第34話 スグカエレ
茉莉がびっくりして顔を上げると、そこにいたのは千尋だった。
「黒川家からですね」
「まあ、千尋さん! 何と手癖が悪いことでしょう。茉莉様にお返しなさい」
茉莉から電報を取り上げた千尋を見た絹は、駆け寄ってきた。
「返しますよ。私が先に中身を確認し――あっ」
「茉莉への電報だ」
同じく庭にやって来た斎が千尋から電報を取り上げると、茉莉に返した。
「千尋がすまない」
「いえ。ありがとうございます。で、では確認いたします」
腕を組んだ千尋からの早く開けろと言わんばかりの圧を受けた茉莉は、絹に箒を預かってもらって電報を開いた。
「え!?」
「どうした?」
「……チチタオレル。スグカエレとあります」
詳細は書かれていない。茉莉が家を出る日は元気そうだったが、まさかあやかしに襲われて怪我でもしたのだろうか。
「まあ、大変! お父様がお倒れになったの? ならばすぐに帰りませんとね」
茉莉は、絹の言葉にはっと顔を上げる。
「そうだな。車を呼ぶからそれに乗って帰るといい。千尋、車を呼んでくれ」
「はい。承知いたしました」
斎が千尋に指示を出し、彼はすぐに身を翻して行った。
「あ。で、ですが、私事でご迷惑をおかけするわけには」
「君の実家だ。私事ではないだろう。迷惑でもない。乗合自動車と違って家まで直行してくれるから、そのほうが早い」
「こ、黄金のこともありますし」
父親の一大事なのに薄情だとは思う。それでもそれ以上に斎のことが気にかかるのは、それが茉莉に与えられた義務だからか、ここを一度去ればもう戻れなくなるかもしれないという恐れか、それとも斎と離れたくないという……身の程知らずな想いか。
「大丈夫ですわ。千尋さんも結界に力を注がなくて良くなった分、わたくしたちが黄金に霊気を与えられます」
「そうだ。近々、他の使用人も呼び戻そうかと考えていたことだし、こちらのことは心配しなくていい」
「……はい」
茉莉は必死に笑みを作る。
「父君が落ち着いたら、戻ってきてくれ。道中気を付けて」
「っ! はい! すぐに戻ってまいります」
斎の言葉にようやく心に陽が差し込んだ茉莉は、元気を取り戻した。
「さあ、茉莉様はすぐにお帰りのご準備なさって」
「はい。ありがとうございます」
一時帰宅の準備を終えた茉莉は斎たちに礼を述べると、車に乗って北上条家を出た。程なくして北上条家の方角に向かう一台の車が見えたが、先を急ぐ茉莉は気にも留めなかった。
斎が用意した車は乗り継ぎがなく、家まで直行するため、茉莉が北上条家に向かった時よりもはるかに短時間で家に到着することができた。
しかし驚いたのは――愕然としたのはそのことではない。実家の結界にいくつもの大きな穴が開いているのが見えたからだ。
「何……」
慌てて中に入ると、整然としていた庭は酷く散乱していた。
庭には、石を投げつけたり、地面を掘っていたり、草花を引っこ抜いていたり、池の中に入って鯉を追いかけ回したりと、傍若無人に蹂躙する人型のあやかしや獣型のあやかしがそこら中にいる。今までこれほど多くのあやかしが集うところを見たことがない。
「何が。一体何が」
「きゃーっ!」
女性の声で茉莉は我に返り、屋敷の中に駆け込んだ。
屋敷内も壁に穴が開いていたり、障子や襖がずたずたに切り裂かれたり、ガラスが割れていたりと荒れ放題だった。
その時、女中が何かに追われるように叫びながら茉莉に向かって走ってきた。
「あなた、どうしたの? 何があったの?」
「ま、茉莉様!? お帰りに! そ、それが――痛い痛いっ! 放してっ!」
女中の髪が後ろに引っ張られている。その引っ張る先にはあやかしがいた。
これくらいの妖力が小さいあやかしなら、少し霊気を与えるだけで上天するはずだ。
「駄目。そんな悪戯をしては駄目よ。さあ、大人しくして」
茉莉は、あやかしをなだめる言葉をかけながら手を伸ばすと霊気を放出した。すると思った通り、霊気を取り込んだあやかしは間もなく天に向かって溶けていった。
「き、消えた!? 消えたわ。茉莉様、ありがとうございます……」
涙目で感謝の言葉を述べる女中。
「いいえ。それでこの惨状は?」
「彩華様がお出かけになった後からでしょうか。結界が綻び出し、みるみるうちに大きな穴となってしまったのです」
これまでは、彩華が外出したところで結界が破られることはなかった。他に何か原因があるはずだ。
「その後、あやかしが屋敷内に入り込んできて暴れ出しました。旦那様を始め、皆、対応に当たっているのですが、数が多すぎていまだ収拾がついておりません」
「お父様が!? 倒れられたというのに?」
「どういうことでしょうか。今朝も笑顔で彩華様を送り出していらっしゃいましたよ」
「え?」
その時、再び女性の甲高い声が上がり、またドタドタとした走り音が聞こえてきた。
「とにかくまず他の人にも声をかけて、結界の修復に当たってください。結界が壊れたままだと、あやかしが続々と入ってきます。私は父に会って状況を確認してきます」
「はい。承知いたしました。旦那様方はご自室で、清祓いの準備をなさっていました」
「ありがとうございます。では、よろしくお願いいたします」
「はい!」
彼女と別れ、廊下を走って奥へと急ぐ。途中、何人もの女中さんたちがあやかしと格闘しているのが見えた。数は多いが、幸いにも妖力の低いあやかしばかりだ。何とか対処できるだろう。
茉莉は走り抜けて泰造の部屋までやって来ると襖を開けた。
「お父様、失礼いたします」
泰造と和歌子は寝室に何かを施している最中だったようだ。
「おぉ! 茉莉か!」
「まあ! 良い時に戻ってきてくれたわ!」
二人は茉莉を見るなり、笑顔になった。
こんな笑顔を自分に向けるなど、物心ついてから初めてだ。茉莉は心地悪さを感じる。
「お父様、お体はよろしいのですか? 倒れたと電報を受けたのですが」
「こんな状況で、そんなことを言っている場合!? 私たちは今、寝室に妖力の高いあやかしを閉じ込めようとしているのよ!」
「外にいるあやかしとは比べものにならないほど力が強い。他のあやかしは度が過ぎた悪戯程度だが、この中にいるあやかしは霊気を奪おうとするのだ」
和歌子が甲高く叫び、続いて泰造が補足した。
「お腹が空いているのでしょうよ。だけれど」
そう言って和歌子は、唇を横に薄く引いた。
「餌があれば狂暴な獣でも落ち着くわ。――あなた!」
「ああ。すまんな、茉莉」
「お父さ――っ!」
和歌子は襖を一気に開け、泰造は茉莉の腕を取って寝室へと勢いよく放り込んだ。
茉莉が畳に転がる背後で襖が閉まる。
「グルルルルッ」
獣の威嚇の声が聞こえてきて、茉莉は上体を起こした。
部屋の中は暗く、威嚇する相手の姿がまだよく見えないが、茉莉には分かる。……核の形、色。気高い霊気。
「伊、吹……」
呟いた瞬間、飢餓で我を忘れた伊吹が、茉莉に牙を向けて飛びかかってきた。




