第2話 黒川家の生業
肌を刺すような熱い日差しの季節もあっという間に去り、頭上を赤く染めた紅葉が今度は地面を染めるのも間もなくのことだろう。
それが楽しみでもあり、少々憂鬱でもあるのは今、自分が箒を持って庭に下り立っているからかもしれないと、茉莉は思う。
「ワンワンッ!」
鳴き声に足元を見下ろすと、ふさふさした白い尻尾を振りながらお座りしている伊吹の姿が見えた。
「伊吹。今、来客中なの。もう少し待ってね」
「ワフン!」
伊吹は立ち上がれば茉莉をゆうに超えるくらいの大きさで、もし不意打ちで勢いよく乗りかかられたのならば、ふわふわ感の気持ち良さと重量によって悶絶するかもしれない。
目を細め、口角を上げる笑顔の伊吹が耳を後ろに倒しているので頭を撫でていると、恰幅の良い着物姿の男性が玄関から出てきた。手には中折れ帽と手提げかばんを持っている。
茉莉はすぐさま箒を置き、身を起こした。
「彩華殿、このたびは清祓いを誠にありがとうございました」
「いいえ。お力になれまして光栄ですわ」
客人が振り返って茉莉の妹、彩華に感謝を述べると、緋袴姿の彼女はたおやかに微笑んでみせた。
ここ黒川家は代々、人間を害するあやかしを祓う家系だ。霊力が高く、修練を積んだ彩華は祓い師として活躍している。
「近頃、頭がぼうっとするわ、体が妙に重いわ、夢見は悪いわで、とにかく憂鬱な日々を過ごしていたのです。医者に行っても原因は分からんと言うし、ほとほと困っていたところ、こちらの噂を聞いてやって来たのです」
原因不明の体調不良で、藁にもすがる思いでやって来られたのだろう。
あやかしは、人間の負の感情や欲望などから生み出されたものとされている。あやかしにとってはそれらが糧であるため、心身が弱った人間や強い欲望を持つ人間の心の隙をついて取り憑くものだ。
取り憑かれた人間は、あやかしによってさらに負の感情や欲望を駆り立てられ、それすらも糧とされて心と体が病んでいくという悪循環に陥ってしまう。
「いやぁ。来てみて良かったですわ。屋敷に足を踏み入れた瞬間から体が軽くなった気がしますよ」
「おっしゃる通りです。それは彩華が屋敷に張っている結界で、あやかしの妖力が一時的に抑えられたからです」
茉莉の父親である泰造は、頷きながら同意した。
あやかしにとって祓い師は天敵でありながら、霊気を糧として狙うため、奇襲されないように屋敷全体に結界を張っている。
清祓いするためには一時的に結界を緩め、あやかし憑きの人や物を屋敷内に迎え入れる必要があるが、結界は張った者が優位に立てる領域となり、そこに入ったあやかしの妖力はそれだけで幾分か削げるのだ。
「そうでしたか。彩華殿のお力は凄いですな」
「ええ! 彩華は黒川一族の中で一番能力が高いのです。どこに嫁がせても恥ずかしくないほどの娘です。こう言っては親ばかでございますが、我ら祓い師の頂点を極める退魔師統帥のお眼鏡にも適うほどかと」
「そんな良い祓い師さんに視てもらっていたとは! 私自身もとても調子が良くなったし、また人を紹介させてもらいます」
「ありがとうございます」
泰造と彩華が恭しく礼をとる。
「ではそろそろ失礼しますかな」
「はい。私どもはここで失礼いたします。――茉莉、玄関までお見送りしなさい」
庭にいる茉莉の存在に気付いた泰造はそう命じ、茉莉はかしこまりましたと頭を下げた。
「仁科様、お気をつけてお帰りください」
「ありがとう。では」
茉莉は、玄関に向かう仁科を先導する。
「仁科様、足元にお気をつけくださいませ」
「ありがとう。ところで君も霊力はあるのかね」
玄関から十分距離を取ったところで、茉莉は客人から問いかけられた。
茉莉は少々驚きつつ足を止めると振り返る。
「はい。低いですが」
「他の使用人もそうかね?」
茉莉の姿恰好を見て、使用人だと考えたらしい。
茉莉は黒川家の長女であり、彩華の姉だが、顔立ちは全く似ていない。妹は潤みのある大きな目に、張りがあって滑らかな唇で、ふんわりと波打った髪を持つ愛くるしい顔だ。
一方、茉莉は涼やかな目だと言われ、血色を感じられないかさついた唇に髪の毛は直毛である。それは先妻である詩乃の娘が茉莉であり、後妻の和歌子の娘が彩華だからだ。
また、霊力の低い茉莉は祓い師として務められず、家事を含めた雑務に従事しているため女中姿をしている。そんな茉莉を女中だと勘違いするのは当然のことだろう。けれど、修正するほどのことでもない。
「はい。清祓いを求めてお客様が訪れる場所でございますので、ここで働いている者は、多かれ少なかれ霊力を持っております。使用人があやかしの影響を受けて倒れてはいけませんので」
「そうか。ここもしっかりしているんだな」
ここも? どこか違う所にも行ったことがあるのだろうか。
茉莉がそう考えていると。
「や。足を止めてすまない」
「はい」
暗に促されたので、茉莉は再び門まで無言を貫いた。
「それではお気をつけてお帰りくださいませ」
「見送りありがとう。それでは失礼」
仁科が身を翻したので、茉莉はその肩にそっと手を伸ばして横に空を切る。
しかし彼は茉莉の挙動に気づいたらしく、顔だけ振り返る。
「どうかしたかね?」
「失礼いたしました。土埃が舞っておりましたので」
「そうかね。ありがとう。では」
仁科は門をくぐると中折れ帽をぽんとのせ、茉莉に軽く会釈して去って行った。
見えなくなるまで見送り、茉莉は――門の壁に手をついた。すると。
「クゥン」
「……伊吹」
傍にやって来た伊吹は耳を垂らし、茉莉を心配そうに仰ぎ見てくる。
「ありがとう。大丈夫よ」
茉莉が伊吹に声をかけ、体勢を立て直そうとしたその時。
「茉莉! そんな所で怠けていないで、さっさと部屋を片付けなさい!」
茉莉の義母、和歌子が険しい表情で一喝した。
「は、はい。ただいま参ります」
茉莉は屋敷まで走って入り、祓い部屋へと向かった。
清祓いに使われた部屋は黒布で目張りされていて、蝋燭の火が消された今は闇に包まれている。
黒布で目張りするのは陽光を遮り、あやかしが姿を現しやすい状況を意図的に作り出すためである。そして姿形がはっきりしたところで清祓いが行われる。
しかしこれは、一般の人にも清祓いを視覚的に感じてもらうための舞台であるというのが本当のところだ。
この部屋は清祓いのみに使われるので、黒布を付けたままにしておいても問題はないが、穢れが残っているので清祓いを行うたびに洗濯するべきだという彩華の主張で、毎回黒布を取り換えることになっている。
すべて回収し終えたところで。
「お姉様、まだ終わらせていないの?」
出入り口に立つ彩華が不機嫌そうに声をかけてきた。
「それは後にして、早く茉莉の肩をもんでくれない? こっちは清祓いしてすごく疲れているんだから。気が利かないわね!」
「ご、ごめんなさい。今行くわ」
茉莉は大量の黒布を抱えたまま答えた。




