第18話 愚かなほどお人好し
斎の居室の襖は開いていたものの、茉莉は反射的に部屋の前で足を止める。
「結界は解除したままだ」
戻ってきた茉莉に気づいた斎はそう言った。
「ありがとうございます」
「礼を述べられることじゃない」
淡々とした口調だ。それでも受け入れる姿勢を見せてくれただけで、ありがたく思う。
「失礼いたします」
茉莉は居室を通って寝室へ行くと、まず割れた花瓶を片付けて屑籠に収めた。続いてそのまま箒で畳を掃いていると。
「君は」
居室にいる斎から声をかけられた茉莉は、手を止めて振り返る。
「はい。何でございましょう」
「まつり、と言ったか?」
「はい。黒川茉莉と申します。茉莉とお呼びくださいませ」
「確か身上書では、彩華という名が書かれていたと思うが、君は彼女の姉か。霊力が低く、私の結婚相手の候補にも挙がらなかった」
茉莉は一瞬胸をつかまれる気分になったが、揶揄するものではなく、むしろ斎自身を卑下するような口調であることに気づいた。
誤解を解きたいと思いもしたが、今、霊力の低い娘を宛がわれることに対して屈辱を感じて気力を取り戻す呼び水になるのであれば、誤解させたままのほうがいいと思った。
「さようでございます。さぞかしご不満のことでしょう。先にも申し上げましたが、妻を交換したいのならば、今はどうかお体の回復にお努めくださいませ」
斎は茉莉の顔をじっと見つめて何かを言おうと口を開いたが、結局何も言わず視線をそらした。
それ以上、話が続くことはなさそうだったので、茉莉は掃除を再開した。
「斎様、寝室の清掃が終わりました」
結局、寝室の清掃だけで午前中が終わった。
障子などの状態はそのままだったが、拭き掃除も終えて埃がなくなったし、新しい替えの布団を入れると部屋が明るく軽やかになった気がする。
斎は茉莉の声かけで立ち上がると寝室にやって来た。
「……随分とすっきりしたな」
「はい。窓を開けて、風と共に陽の気も入ってきましたね。これから毎日空気の入れ替えをいたしましょう。涼しい風が入って、気分も爽やかになりますから。ひとまず午前中のお掃除はこれまでとして、お昼を作ってまいりますね。お腹の具合はいかがですか?」
「動いていないから、あまり食欲がない」
「そうですか。ですが、少しでもお腹に入れたほうがいいと思いますので、また口当たりの良いものをご用意いたします。洗濯物はございますか?」
「あの籠だ」
斎は手持ち籠を指さした。
「承知いたしました。それでは一度退室いたします」
清掃道具と洗濯物の籠を抱えた茉莉は部屋を出た。続いて厨に行くと、絹が何かを作っていた。美味しそうな鰹出汁の香りが漂っている。
「あら、茉莉様。お疲れ様でございます」
「絹さんもお疲れ様でございます。――まあ。茶碗蒸しですね。斎様は食欲がないとおっしゃっていたので、茶碗蒸しはいいですね」
実家では特別な行事の時に出る、ちょっとした贅沢品だ。しかし栄養があり、消化にも良いので今の斎にはとても適している料理だろう。
「ええ。茉莉様の分も用意しておりますからね。ぜひご賞味くださいませ」
「っ! ……あ、ありがとうございます。では早速、斎様に持って行ってまいります」
茉莉は昼餉として茶碗蒸しを持って斎のお部屋に戻る。
「斎様、戻りました」
「早いな」
許可をもらって入り、座卓の前に座る斎に近づいた。
「はい。絹さんがお昼を作ってくださっていたのです。茶碗蒸しでございますよ」
「そうか。それなら食べられそうだ」
「それは良かったです」
茉莉は、跪坐の姿勢を取って座卓の上に茶碗蒸しと匙を置いた。
「では何の具材から召し上がりますか?」
匙に手を伸ばそうとしていた斎の肩がびくりと震え、強張った顔で茉莉を見る。
「……え?」
「何の具材から召し上がりますか?」
茉莉は茶碗蒸しと匙を自分の前へと移動させると、微笑みかけた。
「では斎様、私もお昼を頂きまして、お天気の良いうちにお洗濯させていただきます。それが終わりましたら、居室の清掃のために戻ってまいります」
「……ああ。ゆっくりでいい」
座卓に両肘をつき、組んだ手に額を置いて答える斎。
「もしかしてまだお腹が空いておりますか?」
「とんでもない!」
斎はがばりと顔を上げた。
「君こそ空腹だろう。さあ、食事に行ってくれ」
「ありがとうございます。それではまたのちほど」
茉莉は一礼し、膳を抱えて部屋を後にした。
茉莉は絹の茶碗蒸しの美味しさに感動しながら、じっくり味わって食べた後、斎の部屋へと戻った。
「では居室の掃除を行いますので、こちらでお休みいただけますか?」
「ああ」
寝室に座布団を用意したところ、斎が座ったので茉莉は軽く会釈し、居室へと向かう。すると。
「ありがとう」
感謝の言葉がかけられた。驚いて振り返ると、斎が茉莉を真っすぐ見ていた。
茉莉は笑顔を返す。
「いいえ。とんでもないことでございます。斎様がつつがなく穏やかに過ごせますよう、精一杯尽力いたします」
「……私が完全復帰したら、懸命に看護してくれた君を平気で切り捨てて婚約を白紙に戻し、霊力の優れた妻を娶るかもしれない。それでもか?」
「それこそ私の望むところでございます」
元々は彩華に来た話だったが、斎がその気持ちでいてくれるのであれば、彩華がお世話に来なかったことも咎められることはないだろう。
「もし本気で言っているのだとしたら、愚かなほどお人好しだな」
「私が愚かなほどお人好しならば、斎様もお人好しの正直者でございますね?」
「なぜ私が?」
斎は眉根を寄せた。
「そのように忠告してくださるからです。いくらでも甘言を弄することができるはずですのに」
「それは私の主義ではない」
心外だとでも言わんばかりに、不遜に腕を組んでそっぽを向く斎。
「そうですか。誠実な方にお仕えできるのならば、それだけで報われそうです」
「本当に頭一つ抜け出たお人好しだな」
斎はため息交じりに呟いた。
その後、茉莉は居室の清掃を終えたので、斎に声をかける。
「斎様、居室の清掃も終わりました」
「ああ、ありがとう」
「お茶でもお淹れしましょうか」
「いや。必要ない。それより間もなく逢魔が時だ。早々に立ち去ってくれ」
斎は窓の外へと視線を流す。いつの間にか、沈みゆく太陽が空を赤く染めていた。
「お言葉ですが、その時間こ――」
「行かなければ、式神を召喚してでも君を追い出す」
反論すら許してくれないらしい。
「……かしこまりました」
茉莉を追い出すための式神を召喚して、無駄な霊力を使わせるわけにはいかない。
「ではどうか」
ご無理をなさらないでください? それともお大事にしてください?
どちらもこの場には不適切で、言葉が続かない。
「何をしている。早く去れ」
「承知……いたしました」
茉莉は心苦しくても、どうすることもできず、一礼すると部屋を後にした。




