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第24話 自分が今できる最大限のこと

 茉莉が床に就いていると、今夜も斎が苦しんで低くうなるような声が聞こえてきた。おまけに今日は、喉を掻きむしるように両手を置いて苦しみにもだえる斎の姿が頭に浮かんでくる。


 まただ。あやかしが聞かせている幻聴だ。見せている幻覚だ。

 茉莉は布団を被り、震える体を丸めて耳を塞ぐ。目をぎゅっとつむる。


 夜間は斎の部屋に近寄るなと言われているので、その約束を守っている。そして茉莉は今後もそれを守らなければならない。決して破ってはならない。もし破れば助けになるどころか、かえって足手まといになって迷惑をかけるかもしれないから。

 だから茉莉は布団を被って耳を塞ぐ。目をぎゅっとつむる。――しかし。


 今、自分ができうる最大限のことを尽くしたい。茉莉にできることは、ただ一つ。それは斎の代わりに、茉莉があやかしに霊気を与えること。お腹が満たされている獣は、目の前の獲物は襲わないはずだから。


 茉莉が結界を破れたのも、瘴気に耐えられたのも、あやかしが恐れるように身を潜めたのも、犬神である伊吹の加護があったからだろう。しかし伊吹と離れてその加護が徐々に薄れてきた。だから結界に触れた時の衝撃も強くなり、瘴気に対しても症状が出やすくなってきたのだ。

 近いうちに強化型の結界どころか、通常のものさえ破ることができなくなってしまう。できるのは今だけだ。


 ――大丈夫。これまで伊吹に与えていた霊気をあやかしに与えるだけ。


 行燈を持って自分の部屋を出た茉莉は、斎の部屋に向かう。

 離れの結界内へ入った瞬間、昼間の比ではない瘴気が体を蝕んできてふらついた。しかし、めまいに襲われながらも斎のもとへと一歩一歩、廊下を踏みしめて進む。そのたびに声の発生源に近づいていく。やはりうめき声は斎の寝室からだ。

 喉を絞るような苦しげな斎の息に胸が痛くなる。


「――っ。い、斎様」


 茉莉は襖越しに掠れた声で呼びかけた。

 何の反応もない。もう一度呼びかけてみることにする。


「い、斎様。夜分、恐れ入ります。茉莉でございます」


 相変わらず反応はなく、ただ斎のうめき声が続く。

 寝室には結界が張られているが、その結界は普通の結界だ。強化型ではないこの結界は、今ならまだ破った時にでも意識を保ったままでいられるはず。しかし、廊下に漂う瘴気の濃さは昼よりも強い。中に入れば、頭痛やめまいだけでは済まない、さらに激しい症状に見舞われることになるかもしれない。そうすれば動けなくなった茉莉を、獰猛なあやかしが蹂躙することだろう。


 襖を開くために震える手を伸ばしたが、恐怖と躊躇いで引手に届かない。

 と、その時。


「――ぐ、あっ!」


 これまでにない一際大きなうめき声が上がる。


「斎様!」


 茉莉はその声に押されるように襖を開け放った。

 すると、喉を押さえて呻き苦しむ斎のすぐ傍で、犬のような獣をかたどった黒い靄のようなものが見えた。

 部屋の中は暗く、確かに闇の瘴気をまとっているのに、まるで暗闇から浮かび上がるような存在感がある。美しい佇まいは品性すら感じられるが、それは間違いなく斎を害しているあやかし、妖狐だ。


 妖狐の威圧感に対する恐怖で体が動かず、ただ息を呑んでいると、その妖狐が一足飛びで茉莉のもとにやってくるや否や、茉莉に飛びかかった。

 茉莉は目を閉じて襲われるその時を待つ。しかし。


「キャウンッ!」


 小さな鳴き声がしておそるおそる目を開けると、妖狐が茉莉の足元で倒れていた。

 行燈で照らしてさらによく見てみると、妖狐の首から一本の紐のようなものが伸びていて、それが斎まで続いていた。この紐が斎と妖狐を結び付けているようで、その長さで行動が制限されてひっくり返ったらしい。適切な距離を取れば、直接襲われることはなさそうだ。


 改めて斎の状態を見ると、呼吸が落ち着いているようだ。妖狐の意識が茉莉に向いているからなのかもしれない。

 茉莉はほっとして、さらに距離を取って妖狐を観察していると。


「ギュアーンッ!」


 妖狐は甲高い声でひと鳴きし、痙攣するように震え出したかと思ったら、体のあちこちでボコボコと不規則に変形しだした。

 背から羽のようなものが生えて引っ込んだかと思うと、お腹から四本足とは別の足が生えようとしてくる。頭に角のようなものが生えたかと思えば、また引っ込む。他の場所からも同じようなことが起こる。


「……な、何?」


 妖狐の能力かと思いきや、そうではないらしい。何かがぼこりと隆起するたびに、痛みで悲鳴をあげるような高い声を上げるのだ。また、荒い呼吸に伴って瘴気が濃くも薄くもなっている。


 この妖狐は間違いなく何かと戦っていて苦しんでいる。通常、あやかし一体に一つの核があるものだが、この妖狐の中にはいくつもの核が見えるからだ。

 瘴気は斎を弱らせて霊気を奪う目的もあるかもしれないが、それよりも妖狐を害している何かを攻撃するために発しているように思える。


「キュゥン、キュゥン……」


 悲しげな弱々しい鳴き声になった。


 ――茉莉様、妖狐は狡猾です。結界を張ることができない茉莉様は、妖狐が幻術で心を惑わせ、霊気を差し出すよう誘導してくるかもしれません。


 ふと絹の言葉が思い出された。

 これは妖狐の策略なのかもしれない。しかし聞いていると、胸が痛くなるほどの鳴き声だ。とても人間を欺こうとしている声には聞こえない。


 茉莉は妖狐に近づくと傍に座った。

 妖狐は途端に金色の目を光らせて茉莉を襲おうとしてきたが、また何かが隆起して、悲鳴を上げながら苦しそうに体をくねらせる。

 たまらず手をそっとかざすと、妖狐は怯えたように体を小さく震わせた。


「大丈夫。何もしないわ。霊気が必要なのでしょう? あげましょう。その代わり、元気を取り戻しても斎様を襲っては駄目よ。これが条件」

「キュゥン……」


 妖狐は力なく横たわりながらも精一杯、尻尾を振り、簡易的な契約を結ぶ。


「いい子ね。――さあ、受け取って」


 手から霊気を放つと、妖狐は眩しそうに、あるいは安心したように無防備に目を伏せた。しばらくすると妖力が漲ってきたのか、乱れた呼吸が落ち着きを取り戻して元気よく起き上がると、頭をぶるぶると振った。


「ココギュアン!」


 妖狐は元気そうな声でひと鳴きした。


 もう大丈夫のようだ。そろそろ限界だったから良かった。

 茉莉は霊気の放出を止めると同時に、体から力が抜ける。

 すると、辺りに漂っていた瘴気が妖狐のもとへ瞬く間に引いたかと思うや、今度は、膨らんだものが破裂したように天井高く一気に放出された。


「っ!」


 濃い瘴気を受け、残された気力だけで起こしていた茉莉の体はあっけなく地へと崩れる。


 ああ、そうだ。

 斎を襲っては駄目だと約束させたが、自分を襲っては駄目だとは言わなかった。

 茉莉はぼんやりした頭でそう思った。

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