虹色の日常
(げっ、積乱雲じゃん)
今目の前を流れている川をなぞった先に聳え立つ山々より遥かに高々と聳え立つ雲を見て、あの雲が溜め込んだ雨水があの山の傾斜を下ってこの川にくるのは時期尚早だろう。
(せっかくいい天気だったのに、今日はもう釣りはやめにしよ)
今日の釣果がないことをあの雲のせいにした私は手際よくエサをつけ、仕掛けを川に投げ入れた。
川というのは突然に豹変する。
照りつける太陽の下、底が見えるほど水が透き通り、水面ぎりぎりを蝶やトンボなどの虫が飛び交い、心地良い水の音が人間を含めた動物を和ませていた川に、大量の雨水が降った途端、水は土が混じった茶色になり、虫や動物たちはその川から遠ざかり、騒音になるほどの野太い音になり、川は豹変する。
私はそうなる前に悪足掻きをしていた。
(ギョギョっと大きな魚かかれ〜鯉でもいいからこい〜)
いつしかこんなしょうもない気合い入れをするようになった。
そういえば、この言葉を最初に言ったのは幼馴染のツキだった。
今から1年前の8月1日。
その日は幼馴染のツキとこの川のもう少し上流の方に来ていた。
「ギョギョっと大きな魚かかれ〜鯉でもいいからこい〜」
「なにそれ?おまじない?」
「違う違う!私なりの気合いの入れ方だよ!」
ツキは昔からこういう謎めいたことを言う。
正直、毎回反応に困るけど、何気ない日常も楽しくなるから私はツキのそういうところを好んでいる。それに加えて、あー見えて純粋無垢な姿勢で何事にも一生懸命取り組んで楽しんでる姿も好んでいる。
そんなツキの姿を見ると、ツキの瞳がキラキラした虹色に見えてしまうのは気のせいだろうか。
今日は私の趣味の釣りに付き添ってくれているけど、正直ここまで真剣に取り組んでくれるとは思わなかった。
エサの川虫を見ただけで悲鳴をあげると予想していたけど、そしらぬ顔で川虫を釣り針に刺している姿はベテランの釣り師のようだった。
しばらくして、小学生が絵に描いたようなふっくらした大きな真っ白い雲が、近くの黒いカブトムシの絵の具が混ざったかのようにグレーに染まっていた。
それを見て危険だと察した私はツキにそろそろ撤収することを伝えた。
「天気も怪しいし、もう片付けよう」
「うん!わかった!」
結局この日はお互い何も釣れず、ボウズで終わったがツキの表情は満足そうだった。
正直、このボウズの日ですら楽しめてしまったら最後、釣りという沼にハマってしまった証拠だ。
ちなみに、このボウズという言葉は釣り業界では魚が1匹も釣れなかったことを表し、由来はマジのお坊さんの坊主から取ったものと言われ、"もう毛がない""魚っ気がない"などという親父ギャグてきなものが語源と言われている。
こういう話はどちらかと言うとツキの方が好みそうだったので、今と同じ説明をした。
「なるほど!じゃあ今日は驚きがなかったね」
「どういうこと?」
「驚きがなかった……ギョエェェ!!がなかった……魚影がなかった」
一瞬、辺りの蝉たちが鳴くのをピタッとやめ、山の方から涼しい風が私たちの身震いを誘った。
「早く帰ろうか」
「そうだね」
その光景を見ていたさっきの雲が、さらに追い討ちをかけるように雷を鳴らし始めた。
いつ降り出してもおかしくない中、私たちは川の土手を自転車を漕ぎながら帰っていた。
「結局お互い釣れなかったね」
「そうだね。私の気合い入れも不発だったよ」
「いや、あれ意味ないって」
「まあ確かに意味があるかどうかって聞かれたら自信ないけど、魚も本気できてるわけだし、こっちも本気で対抗しないと!ってね」
ツキは本当に何に対しても真面目だとつくづく思った。
それに関するエピソードで、この前ツキが真剣に電話の応答してたから誰からか聞いたらセールスの電話ですぐに切らせたこともあった。
正直、ツキの将来がかなり心配である。
すると突然、ツキが自転車を漕ぐのを止めた。
「やばい!さっきの場所にスマホ忘れた!すぐ取ってくるからここで待ってて!」
「私も一緒に行くよ」
「いいよすぐそこだし。光の速さで戻ってくるから!」
