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第15話 約束したのは私

 ――お母さま! どこに! どこに行くの?


 茉莉が必死になって母の背中を追いかけると、小さな手荷物を持った母は振り返って身を屈めた。


 ――ごめんなさい、茉莉。


 出て行く理由も、向かう場所も何一つ教えてくれず、ただ悲しそうに微笑み、茉莉の頭を撫でながら謝罪する。


 ――茉莉、伊吹をお願いね。そうすれば伊吹はあなたを守ってくれるから。必ずあなたを幸せに導いてくれるはずだから。


 犬は確かに人間を支え、良き相棒となり、家族となってくれる存在だろう。しかし幼子に必要なのは母親の存在だ。

 茉莉は幼き自分に代わって訴えかけるが、その声が届かないのか、母は立ち上がる。


 ――元気でいてね、茉莉。どこにいても、いつもあなたの幸せを祈っているから。

 ――まって、お母さま! まつりも! まつりも連れて行って!


 どれほど叫んでも、背中を見せた母はもう二度と振り返らない。茉莉は追いかけようとするが、誰かの手が茉莉を押さえて動けない。


 ――行かないで!


「い、で」


 必死に手を伸ばすと、柔らかくて温かいものが茉莉の手を包んだ。

 母が戻って来てくれたのだろうか。茉莉は重い瞼を開けると、そこにいたのは心配そうに覗き込んでいる絹だった。


「茉莉様! 良かった、お目覚めになったわ」

「本当ですか」


 少し離れた所にいたのだろうか、千尋の声が聞こえてきて、間もなく彼も顔を見せた。

 茉莉は今、布団の上で横になっていた。


「分かりますか? 茉莉様が倒れたと、斎様が式神で送って連絡してきたので、わたくしたちがお迎えに上がったのです」


 ああ、そうだ、結界だ。自分は結界を破ろうとしていた。いや、破ったはず。

 茉莉はぼんやりした頭で考える。


「申し訳ございません。お二人にはご迷惑をおかけしないと申しましたのに」


 茉莉が体を起こそうとすると、絹が茉莉を優しく止める。


「茉莉様、すぐに体を動かしてはいけません」

「申し訳ありません。斎様はどんなご様子ですか?」

「大いに反省なさっていますわ」

「反省ですか?」


 くすくすと笑う絹。


「ええ。斎様本位主義のはずの千尋さんが、それはもうお怒りでね。わたくしの出番はございませんでしたわよ」

「絹さん!」


 千尋はごほんと咳払いした。


「いいですか、茉莉様。私はあなたに対しても怒っているのです。いくら初めの結界を解いたからと言って、強化された結界に挑むなどとはいくら何でも無茶しすぎです。大怪我する危険性があったのですよ。手の火傷だけで済んで幸いだと思ってください」

「……申し訳ありません」


 千尋に言われてから手がじんじんと痛んできたので、右手を上げて見てみたら包帯が巻かれていた。聞けば一時間ほど気を失っていたらしい。


「斎様は今、どうなさっていますか」

「離れからは出られないので傍には付いておられませんが、とても心配なさっていましたし、後悔しておられましたよ」

「お食事は召し上がられましたか?」

「――ああ、いえ。どうでしょう。確認していません」

「そうですか」


 千尋の返答を聞いて茉莉は起き上がった。


「茉莉様?」


 起き上がって視線が近くなり、千尋の訝しそうな顔が見えた。


「私が結界を解いて部屋に入ったら食事すると、斎様がおっしゃったのです。ですから参ります。お部屋の掃除もしたいですし」

「でしたら私が確認してきましょう。茉莉様はお休みください。手を怪我されていますし、お体にだって負担が来たはずです」

「いいえ。私が斎様とお約束したのです」


 茉莉が首を振ると、絹は微笑する。


「茉莉様の意志はお固いようですわね。どうぞ行ってらっしゃいませ」

「絹さん!」

「千尋さん。女性にはね、時には通すべき意地というものがございますのよ」

「はい?」


 困惑して眉根を寄せる千尋を置いて、茉莉と絹は微笑み合った。



 そうして茉莉は斎の部屋の前までやって来た。


「斎様。茉莉でござ――」


 最後まで言い切る前に襖が勢いよく開いた。

 驚いて仰ぎ見ると、斎が思いつめたような表情で茉莉を見下ろしている。


「目覚めたのか」

「はい。ご迷惑をおかけいたしました」

「体は」

「もう平気でございます」


 斎はその場に座り込むや否や、丁重に頭を下げた。


「本当にすまなかった」


 その姿勢には心からの反省が見て取れる。しかし、茉莉には伝えたいことがある。


「斎様、顔をお上げくださいませ。私を拒絶するために作った結界を斎様の意に反して無理やり破ろうとしたのは、私のほうでございます。謝る必要などありません。ですが、食事を拒否したり、無駄な霊力を使ってご自分の体を追い詰めたりするのだけはどうかお止めください。それは斎様を大事に思う方々の心まで踏みにじる行為でございます」


 包帯が巻かれた茉莉の右手に視線を落とした斎は、つらそうに目を細めて頷く。

 斎は、意識が混濁していた時に茉莉の体調を気遣っていた。本当は優しい方なのだ。


「……分かった」

「ありがとうございます。それではお食事を作り直してよろしいでしょうか」


 斎は黙って立ち上がって奥へと進んだが、すぐに膳を持って戻ってきて、茉莉に見せた。食事は残さず食べていた。


「約束は果たした」


 茉莉は視線を上げて斎を見ると首を振る。


「いいえ。約束はまだ果たしていただいておりません。私は見届けておりませんので」

「私が食べずに捨てたとでも?」

「私はまだ斎様のご誠意を一度も見せていただいておりません」


 信じていないということを角が立たないように遠回しに返すと、斎はぐっと押し黙った。


「では明日の朝の食事でそれを果たそう」

「これまで一日三回召し上がっていたとお聞きしましたが」

「それはあやかしの討伐に出ていた時の話だ。今は、夕餉の時間は余裕がない」


 あやかしが活発に動き出して、食事どころではないだろうか。


「承知いたしました」

「ところでさっきの結界だが、どうやって破った?」

「このように一生懸命、力を込めました」


 茉莉は両手で襖を右に押しやる仕草をしてみせた。


「力技で通れるほど柔な結界ではない」

「先ほどの結界の時に千尋様もそうおっしゃっていましたが、私には原理が分かりかねます」

「先ほどの結界?」


 斎は眉をひそめる。


「強化される前の結界です。最初のご挨拶の時に、室内で異変を感じたのでお声をかけて部屋の中に失礼させていただきました」

「三度も私の結界を破ったのか!? では、夢だと思っていたのはまさか」


 愕然とする斎は最後の言葉を濁した。


「ところで斎様。これからお部屋の清掃させていただきたいのですが」

「え? ――あ。ああ」


 後ろめたさがあるらしい。斎は茉莉の包帯が巻かれた右手に視線を落とす。しかし。


「間もなく日が暮れる。明日にしてくれ」


 斎は無下にそう言って襖を閉めた。

 固く閉ざされた襖はもう二度と開きそうにない。茉莉は諦めて明日出直すことにした。


 その後、茉莉が絹に報告すると、今日はもう休むようにと言われた。疲れ切っていた茉莉は、慣れぬ布団と香りに包まれていても意識を失うようにすぐに眠りについた。

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