第14話 結界は心の壁
斎は体を瘴気に侵食されながら苦しみに耐え、必死で心の均衡を保っていたに違いない。それがここに来て、霊力の低い茉莉が妻として現れたせいでとうとう崩れてしまったのだろう。
回復の見込みがなく、後継者争いから脱落したと判断した統帥夫人が、斎にはこの程度の妻がふさわしいと宛がったのだと誤解させてしまったのだろう。
彩華がこの場にいたら、誤解を招くことなどなかったのに。
「斎様、誤解されています! 統帥夫人は斎様のことを心からご心配なさっているのです。なぜなら本当は、ここには私の――」
「言い訳など聞きたくもない。去れ」
体も心も不安定な今、茉莉の話を聞き入れることは難しいのだろう。しかし完全に回復されたならば素直に話を聞き入れ、夫人の気持ちをきっと汲み取ってくれるはず。
ならば今はしっかり食事して一日でも早く完治していただきたい。
茉莉は一つ深呼吸すると、再度声をかける。
「斎様、喉に通りやすいお料理を用意いたしました。どうか冷めないうちにお召し上がりくださいませ」
「不要だ。それを持って立ち去れ」
「ですが、少しでも早くご回復いただくためには――」
「去れ」
斎は長く続く瘴気によって体のみならず、心までも蝕まれてしまったのだろう。それに加えて茉莉の言葉が斎の脆くなった心をさらにえぐってしまったのだと思う。
思うが――。
茉莉は膝の上で拳を作った後、跪坐を取ると、襖の引手に手をかけて一気に引いた。
「失礼いたします!」
ばちりと右手に痺れと痛みが走ったので、一、二度手を振ると膳を持ち上げる。
「――なっ!」
襖が開いた音で振り返った斎は目を見開いて固まっているが、茉莉は構わず立ち上がって部屋の中に入った。
「馬鹿な。私の張った結界をいともたやすく……破った?」
斎は驚愕の表情で、修復されつつある出入り口の結界を見つめる。
「失礼いたします」
茉莉は茫然としている斎の横を素通りし、中央にある座卓まで行くと膳にのっている料理を座卓へと移していく。すると我に返ったらしい斎が近づいてきた。
「何をしている。不要だと言っただろう。引き上げてくれ」
「私をここから追い出したいのならば、どうぞお召し上がりくださいませ」
「……何だと?」
茉莉は立っている斎を仰ぎ見る。
「統帥夫人が斎様の意思を聞かず、勝手に話をつけたことに失望や怒りを覚えたのでしょう。その結果、やって来た娘が私のような者で絶望されたのでしょう。ならばそれを統帥夫人に、いえ、お母様に直接ぶつければよいのです。斎様には、その術も力も権利もおありのはずです」
茉莉とは違って斎はそれができる人間だ。
「幸いまだ口約束程度で、書類上で確約されたものではありません。斎様のお力ならば、いくらでも覆せるはずです」
完治したならば、少なくとも彩華が妻になることは保証されている。それでも気に召さないのならば、斎は、茉莉を代わりに寄越したことを理由に契約を無効にすることだってできる。その時は茉莉も助力する所存だ。
「ただし今のように離れから出られない状態では、その声は誰にも届きません。その声を届けるためにはこの離れから、この屋敷から外に出て、ご自身で直接訴えに行かなければなりません」
斎は、何の感情も見せずにただ黙ったまま茉莉を見つめるばかりだ。
「お分かりいただけましたか? 一日でも早く私をここから追い出すためには、しっかり食べてしっかりお眠りになって傷を治し、お元気にならなければいけないのです」
怒りの感情でもいい。斎から感情を引き出したい。
説得を続けると、彼はようやく口を開いた。
「料理を引き上げてくれ」
それでも説得に応じてくれないらしい。これ以上何を伝えれば、斎の心を動かすことができるのだろうと茉莉が考えていると。
「君が上から目線で説教している間に料理がすっかり冷めてしまった。温かいものを用意してくれ」
斎はそう続けた。
「っ! はい! はい、ただいま!」
茉莉は喜色を斎に向けると、いそいそと座卓の料理を膳へと戻していった。
茉莉が手つかずの料理を持って戻ってくるのを見ると、千尋と絹はがっかりしたが、事情を説明したところ、絹はすぐに温め直すと喜んでくれた。そうして料理を受け取った茉莉は、再び斎の部屋に戻った。
「斎様、参りました。失礼いたします」
そう言って襖に手をかけると、ばちりと痛みが走った。
「――っ!」
ほんの少し触れただけなのに、これまでよりも強い衝撃だ。
よく見れば、これまでの亀甲模様から隙間なく編まれた組亀甲模様の結界に変わっている。結界を強化したということだろう。
「斎様、恐れ入りますが、結界を解いていただけませんか。お食事をお運びできません」
「そこに置いて去れ。後で食べよう。――気が向けば」
馬鹿にした口調でもなく、ただ淡々と拒絶する物言いは、それだけ深く斎の心身が闇に蝕まれていることの証かもしれない。茉莉にはその一端を担ってしまった責任がある。
「いいえ。斎様がお食事されるところを見届けるまでは、戻るわけにはまいりません」
「ならば部屋に入ってきて、私に無理にでも食べさせたらいい。できるものならな」
斎はきっと、彼の心に土足で踏み込んだ自己本位な茉莉の言動に苛立ったのだろう。だから夜間に備えて霊力を抑えておくべきなのに、茉莉に拒絶を示すために霊力を使った。……茉莉の軽はずみな言動のために、無駄な霊力を使わせてしまったのだ。
茉莉は自責の念に駆られる。しかし一方で、こんな無駄なことに霊力を使って自身を追い込む斎の浅はかさは頭に来た。
「分かりました。私が部屋に入った暁にはすべて残さず食べていただきます」
「まさか本気で結界を破るつもりか? できるわけがない」
「やってみないことには分かりません」
茉莉は、言葉だけは軽口を叩き、襖の引手に右手をかける。
――瞬間、何かが派手に弾ける音がした後、目の前にはちかちかと星が舞い、体中には痛みなのか、痺れなのかが走った。
「っ!」
茉莉は一瞬意識が遠のきそうになったが、ぐっと歯を食いしばって戻す。
「おい! 止めろ!」
斎が出入り口の近くまで来たのだろうか。声が近くなった。
「さっきよりも強化した結界だ。君には破れない!」
茉莉は当然ながら応対する余裕などなく、目の前のことに集中する。
痺れのせいなのか、力を込めているからなのか、小刻みに震え出す腕で必死に引くと拳ひとつ分が開いた。
「なっ……!」
右手が燃えるように熱い。片手ではもたない。茉莉は左手を添えて力を込めると、さらにズズと襖が動いた。
「あと、す、こ……し」
「早く手を放せ! 今、結界を」
「斎、様。お――かくご!」
最後の力を振り絞って力強く引いた瞬間、空を突き抜けるような高い音が響き、直後、砕け散るような音が聞こえた気がした。同時に襖が勢いよく開き、斎が茉莉を見下ろす姿が目に入った。
茉莉は彼に笑顔を向ける。
「かなら、完食、していただ――」
そこまで言ったところで、茉莉の意識は白い靄に吸い込まれていった。




