第16話 嬉しい誤算
次の朝。
「まあ! もう起きていらっしゃるのですか、茉莉様」
小皿に取ったお味噌汁を味見している茉莉の背に、絹から声がかかった。
「絹さん、おはようございます」
「おはようございます、茉莉様。もっとお休みしていただいて構わなかったですのに。昨日はお倒れになったことですし、お疲れにもなったでしょうに」
「いえ。実家ではいつも朝食を作っておりますので、目が覚めてしまいました」
「そうでしたか。茉莉様が」
絹はそっと微笑んだ。
「はい。よろしければ、これから食事の用意は私にお任せくださいませ」
絹も続々と使用人が倒れて離れていく中で、一人頑張ってきたのだろう。体を休めていただきたいと思う。
「ありがとうございます。とても助かります。ですが、それではわたくしの仕事がなくなってしまいますわ」
「で、では朝だけでも完全に私にお任せいただければ」
少し拗ねたような絹に、茉莉は慌てて言い直した。
「ふふ。ありがとうございます。足りないところを手伝っていただければ、それだけで十分助かりますわ。ところで茉莉様。昨夜はすぐにお眠りになられましたか?」
「はい。私には勿体ないくらいのとても良いお布団で、ゆっくり休ませていただきました。お恥ずかしいお話ですが、疲れていたのか、瞬く間に眠っていたようです」
「いいえ。それなら良かったです。昨日は初日だというのに、色々ありましたものね」
絹は、ほっとしたように笑う。
「あ。絹さん、お味噌汁を味見していただけますか?」
「ええ!」
お玉ですくったお味噌汁を小皿に入れて渡す。
「――うん! とても美味しいですわ」
「良かった。では膳を準備いたしますね」
「いいえ。それはわたくしが用意いたしますので、茉莉様は、斎様のご様子を窺っていただけますか。それによって斎様の朝餉は軽いものにいたしますわ」
「はい。承知いたしました」
茉莉は厨を出ると斎の部屋へと向かった。
茉莉は斎の寝室の前までやって来ると、廊下に正座して声をかける。
「おはようございます。茉莉でございます。斎様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「……ああ」
数拍ほど待ったところで、気だるそうな返事があった。
「おはようございます、斎様。本日のお体の調子はいかがでしょうか」
「いつもよりは悪くないが、今朝はもう少し休みたい。食事のことなら後で指示を送る」
朝餉のことを言おうとしたら先に釘を刺されてしまった。しかし、悪くないのになぜ休みたいとおっしゃるのだろう。やはり体調が優れないのだろうか。
茉莉は自分の目で確認することにした。
「ご様子を確認したいので、お部屋に失礼してよろしいでしょうか」
今日も結界が張ってある。ただし強化された結界ではなく、最初に張ってあった結界と同じ強度だ。常時、強化型の結界を張っていないところを見ると、やはり強化型は通常のものと比べて霊気の消耗が大きいのだろう。
「許可しない」
「それでは恐れ入りますが、お顔の色だけでも拝見したいので、開けてもよろしいでしょうか」
返事はない。
これは許可してくれないということなのだろうと考えていると、突如、襖が開いた。
驚いて見上げると、青ざめた顔色の斎が冷ややかに笑っている姿が目に入った。
「どうだ? これで満足か」
昨日、茉莉が初めて会った時くらい顔色が悪い。応対さえも身を削る辛さだったのかもしれないのに、無理な願いを申し出た自分の愚かさを痛感する。
茉莉が言葉を失って見つめていると、斎は皮肉っぽい表情を和らげてすっと視線を外した。
「……これでも今朝は調子がいいほうだ。昨夜はなぜかいつもより大人しかった」
茉莉は立ち上がると、無意識に結界へと左手を伸ばして触れた。
ばちばちと火花が散るような音がし、焼かれるような熱感を覚えたが、構わず斎へと手を伸ばす。
「な、何をやっている!」
手が通るだけの大きさの結界を破ると、驚く斎の頬に手を当てた。
「とてもお顔の色が悪いです」
「なっ……。いや、そんなことはどうでもいいから、早く手を結界から抜け!」
一度は破れた結界だったが、自己修復能力を持った結界は茉莉の腕をみしみしと締め付けてくる。
「こんなにご不調でしたのに、ご無理をさせて誠に申し訳ありませんでした」
「分かった! 分かった。許すから早く手を――っ!」
茉莉との会話では埒が明かないと思ったのか、斎は手をかざすと結界を解除した。
途端に締め付けられていた腕が解放され、茉莉の痺れた腕は結界という支えがなくなって、力なく垂れ下がる。
「手は!? 手は大丈夫か!?」
斎は茉莉の左手を持ち上げて確認する。
「はい。お気遣いありがとうございます。斎様がすぐに結界を解除してくださったので、無傷でございます」
特に外傷がないことを確認した斎は、ほっと重いため息をついて茉莉の手を解放した。
「君は何という無茶なことをするんだ。もし修復力が格段に速い強化型の結界ならば、君の手首は落ちていたぞ」
「申し訳ありません。無意識でした」
「無意識で無茶なことをするな。――いや。君は意識していても無茶なことをしていたな」
斎は頭が痛そうに額に手をやると再びため息をつく。
「申し訳ありません。……ただ、斎様のお体が冷えているように見えたものですから」
斎の頬が血色なく、冷たそうに見えたから温めたかった。ただそれだけのこと。
茉莉は再度謝罪しながら斎の頬に手を伸ばそうとすると、彼は戸惑ったように一歩後ずさって茉莉から距離を取った。
「ね、熱があるならともかく、冷えているかどうかを触れて確かめる人間はいないだろう」
茉莉は少し考えて頷く。
「それもそうでしたね。失礼いたしました」
「……もういい。それよりどっと気疲れしたからか、小腹が空いた。軽い朝餉を用意してほしい」
さっきは先延ばしにされたのに、何と今は要求された。これは嬉しい誤算である。
「はい! 承知いたしました。それでは居室でお待ちくださいませ。――あ、いえ。その前にお着替えをお手伝いいたします」
「いや。それぐらいは一人でできる」
茉莉が手伝おうと前に一歩出ると、斎は同じだけ後ろに下がった。
「かしこまりました。では、私は早速作りに行ってまいります」
いきなり距離を詰めすぎたことを改めて反省する。――ああ、でも。
「気疲れしてくださって良かった」
「いや、それは良くないからな……」
斎は、嬉しくなっていそいそと身を翻しながら呟いた茉莉の背に呆れたような声をかけた。




