第19話 斎様のお心に従うために目を閉じ、耳を塞ぐ
「茉莉様、お疲れ様でございました」
茉莉が離れから母屋に戻ると、ちょうど布団を取り入れ終わった絹から労いの言葉をもらった。
「絹さんもお疲れ様でございます。お手伝いいたします」
布団を運ぶのを手伝い、押し入れに仕舞うために畳んでいると、絹はふと首を傾げる。
「また斎様と何かございましたか?」
「え――あ、いえ。そうではありません」
絹は人の心にとても敏感な方のようだ。誤魔化すこともできない。
「……あの。私はまだ一度も斎様に憑いているあやかしの姿を見かけていないのですが、絹さんはその姿を見たことがありますか?」
「ええ。黒い妖狐でした。上位のあやかしの中でも高い能力を持つ部類でしょう。こう言ってはあれですが、美しく気高さすら感じました」
「私の住む辺りでは上位のあやかしが現れたとはあまり聞いたことがないのですが、鬼門方面である北部では多いものなのですか?」
すると絹は難しそうに考え込む。
「確かにその昔は鬼など上位のあやかしが人間社会を蹂躙したと言われていますが、現今は人間の暮らしが発展してきて、知能の高い上位のあやかしほど干渉してこなくなったものです。それがなぜか近頃、ここ北部では上位のあやかしが世間を騒がせていますわね。さすがに鬼は現れませんが」
黒川家では、以前は古い物に憑いたあやかしの清祓いの依頼が多かったが、最近は原因不明の疾患に悩まされている人の依頼が多く入っている気がする。あやかしの発生自体が増えているということなのだろうか。
「しかも黒狐は善狐とも言われ、人間に憑依したり悪戯をしたりしますが、直接的な害を与えないとされていました。それなのに人を攻撃してくるだなんて。斎様にここまで傷を負わせ、回復を遅らせるなど、最近のあやかしは力が増して狂暴化しているように感じますわ」
「回復が遅れているのは、斎様の食が細くなって、体力が失われているのもあるかもしれませんね。同時に気力も。……頑なに人を拒むようになったのは、長きにわたって瘴気に体を蝕まれて、精神力の強い斎様でも心が疲弊してしまったからでしょうか」
後継者争いについて圧倒的優勢だったにもかかわらず、今、脱落危機に瀕していることも斎の精神を追い込んでいるのかもしれない。
「それもあるかもしれません。弱さを人に見せたくない気持ちもあるかもしれません。ですが、それ以上にお優しいゆえのことなのです」
絹は苦しそうに重いため息をついた。
「妖狐は幻術で人を惑わし、瘴気を発して本人や周りの人間の体を蝕みながら抵抗力を奪って霊力や精気を食みます。この屋敷に仕える使用人は皆、水準以上の霊力はありましたが、瘴気だけで体調を崩す者や、斎様が眠ってあやかしの力を抑えきれない深夜、幻術に酔わされ、霊気を奪われて倒れた者もいました。そんな姿を見ている斎様は、自分のせいでこれ以上、人に傷ついてほしくないとお考えなのです。今の斎様の態度は冷淡に見えるかもしれませんが、心根が優しいお方だからです」
絹はそこまで言って、また一つため息をついた。
「……ごめんなさいね。普段の斎様の素顔はどうあれ、茉莉様にそれを押し付けてはいけませんわね」
「いいえ。心中お察しいたします」
初対面の時は、斎は意識が遠のく寸前だったにもかかわらず、茉莉の体を気にかけていた。
「ですが、斎様のお力になれないことが辛いのです。妖力が強くなる時こそ、お一人にするべきではないと思ったのですが、斎様に部屋から出されました」
絹は目を伏せて頷く。
「わたくしも千尋さんも同じ気持ちですわ。ですが斎様は、家の者にまで危険が及ぶことを望まないのです。今、わたくしたちにできることは斎様のお心に従い、心安らかに療養いただくことでございます」
力になれなくて辛い気持ちが強いのは、誰よりも絹や千尋のほうだ。無理を通したいのも二人のほうだ。しかし二人は、斎の意思を尊重したいと言う。
絹は茉莉の左手を取った。
「茉莉様、妖狐は狡猾です。結界を張ることができない茉莉様は、妖狐が幻術で心を惑わせ、霊気を差し出すよう誘導してくるかもしれません。いいえ。もう誘導しているのかもしれません」
茉莉が少しでも長く斎の傍にいて、一人の時間を減らしたいと考えていることは、妖狐の術によるものなのだろうか。
「お気をしっかり持ち、夜間は何があっても斎様の部屋にお入りにならないでください。斎様でも抑えきれない妖力なのです。茉莉様まで守り切る力は、今の斎様には……」
最後は言葉を濁す絹。その様子を茉莉が黙って見つめていると、絹はふっと笑顔を返してくれた。
「ご心配いりません。斎様の部屋に張っている結界は瘴気だけではなく、あやかしも破れないものですので、入らなければ問題ありません」
「……はい。承知いたしました」
その夜、静寂に包まれた屋敷の中で、うめき声のようなものが聞こえてきた。
離れにいる斎のうめき声が母屋の部屋まで届くはずがない。まるで耳元で囁かれているほどの酷く苦しげな息づかいが聞こえてくるはずがない。これはあやかしの幻術だ。餌である茉莉を誘い込もうとしているに違いない。
茉莉は布団を頭まで被り、両手で耳を必死に塞いだ。
次の朝。
「おはようございます、茉莉様」
食事を用意していると、厨に入って来た絹から朝の挨拶を受けた。
「絹さん、おはようございます。お早いですね。もっとお休みになっていただいて構いませんでしたのに」
昨日、絹から言われた言葉を返す。
「ありがとうございます。ですが、いつも朝食を作っておりますので、目が覚めてしまいました」
絹もまた昨日の茉莉の言葉を返して笑ったが、すぐに笑みを消して目を伏せた。
「茉莉様。……昨日は失礼なことを言って、誠に申し訳ございませんでした」
「いいえ。絹さんは私の身を案じてくださっただけです。お気持ちは受け取っております」
「ありがとうございます」
絹は、ほっとしたように微笑んだ。
「では絹さん、またお味噌汁の味見をしていただけますか?」
「ええ、ぜひ!」
お玉ですくったお味噌汁を小皿に入れて渡す。
「――ええ! 今日もとても美味しいですわ。千尋さんも美味しいと言っておりますのよ」
また絹が作ったと思って美味しいと言っているのか、茉莉だと分かった上で認めてくれているのか。はたまた絹が気遣って言ってくれているだけだろうか。
「では、膳のご準備をお願いしてもよろしいでしょうか。私は、斎様に朝のご用意を確認しに行ってまいります」
「ええ、よろしくお願いいたします」
「はい。かしこまりました」
茉莉は頷いて厨を出ると、斎の部屋へと向かった。




