜明け近くまで続くということも。翌朝、斎が伊吹にかけた言葉の真意を知るということも……。
世間を騒がせていたあやかしによる事件は落ち着き、人々がまた平穏な日常を取り戻した頃、茉莉たちは祝言をあげることになった。
斎の親族側として千尋や絹が出席し、茉莉の親族側として清高、そして人数合わせの為か、正真が出席することになった。
神職は正真の父親が、神楽奉奏は正真の妹が務めてくれるらしい。すべて親戚のみで進行されることが何だかおかしかった。
茉莉は、清高と式の前に少し話をした。
黒川家は、伊吹が去り、看板娘として清祓いをしてきた彩華も療養中で、残された祓い師見習いだけでは屋敷の結界を維持するだけで精一杯だと言う。急遽、祓い師を雇ったが、能力に見合わない法外な金額を要求してきたそうだ。苦情が殺到してみるみるうちに評判が落ち、依頼数が激減しているとのこと。
茉莉の結納金と黒澤家からの彩華への慰謝料も、給金と日々の生活で泡沫のごとく消えていくだろう。
「清ちゃんは、本当にもう黒川家に戻るつもりはないの?」
「うん。僕が家を出たのは、彩華姉さんを持ち上げる家風を嫌っていたのも確かだけど、茉莉姉さんが酷い扱いを受ける姿を見ているのが辛かったから。僕は幼くて能力も低くて……何もできなかった。悔しかった。情けなかった。だから家を出て強くなったら、茉莉姉さんを連れ出そうと思って。でももう、その家に茉莉姉さんがいないからね」
清高は、十歳の時に修練を積みたいからと言って家を出た。まさか幼くして、そんな決意を秘めていたとは、茉莉は夢にも思わなかった。
「そうだったの。ありがとう、清ちゃん」
「……うん。それに師匠から養子か、む、婿に来てくれないかって言われてて」
「む、婿ですって?」
師匠には清高と同年代の娘がいるらしい。結婚にはまだ早い清高だが、満更でもなさそうな表情を見ていると、数年後には本当にそうなるかもしれないと思えた。
「ま、まあ、僕のことはともかく。茉莉姉さん。……幸せになってね」
「ええ、ありがとう」
茉莉は心からの笑顔を浮かべた。
「茉莉。さあ、行こう」
「はい、斎様」
茉莉は笑顔の斎と肩を並べて、参進の儀に臨む。
この参進の儀が一般のそれと違うところは、茉莉の横には伊吹、後ろには黄金を始めとして、あやかしが行儀よく行列を作っていることだろう。
もしこれが夜だとしたら、百鬼夜行のようにも見えて、怯えられるかもしれないが、招待客は屋敷の皆や退魔師の隊員ばかりだ。誰も逃げ出したりはしない。
ただし隊員の中には、驚きの表情を浮かべている人や複雑そうな表情をしている人もいる。しかし茉莉は笑顔の藤堂も見ることができた。
――そして。
木に半分身を隠している泰造の姿が目の端に映った。
ほんの少しでも愛おしく思ってくれていた時はありましたか。親として愛情を感じてくれていた瞬間はありましたか。
視線を後ろに追ってまで、そんな疑問を投げかけたい気持ちになった。
しかし。
「茉莉」
斎から小さく声をかけられた茉莉は、振り返ると微笑みを返す。
いいえ。愛を求めていた過去にはもう振り返らない。これからは二人で愛を与え合う未来を作っていくのだから。
茉莉は真っすぐ正面に向き直ると、斎と歩調を合わせて進んで行った。




