第40話 花の香りに酔う
本日は皆、揃って食事しているが、一様に表情は暗い。会話がないまま食事を終えて箸を置いた後、茉莉は真っ先に声をかけた。
「あ、あの。お口に合わなかったでしょうか?」
「い、いえ! そんなことはありませんわ。本日もとても美味しく頂きました。――ね、斎様! 千尋さん!」
絹は二人に声をかける。
「あ、ああ」
「はい。今日も美味しかったです」
何だか無理やり言わせた感がある。疲れで味覚が狂ってしまったのだろうか。
茉莉がうつむいて考えていると、誰かがごほんと咳払いした。
「あー、ま、茉莉」
「はい」
斎の言葉に顔を上げる。
「伊吹のことだが、これから霊気は千尋が与える」
「え?」
茉莉が千尋のほうを見ると、彼はただ頷いた。
「黄金はまだ君ではないと不満らしい。だから悪いが、黄金の世話のほうをよろしく頼む。間もなく家の者も呼び戻すつもりだが、彼らが戻ってきたら伊吹の世話の分担もしてもらうつもりだ。伊吹の霊体の姿は、千尋や絹でも集中しないと見えないぐらいだから、他の者がいる時はできるだけ実体化させておいてほしい」
黒川家では、伊吹は誰にも見えなかったと言う。伊吹の存在を知っているのは泰造だけだったが、その泰造も霊体の姿は見えず、いつの間にかその存在すら疑っていたのかもしれない。
つまり、術師の能力不足を伊吹が補助していたことに気づかなかったことが、今回の事態を引き起こしたようだ。
「承知いたしました。ご配慮、誠にありがとうございます。伊吹からも挨拶を。こちらが斎様、千尋様、絹さんよ」
「ウワォンッ!」
茉莉が皆を紹介すると、伊吹が甲高く一鳴きする。
その声で、屋敷の空気が一段と清浄で清涼感のある雰囲気へと変わった。
「驚いたな。挨拶がてら結界を張ったか。しかしここまでの力とは」
「ええ。道理で私の式神が通用しなかったわけです。これほどの力ならば、絹さんは結界を解いても大丈夫そうですね」
「まあ、凄いのね! 伊吹ちゃん」
「ワフッ!」
褒められて満更でもなさそうに吠えた伊吹。皆から受け入れられて、存在を認められて伊吹も嬉しいのかもしれない。尻尾をぱたぱたと揺らしている。
「話を戻すが、今朝はもう伊吹に霊気を与えてしまったようだな。顔色が優れないし、霊力の不安定さも感じる」
「はい。ですが徐々に戻ってきますので」
茉莉は座布団から下がると頭を下げた。
「改めまして伊吹と私を受け入れてくださって、皆様に心より感謝いたします。全身全霊をかけて北上条家の皆様をお支えいたします」
「ま、茉莉、そうでは」
すると絹が、うっと声を詰まらせた。
感激してくれたらしい。やはり情に厚い方だと茉莉もじんと胸が熱くなる。
「あぁ。斎様が不甲斐ないばかりに……」
両手で口を押さえ、顔を伏せる絹の呟きはくぐもって茉莉には聞こえなかった。
そんな絹を千尋がなだめる。千尋は一見冷たそうであり、斎本位主義の人間だが、絹にもかなり懐いている。
「わ、私は、自分の素直な気持ちを自分なりの言葉で伝えたつもりだぞ」
「伝わっていないことが問題なのです!」
絹は涙目で、斎をきっと睨みつけた。
「これから鋭意努力なさってください!」
「わ、分かった」
絹に押されている斎の姿は微笑ましい。もうしばらくこんな和やかな雰囲気の中で過ごせるのかと思うと、茉莉は幸せな気持ちになった。
その夜。
伊吹は茉莉と離れがたそうにするので、一緒に斎の部屋を訪れた。
朝、茉莉が伊吹に霊気を与えたので、今日は千尋からもらうと斎が言ったが、茉莉は頑なに自分の意思を通した。彼と過ごす時間には限りがあるからだ。
黄金は伊吹に対して怯えているのか、腰が引けていたが、伊吹は黄金に対してあまり関心がないようだ。友好的ではないが威嚇もせず、茉莉の傍で大人しく伏せをしている。
「段々、紐の姿も感覚も分かるようになってきた。もう間もなくだな」
黄金も靄の時はぼやけ広がっていて分からなかったが、形がはっきりとしてきた今、二つ尾の妖狐だということが分かる。黄金の紐に触れてみると、触れているという感覚がはっきりと分かってきた。
「早く黄金を解放してやりたい」
斎はそう言いながら黄金を撫でる。
いつしか斎は、あやかしから解放されたいという思いではなく、黄金を解放してやりたいという気持ちに変わっていた。
「伊吹も……犬神も、道具とするために生み出した身勝手な私たち呪術家系の犠牲者なのですよね」
「否定はできない。だが、それは犬神家系だけの問題ではない。犬神を求める人間側の問題でもある」
需要があるから、供給があるということだ。人間の欲深さは留まるところを知らない。誰だって幸せをつかみたいものだが、そのために犠牲にする命があってはならない。
「伊吹もいつか私から解放してあげたいです」
茉莉が伊吹に左手を伸ばすと、伊吹は茉莉の手のひらをぺろぺろと舐めた。
「気持ちは分かる。しかし犬神はもともと気性の荒い祟り神だ。ひとたび人間の手を離れてしまえば、傍若無人に暴れて甚大な被害をもたらすだろう。人間が意図的に作り出した以上、人間の手の内で管理しておくべきものもあるということだ。できることは、これから犠牲となるものを出さないことだ」
「……はい。ところで黄金は、犬神とは別の形で生まれたのですよね」
茉莉が名前を出したからか、呼ばれたと思った黄金は一度顔を上げる。
今度は黄金を撫でると、ココンと小さく喉を鳴らしてまた手のひらに顔を埋めた。
「ああ、そうだな。犬神の場合は人為的に作り出したものだが、あやかしは人間の思いから生まれたと言う。同じ犬属でも送り犬や送り狼は人間をつけ狙い、転んだ隙を狙って襲ったり、逆に人間を守ったりすると言われる。それらは人間を監視する習性や人間と長らく共生してきた歴史が元になっているという説があるな」
「お、送り狼ですか?」
送り狼の言葉は聞いたことがあるが、あやかし由来だったのだろうか。
「ああ。送り狼は転じて、親切を装って送る男性が、女性の隙を狙って不埒な行為をするという意味にも使われるようになっている」
何だか気恥ずかしくて茉莉は慌てて話を変える。
「と、ところで。一般的に狐は単独行動をする動物なので、人には懐かないと思うのですが、黄金は従順ですし、懐いているように体をすり寄せてくることが多いのはなぜでしょう」
「子供の頃から人に慣れていると、懐く場合もあるらしい。あやかしになる前は誰かに飼われていたのかもしれない。――あるいは」
斎はさりげない様子で、下ろしていた茉莉の髪を一筋、手に取った。
「あ、あの、斎さ――」
「黄金が従順なのは、茉莉のかぐわしい花の香の霊気に酔わされているからかもしれない」
「っ!?」
目を伏せて茉莉の髪に顔を近づける斎こそ色香を漂わせていて、茉莉の心臓は早鐘を打ち出した。




