第26話 晴れ渡る
翌朝。
畳の上で意識を失ってそのまま眠ってしまった茉莉は、体のあちこちが痛み、想像以上に霊気を食べられていたため体が重く、頭痛もしていた。しかし昨夜よりは霊気が回復している。もし黄金が約束を守ってくれるのならば、瘴気を発することはないから、それに対抗する霊気の消耗を抑えられるだろう。
あとは、黄金が斎にも手を出さないでいてくれているかどうかだ。契約をそう簡単に破れるとは思えないが、斎に会うまでは確信が持てない。
茉莉は朝の準備を終えると厨で朝食作りを始めた。
「おはようございます、茉莉様」
「おはようございます、絹さん」
「いつもお早いですわ――」
茉莉は振り返って笑顔で挨拶したが、絹は言葉を切って眉をひそめた。
「茉莉様、今日はお加減が悪いのでは? 少し顔色が悪いようですわ」
「そうですか? 昨夜は寝つきが悪かったからでしょうか」
内心動揺しながらも、もう一度笑みを返す。しかし絹の表情は冴えない。
「お疲れになってきている頃かもしれませんね。あまりご無理のないように」
「もちろんです。皆様にはご迷惑をおかけいたしません」
「茉莉様、そういう意味ではないのです」
言葉選びを間違ってしまったようだ。絹の表情が翳る。
「はい。承知しております。お気遣いいただいてありがとうございます。――では、朝餉の準備もできましたし、斎様のご様子を窺ってまいりますね」
「……ええ。お願いいたします」
絹の表情は、茉莉が厨を出るまで晴れなかった。
しかし。
離れに続く渡り廊下は――晴れていた。
「瘴気の気配が感じられない。いいえ。消えている!」
茉莉は無作法にも小走りで斎の部屋へと向かう。
昨日からの疲れで廊下を渡るだけでも息が上がったが、それを別にしても期待で胸がどきどきしている。
「斎様茉莉でございます朝でございますので失礼いたしま――」
心がはやって襖の引手に手をかけようとした瞬間、さっと開けられた。
斎は茉莉の顔を見るなりため息をつくが、いつもと違って顔色が良く、胸元から瘴気も漏れ出ていない。黄金は約束をきちんと守ってくれたのだ。
「茉莉。まったく君は。私がどれくらいの速さで結界を解除できるのか、試し――っ!」
「お顔の色が。良かった、本当に良かったです……斎様」
茉莉は腕を伸ばし、斎の手を両手で包み込んだ。
「ああ」
斎は身を屈めて視線を合わせると微笑する。
「ありがとう、茉莉。君のおかげだ」
どきりとした。
まさか昨夜のことに気づかれているのだろうか。
「わ、私は何も」
「いいや。昨日こうやって、穏やかに眠れるようにと祈ってくれた」
そう言いながら斎は茉莉の手に、もう片方の手を重ねた。
「……はい、斎様」
「まだあやかしの存在は感じられるが、瘴気は収まっているし、よく眠れたのは本当にありがたい」
黄金自身も複数の何かに巣食われていたため、瘴気でそれらを攻撃する必要があったのだろう。もちろん黄金も早く妖力を取り戻したい気持ちはあるだろうが、また斎と霊気の奪い合いで消耗戦になるのは避けたいはず。だから夜まで茉莉の霊気を待ってくれるはずだ。
「茉莉?」
眉根を寄せた斎は手を離し、今度は茉莉の頬にその手を当てた。
「ど、どうされました?」
温かくて大きな手が頬に当てられ、胸が高鳴る。
「いや。顔色が悪いかと思っていたんだが。ん? ……この温もり」
斎は何かを呟き、一度は離した手をまた頬に置いて確かめるように触れる。
「い、斎様?」
「え? ――あ。ああ、すまない」
茉莉は頬がどんどん熱くなってきて思わず訴えると、斎は慌てて身を引いて咳払いした。
「朝餉のことで訪れたのだろう? 今日は食欲があるから、食事の量を少し増やしてほしい」
「承知いたしました」
「それと今日からは茉莉、君の分も持ってきてここで食事を取るように。そうしないと君の食事の時間が遅れるだろう? だからだ。一人で食事するのが寂しいからではない。勘違いしないように」
早口で言う斎は、むしろ言い訳しているみたいだ。
「はい。かしこま――あ。では斎様。何でしたら、今日は母屋のほうで皆さんとお食事いたしませんか?」
茉莉の提案に斎は顔を曇らせる。
「いや。いつまたあやかしが活動しだすか分からない」
「大丈夫です。それに、もしあやかしが活動しだしたら、離れへお戻りになれば良いだけです。もともとはお二人に瘴気の影響が出ないようにするため引き籠もられたのですから、収まっている今なら出てもよろしいかと」
「……そう、だな」
「千尋様も絹さんも斎様の元気なお姿を見たら、きっと大喜びされます。お二人のためにも一度お顔を見せてさしあげてください」
「分かった。そうしよう。では、まずは着替えてくる」
斎は立ち上がる。
「ではお手伝いを」
続いて茉莉も立ち上がろうとしたが、軽いめまいが起こって体が揺らいだ。
「茉莉!」
斎はすぐに屈みこみ、倒れそうになった茉莉を抱え止めてくれる。
「怪我は? どこか打ったか?」
「いえ、大丈夫です。申し訳ありません」
「顔色が優れないようだが、体調が悪いのか?」
「いいえ。少し立ちくらみしただけです。ありがとうございます。もう平気です。……斎様?」
茉莉は離れようとしているのに、手を解こうとしない斎に声をかけると、我に返ったように解放してくれた。
「あ――ああ、そうか。良かった。では、私は着替えてくる」
「はい。お手伝いを」
「いや、一人で大丈夫だ」
斎は茉莉に手のひらを見せて牽制し、疑い深そうな目で茉莉を見た。
「結界を破ってでも覗こうとするな」
「……いたしません」
朝湯の補助を申し出てから、何だか大いに誤解されているようだった。
斎が着替えるのを待って、一緒に母屋へと向かうことになった。
茉莉は斎の後ろ一歩分ほど下がって歩く。もっと下がろうとすると、彼が足を止めて茉莉を待つからだ。
「そういえば、千尋が家族への連絡を絶つように言ったらしいな。すまない。ただ、私の状態を外に漏らすわけにはいかないんだ。噂でも立って、町民に不安を与えたくない」
「はい。承知しております」
「連絡を取りたい者はいないか?」
「いいえ。――あ。ですが、伊吹が少し」
「……伊吹?」
なぜか斎の声が硬くなったような気がしたので視線を上げると、わざわざ足を止めて探るような目を茉莉に向けていた。
どうやら疑いを持たれてしまったようだ。茉莉は慌てて続ける。
「は、はい。犬の伊吹です。ちゃんと面倒を見てもらっているのかなと」
「……犬。ああ、犬。そうか」
疑ってしまったことを悔いたのか、斎はきまりが悪そうな顔になった。
「君が世話をしていたのか? 置いてきて大丈夫なのか」
「はい。伝えてまいりましたし、きっと大丈夫です」
「それならいいが」
それだけ言うと斎は身を翻して再び歩き始めた。
その後、斎が千尋と絹に元気な姿を見せると、二人は大層驚き、喜んだのは言わずもがなである。




