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第39話 これからのこと

 いつものように茉莉の頬に小さな灯がともる。

 愛おしさが込められたそれに茉莉の胸が熱くなり、幸せで満たされ、それを逃がすまいとするように胸がきゅっと締めつけられる。だからその灯が離れると途端に心が冷えこんで、心細く、寂しくなり、毎夜求めてしまうのだ。その灯が斎の温もりであればいいと願いながら。


 しかしいつも瞬く間に消え去るその灯が、徐々に頬から顎のほうへと下りていく。触れては離れるを何度も繰り返す。今日は湿り気を含んで。ぺろりと舌で舐められているかのように。

 そう、ぺろぺろと舐めて。誰かが眠る自分を。……一体誰が舐めるというのか。いつも自分の横で眠っているのは――まさか!?


 焦った茉莉が勢いよく目をばちりと開ける。しかしそこに斎の姿はなく、いたのは伊吹だった。


「……あ。何だ。伊吹。あはは……そうよね。え、伊吹!?」

「ワフ!」

「ど、どうしてあなたがここに。あ……私の部屋。ああ、そうね。昨日」

 

 昨日、茉莉は電報で呼び出されて黒川家に戻ったことをはっきりと思い出した。


 たくさんのあやかしがいる中、廊下を走り、父親に贄とされ、自分の出生の秘密を知った。父から守られるべき人間ではなかったことを知った。愛されるべき人間ではなかったことを知った。自分が道具であることを知った。黒川家を去っても誰にも気に留められない人間であることを知った。


 ――そして斎様から、自分のことを守るべき存在と言ってくれた。傍にいていいと、傍にいてほしいと望んでもらった。茉莉という一人の人間を求めてくれた。


 茉莉は、実体化している伊吹に抱きつく。大きな伊吹は、ふわふわと柔らかな毛並みで茉莉を受け止めてくれる。


「伊吹、あなたが傍にいてくれて本当に嬉しいわ」


 斎は、茉莉が犬神家系の人間だと知っても守りたいと言ってくれた。伊吹を受け入れてくれた。自分もまた皆を守りたいと思う。


「今日からはあなたもここの一員よ。私たちで、この屋敷の皆さんを守りましょう」

「ワフンッ!」

「ふふ。では、まずは伊吹からご飯をあげましょう」


 茉莉は伊吹に霊気を与えると、朝の準備を始めた。



 厨にて朝食を作っていると。


「まあ! 茉莉様ったら!」


 酷く驚いた声を上げた絹に茉莉のほうがびっくりした。


「お、おはようございます。どうなさったのですか」


 茉莉はお皿を置いて振り返る。


「どうして朝食などお作りになっているのです! 顔色が悪いですわよ!」


 今日は、朝から伊吹に霊気を与えたからだろうか。確かに北上条家に来てからは、体軽く仕事をさせてもらっていたが、それまでは日常的な体の状態だ。


「昨日は早めにお休みさせていただきましたので、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。それよりも昨日、斎様からお聞きいたしました。私を受け入れてくださったことを感謝しております。本当にありがとうございました」


 茉莉は頭を下げた。


「何をおっしゃるのです。わたくしこそ茉莉様が斎様の奥様になってくださって、心より感謝しておりますのよ」


 茉莉は、絹にはまだ真実を伝えていなかったことに気づいた。

 自分は仮初の妻だということを。しかし紐が切れて黄金が完全に離れるまで、まだ知られるわけにはいかない。


「……も、もしかして斎様と結婚されるのは、お、お嫌? だ、だったり?」


 茉莉が黙って考え込んでいたためか、絹は焦ったように尋ねてきた。


「いいえ。身に余る光栄です」


 茉莉は答えあぐねて若干棒読みになってしまったせいで、絹は安心するどころか、さらなる焦燥感を抱く。

 

「た、大変――い、いえ! わたくし少々、か、火急の用ができまして、少しここを離れましても?」

「もちろんです。どうぞ」

「あ、ありがとうございます。それでは」


 絹は慌てて身を翻して厨から出て行った。



 間もなくして絹が戻ってきた。茉莉もちょうど料理を作り終えたところだ。


「ありがとうございます、茉莉様。それでは、斎様に食事のお声がけをしていただけますか? わたくしは千尋さんを呼んでまいりますので」

「はい。承知いたしました」


 茉莉は割烹着を脱ぐと、斎の部屋に向かった。


「茉莉でございます。斎様、起きていらっ――」


 声かけの途中で襖が開けられて驚いた。


「おはようございます、斎様」

「あ、ああ。おはよう」

「ワフッ」


 斎は伊吹からの挨拶に視線を落とす。


「伊吹もおはよう。今は霊体化しているのか。これからはできる限り、実体化していてほしい。世話をしようにも他の者に見えないと、できないからな」

「え?」

「ワフッ!」


 茉莉が疑問を抱く一方で、伊吹はすぐに斎の言葉に応じて実体化する。


「賢いな」


 斎は身を屈め、ふさふさの伊吹の背中をひと撫でふた撫でする。すると、どこからか咳払いのような音が聞こえてきた。


「あ、と、とりあえず。茉莉、部屋に入ってくれ。朝食前にこれからのことを話したい」

「はい。承知いたしました。失礼いたします」


 茉莉が一礼して部屋に入ると、斎と向き合って座り、茉莉の横に伊吹がちょんと座った。

 しかし斎は何か考え込んでいるようで、何も言わない。それならば、先に昨日のことについて謝罪しようと茉莉は口を開く。


「あの、斎様」

「え? あ、ああ。すまない」


 難しい顔をしていた斎は、我に返ったように顔を上げた。


「昨日のことを謝罪申し上げます。皆さんに大変ご迷惑をおかけしてしまいました」

「いや。退魔は我々の家業だ。どこで起ころうと見過ごせるものではない」

「心より感謝申し上げます」


 茉莉は畳に手をついてお礼を述べる。


「そういえば、なぜ皆さんが黒川家にいらっしゃったのですか?」

「君が車で出たすぐ後に、君の妹、彩華殿が君の代わりになると言って我が家にやって来たからだ。黒川家は、もう君を私のもとに返さないつもりだと気づいた。だから君を迎えに行ったんだ。千尋と絹は付いてくると言って聞かなくてな」

「わ、わざわざ私を迎えに……来てくださったのですか」


 斎は頷くと、沈黙で考え込んでいた時と違い、茉莉を真っすぐに見つめた。


「ああ。――茉莉、君は私が自暴自棄になって、君に酷い態度を取っている時でも、ひたむきに向き合ってくれた。そのおかげでここまでやって来られたんだ。私には君が必要だ。これからも私の傍にいてほしい」


 熱情的な斎の視線とかすれたような声に心臓が跳ね、体温が上昇し、茉莉の目も潤む。


「はい、斎様」


 茉莉は再び畳に手をつき、頭を下げた。

 自分が人から必要とされるだなんて、何と心が震えることだろう。


「ご信頼いただき、ありがたく存じます。斎様が快復されるまで誠心誠意お仕えいたします」

「…………え?」

「ク、クゥン?」


 茉莉には、なぜか斎と伊吹の鳴き声が呆気に取られたような声のように聞こえた。

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