第25話 名を与える
茉莉は霊気を妖狐に与え、また真正面から濃い瘴気を受けたせいで、天地が回転するようなめまいに見舞われた。頭痛だか、痺れだか、よく分からないものが体中を襲う。体にも力が入らない。
しかし簡易的でも契約を結び、その対価を受け取った今、妖狐は少なくともこの瞬間は、斎を攻撃することはできない。契約を破ればその代償は自身に戻ってくるからだ。ただし――契約した相手が生きている限りは、だ。
契約同様、契約者本人を害した時でも代償を受けることになるが、簡易的な契約ではその代償も少ないかもしれない。
茉莉は小刻みに震える指で畳に爪を立てて、部屋から出るために体を這いずる。しかし力が漲っている妖狐の前に茉莉の行為は無に等しい。妖狐の興味が茉莉に移り、目の前までやって来た。
――もう駄目だ。
茉莉がそう思った瞬間、頬にひやりとしたものを感じた。どうやら妖狐に頬を舐められているようだ。……味見だろうか。
意識が遠のきかける茉莉は、ぼんやりと考える。すると。
「ココギュアンッ」
妖狐が大きくひと鳴きしたと同時に、茉莉は体から瘴気がざっと抜けていくのを感じた。
「え……?」
信じられない思いで見ると、妖狐は再び小さく鳴いて、また茉莉の頬をぺろぺろと何度も舐めてくる。
しかし実体はなく、ひやりと冷たさを感じるだけだ。妖狐自体も黒い靄のようなものでできていて、実体を持っていない。
「心配、してくれているの?」
「ココンッ」
妖狐の行動が理解できない。では、なぜ先ほど瘴気を一気に放出して茉莉を攻撃してきたのか。……自分を攻撃?
「……あ」
瘴気が体から抜けたことで頭がはっきりして、妖狐の体に隆起物が出なくなっていることに気づいた。
また、先ほどまであった体の中にあった複数の核も一つになっている。ただ一つ残ったそれが、妖狐の核なのだろう。つまり妖狐が瘴気で攻撃したのは、内に抱えていた何かだ。妖狐もまた何かに巣食われていたのかもしれない。
「そう。そうだったの。ありがとう」
妖狐に手を伸ばすと頬をこすりつけてきた。感触はないが、何となく温度だけは伝わる。
実体化していないところを見ると、おそらく手負いでそれだけの妖力はまだ戻っていないということだろう。伊吹も霊気の消耗を抑えるために、霊体になっていることがある。
「そうだわ。斎様は」
斎は大丈夫だろうか。しかし茉莉はまだ体を起こせるほどではなかったので、長い時間をかけて這いながら向かった。
彼は額に汗をかいていたが、今は苦しまずに眠っているようだ。妖狐に霊気を奪われず、余力を治癒に回すことができているに違いない。
「良かった……」
茉莉は袖で斎の額の汗をそっと拭った後、ようやく自身にも力が少し戻ってきたので、何とか体を起こした。そして再び妖狐に視線を戻すと、機嫌よく尻尾を振って茉莉を見ていた。最初のように茉莉を襲おうとも、斎の傍へ寄ろうともしていない。
茉莉もまた観察してみる。
伊吹よりも二回りほど小さく、目は金色だ。もし実体があれば、柔らかなふわふわした毛並みを感じられるかもしれない。先ほどのように体が変形することはなくなったが、首だけは変わらず斎と一本の太い綱のようなもので繋がっている。
「この紐は」
実家にいた頃、壺に長年取り憑いたあやかしが、壺と一体化して離れられなくなった姿を見たことがある。それと似たような感じだ。
まるで犬の引き紐のようで、妖狐が斎を縛っているはずなのに、その紐で逆に自身も束縛されているようにも見えるのだ。
茉莉はその紐が切れないか触ってみたが、その紐も靄でできていて自分の手がすり抜けただけだった。
「あなたが斎様をこの紐で束縛したの?」
紐を指さしてみると、妖狐はぱくりと口を開けて噛み切るような仕草を見せたが、妖狐もまた紐をすり抜けた。つまり自分の術じゃないと言いたいらしい。斎の傷に巣食った時点で、妖狐も想定外に繋がれたということだろうか。
以前、壺を浄化した時は、あやかしに霊気を与えたら、壺と一体化していた体が先細って離れたことがあるが、今回もその方法でうまくいくだろうか。
千尋は、あやかしが斎の傷口に巣食っている今、あやかしを攻撃すれば斎の体に悪影響を与えることは避けられないと言っていた。この紐が互いの命を繋ぐ綱なのかもしれない。斎と妖狐が手負いの今、この綱を強引に断ち切ることは確かに危険をはらんでいるような気がした。
となると、何にしろまずは両者ともに傷を癒すことが重要だ。斎は自分の霊気の最大限を治癒に使い、妖狐は霊気を糧として取り入れ、妖力を取り戻さなければならない。
斎一人でそれを行おうとすれば妖狐と霊気の取り合いが起こるが、誰かが霊気を妖狐に与えればそれがなくなり、治療に専念できるはず。
茉莉は妖狐に向き直る。
「あなた、私の霊気で満足した?」
「ココンッ」
「ならば代わりに私が毎晩霊気をあげに来るから、斎様の霊気を食べるのはやめてくれないかしら」
「ココギュアン!」
嬉しそうに尻尾を振り、前足を上げて人懐っこそうに茉莉に乗りかかって体をすり寄せてくる。悪い子ではなさそうだ。
「名前がないと不便ね。目が金色だから、黄金はどうかしら」
「ココン!」
「良かった。気に入ったみたい」
名を与え、呼びかけることは、相手を支配することにおいて強い影響力を持つ。少々騙し討ちのようなことになってしまったのは申し訳なく思うが、これで黄金とは契約を結んだことになる。
「じゃあ、約束よ、黄金。斎様を傷つけたりしたら、ごはんはお預けですからね」
「キュ、キュゥン……」
黄金はぴんと立てていた耳をぺたんと後ろに倒した。
「約束を守ってくれたらちゃんとあげるわ」
「ココンッ!」
「いい子ね。じゃあ、私もそろそろ部屋に戻るわね」
茉莉は斎に振り返り、布団から出ていた手をそっと取ると中に入れる。
「斎様、ごゆっくりお休みください」
そうして茉莉は立ち上がろうとしたが、ふわりと浮遊感を覚えた後、力なく畳に座り込んだ。どうやら想像以上に大食いだったようだ。
「キュゥン!?」
「大、丈夫。いきなり……立ったからだわ」
心配そうに茉莉に寄り添う黄金に声をかけるが、言葉とは裏腹にめまいが治まらない。このままここで横になりたい気持ちになる。しかしここで翌朝を迎えれば斎に咎められ、二度と部屋に入れないよう結界を強化するに違いない。
茉莉は震える腕で必死に身を起こし、四つん這いになって出入り口へと向かう。
「黄金、また……明日ね」
「キュゥン……」
黄金に挨拶すると襖を閉め、必死で立ち上がると壁を伝いながら自分の部屋へと戻る。
行きと違って帰りの道のりははるかに遠く、何度も景色が歪む中、茉莉は何とか戻りきると部屋の出入り口付近で意識を失った。




