第3話 犬神憑き
「あ、手伝います!」
彩華の肩揉みを終えた茉莉が、たらいの中で黒布を洗濯していると、一人の女中が駆け寄ってきた。
最近、奉公に入ってきたばかりの女性である。年の頃は十七、八くらいだろうか。
何名かの女中が屋敷を去ったため、新たに募集をかけたのだ。採用条件はたった一つ。霊力があるか、ないかということ。霊力が込められた文字で書かれた契約書を読めると採用、という流れになる。
「ありがとうございます。実さんでしたね」
「はい。名前を覚えていてくださって、ありがとうございます」
実は笑顔で礼を述べながら茉莉の横に身を屈めると、たらいに沈められた黒布を持ち上げる。
「これ、一回使うたびに洗うのですよね? 日差しが緩んできた時期ですからまだいいですが、毎日これだけの量の黒布を洗うのは大変ですね。汚れていないのだから、せめて何日か経ってからでもいいと思いますが」
「穢れが気になるのですって」
「彩華お嬢様が祝詞を上げているわけですし、浄化されていると思いますが?」
「そうね」
眉をひそめ、はきはきと愚痴を吐き出す実が何だかおかしくて、茉莉は微笑んだ。
「ところで、なぜ茉莉お嬢様が洗濯しているのですか? こういうのは女中の仕事ですよね」
実が率直な質問を投げかけてきて、一瞬言葉に詰まり、洗濯板に黒布をこすりつける手が止まる。
「それは……私が祓い師としての能力が低いから」
「能力が低いのですか?」
「ええ。祝詞にうまく霊力を込めることができず、憑いたあやかしを弱体化させられないのです」
茉莉にできることは、自分の霊力を与えて上天させることぐらいである。
あやかしは人間の負の感情から生み出されたものであり、常に渇望し、飢餓感を抱いている。その渇望を霊気で補ってあげることで満足し、浄化されて上天していくのだ。
彩華は、日々清祓いに訪れる客人のために力を温存しているのだろう。先ほどの客人、仁科に憑いていたあやかしも、弱体化させて大半の力を失わせていたものの、完全に浄化されていなかった。だから仁科が屋敷を出る直前、茉莉が自分の霊気を与えて浄化させたのだ。ただ、霊気は自分の身を護るための衛気でもあり、その霊気を与える行為は体に負担をかけてしまう。
「そうなのですか。祝詞に霊力を込められないのは、祓い師として致命的ですね」
「そうね」
また実にはっきりと言われて、茉莉は今度こそ笑ってしまう。
「……あ。失礼なことを言って、申し訳ありません!」
実は濡れた手のひらで自分の頭を叩く。
「母親にも姉にも、いつもアンタは一言も二事も余計なんだって! と怒られるんです」
「いいの。その通りですもの」
陰口を叩かれると心にもやもやが残るが、はっきり言ってくれると、逆に心が晴れる気分だ。
実のおかげで、何だか久しぶりに笑った気がすると、茉莉の口元は緩む。
「でも、お嬢様が女中の仕事をしなくてもいいと思うんだけどな」
「これくらいしか、私にできることはないから。ところで実さんは祓い師になるために、ここにいらっしゃったの?」
女中として働きながら、祓い師の修練を積む人も多いからだ。
「いえ。ここのお給金が良かったからです」
またまたきっぱりと言い切る実。
「それにうちはごく普通の家庭で、私だけが霊力を持っています。当然、結界の張り方とか知らず、あやかしが寄ってくるものだから、霊障に悩まされることも多くて。だから結界の張り方を勉強したいとも思いまして」
「そう」
「この屋敷の結界を張っているのは、彩華お嬢様ですよね? 茉莉お嬢様は、結界の張り方は……」
茉莉は苦笑しながら首を振った。
「ごめんなさい。私は力になれないわ」
と、そこまで言った時。
「何やってんだい!」
裏庭にやって来た女中頭が、茉莉たちを見ていきなり叱責した。
「説明したろ! 茉莉お嬢さんには近づくなって。犬神憑きの人間だよ」
女中頭は実の腕をつかむと立たせる。
「でも」
「お前は呪われてもいいってのかい!」
「い、いえ」
「じゃあ、さっさと行きな」
「……はい。では失礼します」
実は少し申し訳なさそうに茉莉を見て会釈すると、去って行った。
茉莉が犬神憑きとされるのは、犬神である伊吹が懐いているからである。正確には、実母が犬神を生み出す呪術師家系で、母が離縁されて黒川家を出た後、茉莉が伊吹を引き継いだ形だ。
犬神は犬を犠牲にして生み出される呪術である。呪術を行使するにあたってその残虐行為から忌み嫌われ、縁組も忌避されることがあるが、犬神を手にした者は守護を受けることができたり、願望を叶えられたり、財を成すことができると言われている。
信仰の対象となると同時に犬神は祟り神ともされ、犬神を制御できないほどの能力者であれば、呪術師自身が犬神に取り憑かれて発狂したり、周りの者を呪い殺したりすることがある。
しかし伊吹は賢く従順で、これまで問題を起こしたことは一度もない。一方で、黒川家は元々が代々続く格式のある家系のため、犬神の存在によって家が富み栄えているという実感もないのが現状だ。
だからなのだろう。女中頭は犬神憑きとされる茉莉に対して恐れの気持ちはなく、忌み嫌う気持ちだけが強い。目を細めて茉莉を睨みつけた。
「お嬢さんのせいで、一体これまで何人の女中が辞めたと思っているんです」
確かに茉莉のことを気味悪がって辞めて行く女中もいた。だが、多くはこの女中頭の高圧的な態度と無理な仕事量を押し付けられ、心身疲れ果てて辞めていったのだ。ただ、女中頭は、茉莉に好意的な女中を集中的に厳しく接していたので、本を正せばやはり自身のせいなのかもしれないと思う。
「お嬢さんのことを怖がって、また辞められたら困るんですよ。できるだけ他の人間と顔を合わせないでいただけませんかね!」
「――ああ、ここにいたの」
背後から聞こえた声で、女中頭の険しい表情が一変して笑顔に変わる。振り返るとそこにいたのは彩華だった。
「まあ、彩華お嬢様! こんな洗濯場にどうされました?」
「お茶を淹れてもらおうと思って」
「承知いたしました。すぐにご用意いたします」
「いいえ」
彩華は座り込んで洗濯している茉莉に視線を落とした。
「お姉様に淹れてほしいの。お姉様が淹れてくれるお茶、美味しいのよ」
「……ええ。これを干し終わったら」
「何言っているんですか! そんなのは後ですればいいじゃないですか。優先順位を考えて動いてくださいよ! ほんっとに気が利かない――あ。彩華お嬢様のお姉様なのに、失礼いたしました」
女中頭は半笑いをしながら口を手で押さえる。
「いいえ。女中頭として女中を指導するのは当然の行為だもの」
「ご理解いただき、ありがとうございます!」
「――じゃあ、お姉様。そういうわけだからよろしくね」
彩華は笑ってそう言うと去って行った。




