第37話 私の居場所
「伊吹、お座り」
霊気を与えた伊吹は、もう落ち着きを取り戻している。茉莉が伊吹に指示すると、伊吹は素直に茉莉の体から下りてお座りをした。
茉莉もまた体を起こそうとしたが、力が入らなくてなかなか起き上がれない。すると斎が茉莉の傍に来て抱き起こした。
「あ、ありがとうございます。斎様」
何とか座ることができた茉莉は、斎のほうへと振り返って礼を述べる。
「どうしてこちらに?」
「……あ。いや、君こそ。何と言うか。――君は一体何なんだ!?」
斎は、頭が痛そうに額に手をやりながら茉莉に尋ねた。
と、その時。
「斎様! こちらにいらっしゃいましたか。あやかしの一掃を完了いたしました」
「結界も修復いたしましたわ」
斎を探していたらしい千尋と絹がやって来た。
「……これは今、どういう状況でしょうか」
千尋は茉莉たちを見て素朴な疑問をぶつける。
「ああ、そうだな。私も知りたい。なぜ狂暴化したあやかしがいる部屋に茉莉を閉じ込めたのか、説明してほしいものだな、当主殿」
斎が泰造へと視線を送ると、泰造は力が抜けたようにすとんと畳に座り込んだ。
「わ、私は黒川家の当主として、この屋敷と屋敷の人間を守る最大限のことをしただけのことです」
「あなたが守るべき人間に、茉莉は入っていなかったということか?」
泰造は茉莉を一瞥するとふっと笑った。
「これの母親は犬神家系です」
「え……? お姉様には本当に犬神が憑いていたの?」
愕然とした彩華は茉莉の方向に視線をやり、目を凝らした。
今、伊吹は霊気の消耗を抑えるためか、霊体化しているからだろう。
「ああ。黒川家を繁栄させるために、犬神家系から妻を娶り、犬神の世話をする者、つまり犬神のに――」
「当主! 正気か!」
斎に止められた泰造は一度言葉を切った。しかしすぐに、にたりと笑って口を開く。
「犬神の贄にするために子を、茉莉を生ませたんだ。そうして先妻を追い出し、お前たちを迎えた! 一体何が悪い!? 犬神家系は犬神売りを生業としてやってきているんだ。それを私が客として利用して何を責められることがある!? すべては愛するお前たちのためだよ! 愛するお前たちを守るために、幸せにするために、仕方なく犬神憑きなど汚らわしい女を妻として迎え入れたんだ!」
泰造は和歌子と彩華に向けて一気に言い放つ。
和歌子は承知の上だったのか、多少顔をしかめたぐらいだったが、彩華は青ざめて茫然と言葉を失った。
茉莉は、実の父親から愛されていないことは分かっていた。それは自分の霊力が低いからだと思っていた。親の期待に応えられない子供だからだと思っていた。しかし本当は愛される対象ですらなかったのだ。自分はただの道具だった。何の迷いもなく、茉莉を荒ぶる神を鎮めるための贄にしようとした。
もうあきらめたはずだった。もう期待するのはやめたはずだった。希望を持つことも絶望することもしないと誓ったはずだった。なのになぜこんなに……体が震えるのだろう。
茉莉は無意識に自分自身を抱きしめる。
「そうか。当主殿にとって、茉莉は守るべき対象から外れていたとしても、私にとって彼女は守るべき対象で――愛すべき対象だ」
斎の言葉に茉莉はのろりと顔を上げる。しかし彼の表情は、視界が滲んでいてよく分からない。さらに強く抱きしめられて、茉莉はもう何も見えなくなった。
「茉莉は私のもとに返してもらおう。一度は当主殿から茉莉を手放したんだ。文句はないな。それに、もともと母の公認で私の妻として北上条家に入ったのだしな。当主殿が返せと言う権利も、私が返す義務もない。――茉莉、行こう」
斎はそう言うと、伊吹に霊気を与えて力の入らぬ茉莉を抱き上げた。
「伊吹、茉莉はもう二度とこの屋敷には戻らない。君も一緒に来るか?」
「ォン!」
伊吹は小さく吠えて同意を示す。
「そうか。では行こう」
斎は茉莉を抱いたまま、千尋たちのところまで歩いて行く。
「絹、千尋。改めてまた引き取りに来させるが、ひとまず即今、必要そうな茉莉の私物をまとめて持ってきてくれ。悪いが、私は茉莉と先に車へ戻っている」
「……かしこまりました」
「承知いたしました。彩華様、茉莉様のお部屋にご案内いただけますか」
千尋が彩華に声をかけると、彼女はまだぼんやりした様子で頷いた。
「……付いてきて」
彩華は身を翻して部屋から出て行き、千尋もそれに倣って出て行った。
「では当主殿、私たちも失礼する。――ああ、そうだ。黒川家も屋敷の修復が必要だろう。後日、茉莉の支度金の代わりとして、手切れ金を送らせていただく。それで直すと良い。それでは」
斎はそう言い残して部屋を後にする。
廊下にはもうあやかしの姿はなかったが、皆、後始末に追われていた。
茉莉はここにいる時も、北上条家に向かう時も誰も気に留める人はいなかった。今日も誰にも見送られることなく、誰にも気に留められることなく、この家から去って行くのだろう。茉莉が去ったところで、この家ではこれからも何ら変わらない日常が続いていくのだろう。初めから自分にはどこにも自分の居場所がなかったのだ。
それが酷くみじめに思えた。
――すると。
「茉莉」
斎から声をかけられて茉莉が顔を上げると、彼は微笑んでいた。
「顔色が悪い。伊吹に霊気を大量に与えて疲れたのだろう。早く帰ろう。私たちの家に」
「っ!」
茉莉は、斎の温かい優しさに包まれて、声を上げることなく静かに泣き続けた。
いつの間にか眠っていたらしい。
茉莉の意識がふと浮上する。
今日一日、何をしていたのだろう。今、何時頃なのだろう。確か今日はまだ黄金に霊気を与えていなかったのではないだろうか。黄金に霊気をあげなければ。
「こ、がね。れいき……」
ぼんやりした意識で手を伸ばして探すと、茉莉の手を誰かが受け止める。
「まったくこんな時まで。君という人は」
呆れたような男性の声、斎の声がした。
「心配しなくていい。千尋が黄金に霊気を与えた。どうやら君のほうがいいらしくて、少し拗ねていた様子だったが。――さあ。分かったら、ゆっくり休め」
「私、は。ここにいて……も?」
「茉莉、そうではない」
斎は茉莉の手を両手で包み込んだ。
「茉莉にここにいてほしいんだ。茉莉も千尋も絹も皆、そう望んでいる」
ここにいていいと許可されたのではなく、ここにいてほしいと望まれた。きっと自分は何年も何年も、誰かにそう言って欲しかったのだろう。そう言ってくれる人が現われることを待ち望んでいたのだろう。
あふれ出した涙が耳のほうへと流れていく。それをそっと拭ってくれる温かい手。
「あり、がとう、ございます……」
いつの間にか慣れ親しんでいた布団の柔らかさと部屋の香り、そして人の温もり。自分はそれらに包まれてここで生きていく。