「でも」
「ほら!もう行くから!よーいスタート!……あれ、光の速さってどのくらいだっけ……」
そう言いながら立ち漕ぎでその場を離れていくツキの体と自転車がメトロノームのように揺れながら徐々に小さくなっていくのが見えた。
まあすぐって言ってたし、タイムを測りながらでも待つか。ちなみに光の速さだともうとっくのとうに帰ってきてるはずだけど。
次第に雨が降り始め、気づいたらさっきの雲は私の上空を覆うように広がっていた。
「10分イーチ、ニー、サーン……」
しかし、いつまで待ってもツキは戻ってこない。
セールスの電話に真剣に対応するくらいのツキだし、もしも怪しいおじさんにでも絡まれてたらと思うと、心配になってさっきの釣り場に急いで戻ることにした。
雨は土砂降りになり、雷は鳴り続き、川の水は茶色く濁っていて確実に増水していた。
川の土手をスキーのように斜めに自転車で下り、さっきの釣り場に最短で向かった。
「ツキ〜!どこいるの〜?雨も降ってきたし早く帰ろうよ!」
しかし、ツキからの返事はなく、たとえあったとしても耳をすまさないと雨と雷と川の音で全く聞こえなくないほどだった。
すると、ツキの自転車が倒れていた。
さらにそのすぐ近くにツキのスマホが落ちていたが、画面は割れていて、投げ飛ばされたような跡があった。
向きからすると川の方から飛ばされてきたのは間違いなく、私は一歩一歩吊り橋を渡るように川に向かって歩み始めた。
「ツキ……いるなら返事して……」
歩数と声が反比例するように一歩進めば声が小さくなるを繰り返していき、声が収束しきったところで、私は目の前に見えた痕跡を見て確信した。
ツキは川に落ちた。
川の縁には滑ったような跡があり、スマホの位置からしても妥当な位置であった。
私は全身から崩れ落ち、大量の涙を流したが、それがわからないくらい雨が顔に打ち付けていた。
まるで、この辺りに降ってる大粒の雨が私が流してるかのようだった。
その後、急いで警察に連絡したけど、ツキは見つからず、1年たった今でも行方不明のままである。
私の虹色の日常は普通の日常になってしまった。
私は視線を仕掛けのあるウキからツキが行方不明になったこの川の上流へとゆっくりと移し、あの日のことを思い出しながらぼんやりと眺めた。
しばらくして、視線を再びウキに戻そうとした。
「なにあれ?」
100m先くらいに明らかに不自然な波紋が見え、それがこっちに流れてくるのがわかる。
しかも波紋は数えられないほどあり、まるでシャワーの水を湯船にかけたような波紋のつき方だ。
当たり前だが、そんな人はいない。
さらにその謎の波紋が私に近づくと、その正体が大量の魚の群れだということがわかった。
だが、なにやら様子がおかしいと感じるのは気のせいか、その大量の魚は荒ぶっているように見え、歯止めがかからない状態に見える。
さらにそのすぐ近くで大きな魚影が見え、その魚影を追いかけていると、その魚影から水面に体をチラッと出し、太陽の光を見事に反射し、銀色の体をギラっと反射させた。
「やばっ!」
それに気を取られた私は、足元を気にしておらず、足を滑らした。
(私ってどうしてこんなにドジなんだろう……足元は岩場だし、頭ぶつけたら終わりだ……せめてツキともう一回会いたかった……)
(また虹色の日常を……)
私はそっと目を閉じた。
"諦めないで!!"
人生を諦めかけたその時、手の先から神経を伝って脳に伝導するようになにか聞こえた。
周りには誰もいなかったし、誰の声かもわからなかったけど、私の手は無意識にその言葉に引っ張られるように反応し、持っていた竿だけは絶対に離さなかった。
そして、私は気を失った。
最後まで読んでいただきありがとうございます!この作品からデビューしました"足がつらない釣り人"です。X(旧Twitter)にてこの名前のアカウントがあります(※諸事情で名前が"つりび先生"になってます)ので、この作品を気に入っていただけた方がもしいらっしゃれば、フォローしていただけると大変嬉しいです。